「万有詩情論」
(初出 note、2024年6月29日)
詩を書く目的は千差万別であれども、生きづらさを抱え、自己を現実に繋ぎ留める最後の手段としてそういった形を採る人は居る。文学は日々の暗さをも芸術の域に昇華出来るものであり、公園の鉄柵に掛けられた警告表示も地下鉄の窓に散らばった白片も、用水路の縁に引っ掛かっているレジ袋ですらも、詩人が己の琴線をそれによって爪弾こうとすれば無限の意味を持つ。
石川啄木は「食ふべき詩」という文章の中で「すべて詩の為に詩を書く種類の詩人は極力排斥すべきである」と述べた。詩は作るものではなく、個々人が自分の内に存在する詩情を指標に拾い、磨くものであり、生きづらい人々にとってはそれが砂漠で見つけた泉の如く、それそのものが私たちに寄り添う意図を殊更に持っていなくても救済になり得るものである。いわば、手段としての詩であり、これが目的とすり替わった時「詩を書くには説得力を持たせる為に病んでいるように振舞わねば」という考えが生まれてしまう、という意味だと私は解釈している。
何によって心に平穏がもたらされるか、何がその人にとって心の支えになるかが定まっていない以上、詩に救済を求める詩人たちにとって、外界に存在する全てのものに詩の材質は備わっていると言う事が出来る。この材質が備わった外界を総括して詩境という言葉で表し、個々に関しては私たちの情緒と同じく詩情という言葉で表白しようと思う。
客体は、詩人側の持つ詩情によって様々に移り変わる。私が最初に世に送り出した長編詩「黒揚羽」から例を引っ張ると、揚羽蝶を見た時ある人は「真っ黒だ」と表現し、またある人は「鮮やかだ」と述べる。或いは、初夏の梔の陰で羽化を待つ蛹たちを見て、生まれた事を「生き始めた」とも言う事が出来るし、もしくは「死に始めた」とも言える。見ている蝶や蛹という”対象”自体は同じだろう、と反論されるかもしれないが、自分と同じ形状を持つ物体を自分以外の誰かが見ていると、どのようにして証明出来るだろうか。
観測自体は誰にでも出来る。これを、持てる言葉の限りを尽くして自らの詩情と関連づけ、不純物を叩き飛ばすように書き換える。その過程で、最初に切り出した事物が限りなく希釈され、影だけが色濃く残る事もあるだろう。中原中也の「羊の歌」に羊は登場しないし、原民喜の散文詩「浮寝鳥」に水鳥を示す直接的な言葉は書かれていない。ただ、これらの詩を指して羊や浮寝鳥という言葉が使われた時、至適な吻合を感じたのであれば、それは中原中也や原民喜の詩情と、詩人の外部にある事物の持つ詩情、そして読み手である私たちの詩情が結びついたという事であり、観測対象が詩中で綴られた言葉と共有し得る詩情を持つ事が証明される。
楽曲の歌詞と詩を混同して語るのはナンセンスだが、ヨルシカの作詞作曲を担当するn-buna氏の紡ぐ言葉にはそれのみで詩として成立し得る文学性があるので例に取り上げる。彼らの『テレパス』という楽曲に、次のような一節がある。
「どう言えばいいんだろうか
例えば雪化粧みたいな
そう白く降ってるんだ」
「寂しさ?それを言いたかったのね」
「そう言えばいいんだろうか
溢れた塩の瓶みたいで」
同じような「想い出」に関する対話が二番にもあるが、これが私には詩というものの真諦をこの上なく表現したものだと思っている。二人の人物がそこに居るうち、片方は観念的な言葉の殆どを失ってしまったように捉えられるが、彼または彼女は身に覚えのある「寂しさ」という感情を「寂しさ」という言葉で表白し得ない代わりに雪化粧や塩の瓶を引き合いに出している。「そう言えばいいんだろうか」と答えは明確にされていないが、これが「寂しさ」の意味を持って伝達された時、形而下の物体である雪や塩は詩情を伝媒する役割を持つ。その詩情は、「寂しさ」を抱えた語り手のものであると共に、物体の持つものでもある。
