「ハルモニア」③
* * *
「い、いいんですか、本当に……?」
国防軍詰め所、女子寮の前で、大荷物を背負った律は尻込みする。
彼女──安威恵美子一佐はあははと笑い、こちらの背中をバンッ! と叩いた。
「心配するなって。俺、律ちゃんの事襲ったりしないからさ」
「そういう問題ではなく」
「本当に遠慮は要らないって。ルームメイト、居なくなっちゃったからさ。やっぱり一人じゃ寂しいじゃん?」
冗談めかして付け加えられた言葉に、律はドキリとする。事前に安威一佐から伝えられていた、通常では二人で一室という規定で使用されている国防軍の寮室で、彼女が一人で部屋を使っているという事について、何故かという詳細な理由は説明されていなかった。
少し考えれば、理由などすぐに分かる事だったからだ。
「居なくなっちゃったって……」
「ああ、昨日の件でね。まあこういう事もあるって、分かっていなきゃ職業軍人なんかやっていないよ。冷たいって思われるかもしれないけど、割り切らなきゃ死ぬのは自分たちなんだ」
安威一佐は言うと、さっさと部屋の中へ入って行く。律は恐る恐る、
「失礼します……」
声を掛けながら、室内に足を踏み入れた。
昨日、憑魔を戦闘の続行困難に追い込みながらも倒しきる事が出来ず取り逃がした律は、戦闘が終わるや否や基礎部分の破壊されたビルが自分に倒れてくるのを目の当たりにし、気を失ってしまった。下敷きになる事も、崩壊した瓦礫によって大きな怪我を負う事もなかったのは不幸中の幸いだった。
ややもすれば、律は初めての実戦で、母が見ているという意識の為に抑え込んでいた緊張が、そこで一気に押し寄せた結果、倒れてしまったのかもしれない。気が付けば自分はフェガト本部の医務室でベッドに寝かされていた。目が覚めて見知らぬ天井が目の前にあった時は取り乱しかけたが、意識を失う前に何が起こったのかを思い出すと、自分が生きていたという事にまず安堵した。
しかし、地獄はそこからだった。
「本多司令……律ちゃんのお母さんから、伝言よ」
専属医の諏訪先生は、やや気の毒そうな顔をして律に告げた。
「体調に問題がないようだったら、百八階、トレーニングルームに来るように、だって。あの人が直接話したい事があるから、って」
「そう、ですか……」
律はすぐに、母の意図を理解して気が重くなった。職場でも母の厳格さは職員たちの間で広く知れ渡っているようで、今回の作戦で律が行った事──或いは行えなかった事を知る者たちは、作戦に参加した多くの軍人たちの命を救ったにも拘わらず、これから律が受けねばならない事を想像して気の毒がっているようだった。
「もし、律ちゃんが嫌なら、私の方で報告しておくわよ? 怪我が結構深刻で、起き上がれそうにないって」
「いえ、それは大丈夫です!」
律は慌てて断った。諏訪先生の気遣いはありがたかったが、これで自分が当分の間再起不能などという事になったら、母はまず確実に、律に対して失望するだろう。それは律にとって、何よりも辛い事だった。
そして、伝言通りにトレーニングルームへ赴くと、丁寧に気圧までが地上とそれ程変わらないように調整された部屋で、律は母から今までと同様の戦闘訓練を受けさせられ、足腰が立たなくなるまで打ちのめされた。
「お母さん、こんな事をしている暇、あるの?」
堪えられなくなり、律はささやかな反抗の言葉を──彼女にはそうと分からないような形で口に出していた。
「まだ、憑魔は新潟の方に居るんでしょう? こっちに近づいてきたとしても、おかしくない距離じゃない……」
「誰のせいで、このような事態になったと思っているの」
母は、一際強く投げ技を繰り出した。稽古というのはやはり名目で、自分に罰を与えると共に、戦闘中に募った娘への怒りをこうして発散しているのではないか、と律は勘繰りたくなった。そのまま暴力を振るえば体罰となるが、このような形でなら訓練という大義名分が得られるから。
「確かに、現状は急を要する事態だわね。だからこそ、ちゃんとしてくれない人なら要らないの。ちゃんと戦わないなら、帰って貰うわよ」
「私が帰ったら……どうするの?」
