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未分類  作者: 藍原センシ
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「詩を書きたくば文章を読むべし」

(初出 note、2024年6月27日)


 軽薄短小な言葉のみで綴られた詩文学は調理中の料理をそのまま賓客に饗するようなもので、詩人には外界の物質や概念に鎧われた詩境を見透かし虚実皮膜(ひにく)を体現する感性のみならず、根本的に文章力が求められねばならない。

 詩は外界の至る所に、煙草の吸い殻の如く落ちて転がっているものだろうか。それとも、書き手の内部に存在する詩情から浮上し、原稿用紙や液晶画面の上で紙の下のインクが滲み出すように表出するものか。「詩」が外部に存在するか内部に存在するかという前提からして、私には(いささ)か主語が大きすぎる感が否めない。

 外部にあるのは詩境である。万物の裏側に、詩境は太虚の如く一続きに存在し、人の感性によって見(いだ)されたその一部、クッキーの生地を型で抜くように切り取られた形象がそこで初めて「詩」となる。この型が作り手側の持つ、いわば内部にある詩情である。詩境と詩情が遭遇し、琴線が奏でられた時にそれは詩として生まれ出るといえる。詩そのものが、最初から完成された状態では何処にもない。

 畢竟、詩は「作る」というより「書き起こす」ものに近しいのではないかと私は思う。あらかじめ自らの中に主題=詩情を持っておき、それを以て適切な言葉を詩境から採取していく。あたかも、あらかじめ決まったクッキーの型を用意し、それで生地を抜いていくように。しかし、クッキーは同じ型で抜いたとしても多少歪んだり、太くなったり或いは逆に細くなったり、一部が欠損したりする事もある。これが詩作に於ける、同一作者による作品ごとの差異である。「生死」を創作全体を貫くテーマにした私の友人は、主軸をそれと定めつつ外界からはバイキンマンのキーホルダーを拾ってきたり、眠剤の欠片(かけら)を拾ってきたりする。定型化された主題から外界のアイテムが固有の意味を付加され、憑拠として演繹されているようにも、外界のアイテムに作者が意味を見(いだ)し、一つの主題へと帰結させているようにも思えるが、実際には詩作は、作り手という主体内外の折衝である。

 詩境は、感性の鋭い人間には否応なく干渉してくる。正確には、詩情そのものは誰の内にも存在し、詩境とかち合い(まぐわ)った瞬間に生まれた詩が「作品」として出力されるか、というところに詩人とそれ以外の壁がある。例えば私たちは夏の入道雲に巨人の城を連想し、飛花落葉を命の儚さに喩える。その時点で、まだ書き起こされていない段階での詩は形成されている。文章力は、これを最適な言葉で可視化する為のツールなのである。

 言いたい何かがそこにあるのに、言葉が出てこないと牴牾(ていご)を感じる。詩作もそれと同じで、主題に対する依り代を見つけても、それを芸術的文句の中で置くべきところに置けないと弛まずに決まらない。「悲恋」を主題にした作り手が「ああこんなに愛しているのにあなたはここに居ない、胸が張り裂けそう」と延々と繰り返すようなのは文章以前に詩境と接触出来ていないので論外として、詩境から得たアイテムをそのまま組み込みながら「○○みたいな」「○○のような君との人生/恋は」などと綴ったのでは、それでも今一つ片手落ちである。

 しつこいようだが、詩情自体は誰にでもある。何を見ても何も連想出来ない、というような人も居る事には居るようだが、それは考えていないだけで、しっかりとその気になれば詩境の方から決して少なくはないヒントを返してくれる。つまり、感性は才能が百パーセントではない。先人の詩集を読めば、誰がどのようなテーマに何を凝集させたのか掴む事が出来、連想がしやすくなり、次なる詩境の発掘作業にそれらは貢献してくれる。

 しかし、感性を磨く為に詩集を読む事があっても、詩の書き方を学ぶ為に詩集を紐解こうとする事はあまり適切だとはいえない。詩情に磨きが掛かっていても、それと詩境の接触点に生じる詩を言語化出来るかどうかについて、頼りになるのは文章力のみだ。そして詩集は、既に「詩」として完成されたものを収録している書物なのでその抽出方法は教えてくれない。

 Xを始め、ネットで現代詩をざっと渉猟すると、詩が詩であるアイデンティティを欠いた作品が目につく。詩のアイデンティティは短い事でも、ページの端まで行かないうちに改行されているという外見的な事でもない。それで詩として成立するのであれば、この文章も文節ごとに適宜改行を加えれば詩だという事になってしまう。それでは、詩は小説や随筆を簡略化、露骨に言えばファストフード化したものだという事になる。内容の足りなさ故の説得力の不十分さや、月並みに堕した構成が目立ち、畢竟散文の劣化版という評価を免れない。