ある素材から詩を抽出しようとした時、素材そのもの──形而下の物体が持つ詩情と、それを切り出す為の自己内部の詩情──形而上の概念が持つ詩情は、ぴったりと寸分の狂いもなく重なり合う。故に、詩は殊更に作ろうとする必要がない。探すまでもなく全ての事物が詩情という形で有しており、詩に救いを求めるのであれば自分で作った気になってはならない。それでは、最終手段として文芸に求められる救済を自らの手で完結させてしまえるという事になり、意義は喪失する。作ったものも、吐き出した言葉の羅列以上のものにはなり得ないだろう。
何かしらの意味がある文章を綴る程度の事は、誰にでも出来る。「朝起きて顔を洗った」でも「朝食にトーストを食べた」でも”文章”ではある。しかし、これは文芸ではない。これを詩だと主張されたら、創作を何だと思っているのだ、と怒りを感じる事は免れないだろう。同様に、万有詩情を経ずに構築された文章、例えば「あなたが好き その仕草も声も不器用なところも全部」や「あなたと居るだけで私の毎日は幸せなの」「死にたい、死にたい もう限界」というように、深める余地もないような言葉だけで最低限日本語の体裁を取っているだけの文章は詩ではない。これで救済が成立した場合でも、それは文芸が人を救ったという証左として扱う事は出来ないと私は考える。
この詩情は、思想や哲学、感情と等式で結ばれるものではない。死生観は哲学ともいえるし、愛別離苦は感情でもある。しかし、これらに対して、これらと全く同じ名前を持って裏側に紐づけられている概念が詩情である。「寂しさ」は、「寂しさ」という感覚と、それを言い表す為に付けられた「寂しさ」という名前──丸山圭三郎の評論「言語と記号」の表現を借りれば「言語記号」──が複合してそれそのものを成しているが、この名前=言語記号を排してしまっても文芸への「寂しさ」の参加を許す最後の根拠が詩情である。世界中の人々が今この瞬間、同時に「寂しさ」という言葉を忘れ去ってしまっても「寂しさ」そのものは残り、雪化粧や溢れた塩の瓶でその概念を表現する事が出来る。この時私たちは、「寂しさ」の詩情を素材に詩を成立させた、といえるのだ。
概論としては、プラトンのイデア論に近しいのかもしれない。全ての事物や現象には唯一の雛型であるイデアが裏づけられており、私たちの観測している現象そのものはその偶像であるという考え方だ。クッキーでいえば生地を抜く為に使った「型」であり、影絵であれば影を映し出す為に操作される人形がイデアに相当する。ただ、詩作に於ける詩情がイデアと決定的に異なる点は、詩情は有限ではない、という部分にある。
イデアは有限とされる。永遠、不変的ともいう。人間には人間の、犬には犬の、天使には天使のイデアがある。だが、仮に私がここで「犬間」なる概念をでっち上げたとして、それにイデアは存在しない。他方、詩作では名付けられた瞬間どうしようもなくそこに存在を始める。草野理恵子の作品にはしばしば異形の”何か”としか言いようがないものが登場するが、それは圧倒的な存在感を持ってそこに在る。私たちの琴線に共鳴するだけの意味ある詩の材質として、立派に詩境から切り出された姿でそこに存在を成立させている。詩に論理立った物語は不要だが、仮にそれが小説にでも現れ、冒険を繰り広げれば私は感情移入するだろう。
イデアの有限を考える時、私たちの認知する事物が似像でしか有り得ないのだとしたら、私たちの見る「人間」と「『人間』のイデア」、どちらが先に存在するのだろうという疑問にぶつかる。機械学習を行う人工知能が大量の画像データから対象の特徴点を捉え、認識の精度を上げていくように、人間なら人間、犬なら犬、ペンギンならペンギンを見てそれらから同一のイデアを形成していくのか、それとも最初に見本となるイデアを見て(何処でかは知らない)、それとの一致度を測り、一定値を超えた瞬間からそれと認識し出すのか、という事だが、この文章は哲学講座ではないので哲学者たちそれぞれの主張を取り上げる事はしない。