律は、母の拳術により切れた口の端を拭う。少量の血が跳ね散り、マットに刷毛で擦ったような黒い染みが付着した。
怒り心頭にも拘わらず、冷静さを演出している母に、律は逆に苛立ちが募った。先程よりも分かりやすく挑戦的な事を言ってみた律だったが、母の反応は微塵も変化しなかった。
「フランチャイズの子供たちなら、あなた以外にも居るわ。フェガトが存在を把握している人物も複数、本部詰めも一人居る」
「それじゃあ」
その子に戦わせれば良かったのに、と言いかけた時、母は素早く「但し」とこちらの言葉を遮った。
「彼女は既に、ヨグ=ゾフトに敗北していたわ。あなたみたいに、フォヴォーラ出現から十分に時間を掛けて、戦いに臨んだ訳じゃないからね。かなり消耗していたけれど、きっと私が命じれば再び傷を押して戦場に出ていたでしょうね。それこそ、死ぬまで戦ったかもしれない。あの子、いい子だもの」
律は、屈辱に歯を食い縛った。母はこれだけのセンテンスで、自分に覚悟を決める時間的な余裕があったにも拘わらずその時間を蕩尽した事、自分のフランチャイズとしての自覚不足、同じく戦う術を持った他人と比較しての優劣を律へと突きつけたのだ。しかも最後のものには、+律がフェガト司令・本多きららの娘であるにも拘わらずというおまけ付きだ。
言葉を失う律に、母は
「誰の為、何の為にあなたは”特権”を使うのか、もう一度よく考えるといいわ」
と投げ掛け、訓練という名の懲罰を終えたのだった。
実戦前に安威一佐から掛けられた言葉とほぼ同じ内容ながら、母に言われると何故これ程反抗的な気持ちが芽生えてしまうのだろう、と自問し、律は自分が本当に、母が好きではないのだな、と思った。
律が残り、引き続きヨグ=ゾフトとの戦いに参加するならば、フェガトで滞在用の部屋を与えるとは言われた。律としては、怖くて堪らない戦いに半ば強制的に参加させられ、その上で理不尽な叱責を受けたのですぐに帰りたい気分だったが、自分の取り逃がした憑魔が真都心周辺を徘徊しているという事、自分が戦いを放棄すれば、母から告げられた”彼女”なる誰か──傷を負い、苦しんでいる少女(フランチャイズはフォルブレイク世代からしか出現しない為、現時点では絶対に未成年だ)が代わりに死に追いやられるという考えが、自分に大人しく引き返すという選択肢を与えなかった。
自分でも、この性格をお人好しが過ぎる、と嫌になる事がある。”彼女”というのが誰であろうと、律はその子と顔を合わせた事もないのだ。知った事ではない、と強気に言えば、幾らでも言う事は出来た。
「だけど、そうはしなかった。十分に偉いよ、律ちゃん」
今回の作戦が完遂されるまで残留する、と母に告げた後、医務室で荷物をまとめながら、律は正直な気持ちを諏訪先生に話した。彼女は懐に入って来るのが上手く、自分の残留決定について優しい言葉を掛けられているうちに、律は彼女に対して自然に心を許していた。
そして、律が本当の気持ちを言った時、丁度そのタイミングで部屋に入って来た安威一佐から、このような言葉を掛けられたのだ。
「安威さん? どうしてここに?」
無事だったんですね、と口に出す前に、律はそう言ってしまった。
軍服を着ているのはまだしも、相変わらず巨大なゴーグルを装着したままの安威一佐は、苦笑混じりに頭を掻きつつ「実は」と言った。
「上から頼まれちゃってね。君を、俺の寮室に泊めるようにって」
「えっ?」
律は刹那、何を言われたのか分からなかった。
数秒後、自分=女子学生/相手=いい歳をした男、という図式が頭に浮かび、羞恥心と母親への怒りから顔が火を噴きそうな程熱くなった。
「あんまりじゃないですか、それは?」
まだ実質的には”対面”すら済ませていない相手に向かって失礼だ、という事も失念し、律は閊えながら叫んでしまっていた。
「私だって、魔法戦士である以前に女子なんですよ」
「あー、えっと……」
そっか、気付いていなかったか、と、一佐は困ったように独りごちた。
「女が一人称『俺』って、そんなにおかしいかな?」
「ど、どういう事ですか?」