 詩と小説や随筆の間に何らかの繋がりを求めるのだとすれば、散文を極限まで搾り尽くし、それを欠いた瞬間に詩の独自性が失われるという言葉だけを残したものこそが詩であるといえる。「ああこんなに愛しているのに(以下略)」は、残すべき言葉を残さなかったせいで個性を失った訳だ。

 この、詩が生まれる前に詩境から切り取った素材、クッキーの例を引き摺れば焼く前に型で抜かれた生地の部分を、調理する為に一旦可視化させる段階で、文章力が必要になるのだ。必ず一回散文化するプロセスを挟め、と言っているのではない。散文のように、搾られる前の言葉たちを並べる時、その文法や言葉選びが破綻していては詩にする際に崩壊する。下手をすれば、ナンセンスな単語を列挙しただけの搾り滓になってしまう。

 そして厄介な点は、文章がそのような形で破綻していれば「何となく気持ちが悪いな」と作り手自身にも分かる事だ。そうなると、破綻しない自らの内にあるだけの文法──主語と述語を取り敢えず用意してここで体言止めを使ってみようかな、難しい言葉は省いていいや、などと無難な方向に行き、結果何を書いても同じようなものしか出来上がらなくなる。

 感性よりも先に文章力が磨かれねば、せっかく詩境から掬い上げたものの輪郭を捉えきれないまま終わってしまう。その為「詩」を抽出する為には、まず大本となる長文、散文、総じて「文章」を読んで学ぶ事が不可欠である。文章を読む訓練なしに文章が書ける訳がなく、文章を書けないのに形を成していないそれらから詩を絞り出す事が可能であるはずがないのだ。しばしば「物語が書きたいけれど小説を書く程の力はないから詩で勝負します」という創作者を目にするが、そのような考え方は詩に対しても小説に対しても冒瀆である。

 詩を書きたければ、搾り終えた言葉で綴られた詩としての句ではなく、文章を読むべきだと声を大にして言いたい。こちらは誰かの詩情を通していない分無数の素材を内包している。それらが、どのような言葉でどのように配列され、日本語文法によって形を成しているか、詩人としての活動を始めたばかりの人はもう一度よく観察すると良い。

 参考書だけを読んで文章の書き方を覚えたような気になってはいけないし、楽曲を聴いて歌詞だけを追い、詩とはこういうものかと早合点してもいけない。億劫がらずに文章を読む。迂遠に思われて、それ以外に楽な近道などない。詩は気紛れに思い立って書こうとしても、”作れ”はしない。ごく自然に拾い上げ、精錬する為には、虚飾のない文章力をあらかじめ定着させておかねばならず、ぶっつけ本番では務まらない。もしそれで何らかの作品を書けていると思い込んだら、それが本当に詩境との遭遇を経たものなのかを一度考える必要がある。

 私は、そうして詩の()()()()()が作られ、何だ、案外自分にも書けるな、などと思い込んでしまうような境地を偽りの詩境と捉え、禅に於ける(まやか)しの悟りになぞらえて魔境と呼んでいる。私自身が一度創作スランプに陥った時、そもそも詩の書き方を掴んでいなかった故に詩境の存在を測れず、どのような言葉を綴っても魔境の産物の如く感じてしまった事があった。当時、私は小説から書き始めて詩に入り、半年程が経過した頃だったので、ともすれば魔境に流されそうになる自意識を繋ぎ留める為の(よすが)たる文章力を身に着けられていなかったのかもしれない。

 揚羽蝶は漆黒か鮮やかか、という命題は詩境の産物である。泥炭地に佇む子供が見つめているものが、伊吹麝香草(いぶきじゃこうそう)か湿地帯の苔か、という命題も詩境の産物である。ベンチに座った「ぼくときみ」が見つめているものがお互いの影かカレット舗装を施されたアスファルトか、という命題も詩境の産物で、「あなた」の事が忘れられなくて胸の痛みをどうしようか、という命題が魔境の産物である。そして詩境か魔境か──これが、文章力の問題である。

 感性に文章力が先立たなかった場合、詩は生まれず感性も不要となる。磨こうと思って磨く事が出来るのならば、詩を書きたいと思っている人は磨くべきだ。ただ思いついた言葉を書くだけでいい、という場合、私は彼または彼女を創作者と呼ぶ事はないだろう。

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