詩情には明確な答えがある。詩人が詩境を観測し、詩を書いた瞬間、そこにたとえどのようなナンセンスな存在が現れたとしても、それは詩情を持つ。物質をどれだけ細かく裁断してもそれぞれが万有引力を持つように、詩境自体が壮大な詩情の総体であり、それをどのような形で切り取ったとしてもそれは同一の万有詩情をその切り取られた形そのままに背負って現れるのである。
蝶に生死を表白する資質があり、帰り道に背負われたインテリアに成就した恋愛が連想されるように、どのような事物に、どのような概念をも結びつけられる理由がこれで明らかになったと思う。既存の作品、それを創った詩人、その詩人が創らなかった文芸、この先創られる文芸、全てが万有詩情を母体とする詩境の存在である。私たちは、広大な詩境に囲繞されている。
最初の方で、詩が生まれる瞬間とは詩人の持つ詩情と外界の詩境(及びそこに属する詩情)とが遭遇した時だと述べた。矛盾ではないか、と思われるだろうが、これは万有詩情が分割可能な事を考えれば至極当然の事だ。「私」が「私」に出会う事が出来ないように、一繋ぎの詩境がそれ単体で存在していては詩にはならない。観測する主体と観測される客体、詩人と外界に役割を分担し、それ故に化学変化的な新たな産物=詩の誕生に繋がるのである。酸素と水素が結びつき水になるように、或いは酸化鉄、錆が炭素によって酸素と精鉄に分解されるように。
私の印象として、詩の評価観点は従来芸術的か通俗的かなどというところを第一の指標に設定されがちであるが、彼らの言う「通俗的」はそもそもこの言葉を必要以上に悪しきものとして捉えすぎている(大方「低俗」などと混同しているのではないかと思う)。むしろこの批評は「詩として成立しているかどうか」という表現に置き換えた方が良いような気がする。詩境を経ず、捻りのない感情の吐露に終始した作品は通俗的ではなく、そもそも詩ではないとして扱うべきである。それ以外は、全て「それを書いた詩人にしか書けない作品」という点から独立して論ずるべきだと私は思うので、詩のコンクールやらには関心を持てないが、敢えてその上で「詩」の優秀作品を多くの中から選出するのならば究極的には「どの作品が最も琴線に触れたか」が要点になるだろう。
ここに理屈は要らない。詩は畢竟万有詩情の主観による変形であり、それを更に詩情を以て読めばまた解釈は読み手の主観に依存する。主観で客観的かつ分析的に、などと詩を解体するような読み方が出来る訳がないし、解体してしまってはそれは言葉の並びであって文学性は損なわれる。詩はその順番で、その言葉で並んでいるからこそ一繋ぎの芸術品として成り立っているのである。
評価に趣味嗜好が先立つのは、大いに結構どころかそうでなければならないとすらいえる。しかしそれを「それはあなたの感想ですよね?」などという言旧られた反論で一蹴する人が多いのは、ひとえに万有詩情への自覚の低さが原因だと思われる。誰もが──創作者であれば特に──が、無意識のうちに通っている世界なのだから、意識さえあれば良いのである。それは「自分は詩人なのだ」という矜持であり、日々の暗さの中で救いを求めて詩を、それこそ血を吐くように綴っている者にとっては死生に立ち向かった記録、「そのままの自分が生きていてもいいのだ」という精神的支柱にも繋がる。
万人の救済を目指すのは宗教の役目だ。どう生きるべきかという道標を提供するのは思想家や哲学者の役目である。自分で自分を認め、世界の一部である、人間一人分の観測を行った、という肯定=需要=許しを証明するのが詩人のアイデンティティである。第一に、自分の為の文芸で、それが自分に帰結するのみならず誰かの救いになれば更に幸いである。その程度で構わない。
万有詩情は、寄り添うのとは異なる在り方で何処にでも存在する。散歩中に見つけた花や綺麗な景色が、特に誰かに見せようという目的も持たずしてそこに存在しているように。詩境を感知する事が出来る人間の想像力は、思考し、本能に背馳してでも自らの命を絶つ事すら出来る私たち種に与えられた最大の特権であろう。