一佐はゴーグルを外し、その縁で放物線を描くように根元を逆立てていた前髪をさらりと払った。眉に掛かるか掛からないかという辺りで綺麗に切り揃えられた、おかっぱのそれに縁取られた顔の上部には──律が予想だにしていなかった、睫毛の長い二重の目が並んでいた。
「俺は安威恵美子。宜しくね、律ちゃん」
律は、愕然とするあまり顎が外れそうになった。
「てっきり、もう一人のフランチャイズの子と一緒だと思っていました」
安威一佐の寮室は、二段ベッドが部屋の三分の一を占める程の小ささで、壁際にミニテーブルがあるだけだった。その机上も、電気スタンドと、数冊のノートや文庫本を立てたブックエンドのみで殺風景だ。着替えを始めとする日用品は見えないが、恐らくベッドの下にある収納に収められているのだろう。
あまりの殺風景さに、律は大容量のダッフルバッグを持って部屋に転がり込んでしまった自分が恥ずかしくなった。
「まあ、律ちゃんもそっちの方が良かったよね。こんなおばさん……というかおじさんかな? よりも、同年代の子の方が」
「あ、いえ! そういう事ではなく……」
すみません、と律は謝る。
本当に、そういった事ではなかった。むしろ、相手が同年代であった方が律には付き合いにくい。
「もう一人の子はね、ちょっと特殊なケースだから他の住み込みスタッフとは隔離された部屋に居るんだよね。追々色々と教えなきゃいけない事はあるけど、正直なところ俺も、いつまで律ちゃんがここに居るのか分からないし。フォヴォーラとの戦いにしたって、今回のケースがイレギュラーなのか、それともここから本格的に奴らと戦っていく事になるのか」
安威一佐は、軍服を脱ぎながら言う。黒いアンダーシャツの脇の部分から、彼女が胸をサラシで可能な限り押し潰しているのが見えた。どうりで彼女の性別について、もしかしたら、とすら思わなかった訳だ。
律はやや俯きがちに「分かりません」と答えた。
「もし、もう一人の子が万全な状態で、私より戦えるなら……母は、そちらを戦力として採ると思います。だから私、この戦いが終わったらどうとか、まだ考えられないです」
「そうかなあ」
一佐は軍服を畳むと、律の予想通りベッド下の収納にしまい込んだ。
「だけど樹璃ちゃん──その『もう一人の子』は、司令から直接手解きを受けた事はないみたいだよ。ブレイク前、普通の中じゃ最強クラスのあの人が、わざわざ自ら教官を務めているのは律ちゃんだけ。でも、あの人が自分の娘だからって特別扱いするような人じゃないって事は、君がいちばん良く知っているだろう?」
「それは……そうですけど」
もしそうだとしても、母が重要視しているのは娘ではなく、娘の持つアルマヘッドだろう。律は、スカートの裾を指先で弄る。
一佐はシャツも脱ぎ、サラシだけの姿になると、そのまま転がるようにベッドに身を投げ出し、壁の方を向いてしまった。
「だけど確かに律ちゃんの言う通り、まだ先の事を考えても仕方がないよね。ヨグ=ゾフトによる危機が去った訳じゃないんだ、今は目の前の目標に集中しなきゃ。という訳で、俺はちょっと寝るよ」
「寝るって」
という訳で、という繋ぎに合っていないのだが、と律は困惑する。
「考えるのは司令たちの役目。戦うのは、俺たちの役目。いざって時に戦えるように仮眠を取っておかなきゃね。何しろ今日はイレギュラーずくめだし、活動量の何倍も疲れた気がする。律ちゃんも、しっかり寝といた方がいいよ。気絶と睡眠は似ているけど、全然違うから」
「そうですけど、安威さん。国防軍の佐官でしょう」
やや呆れ気味に言うと、
「フェガトで戦っている時は、軍の階級なんて関係ないよ。将官、いや、国防大臣すら、本多司令の指示には従わなきゃいけないんだから」
「………」
ブレイクドワールドに於いては、フェガトこそが究極の人類意思決定機関。そのトップである母の発言力については知っていたが、実際にこうして現場の人間の口から聞かされると、その実感は増々現然とする。
安威一佐は「おやすみ」と言うと、もう何も話す事はない、と言わんばかりに体を屈めてしまった。
「夕ご飯になるか、緊急事態が起こるかしたら起こして」