「ハルモニア」②
「律ちゃん!」「は、はい!」
名前を呼ばれ、律はぴんと背筋を伸ばす。安威一佐と呼ばれた軍人は、反対側の扉を顎でしゃくるようにして示した。
「行って。降下に成功するまで、俺たちが掩護する。君が降り次第、特殊部隊の生き残りを回収する作業に移るよ。……大丈夫、皆が君の事を、《幸運の女神》だって信じている」
律はシートベルトを外すと、激しい揺れの中、這うようにして彼に示された扉に向かう。開けると、焦げ臭く、肌が焼けるようなちりちりという熱を含んだ風が顔に打ちつけてきた。チヌークが旋回し、視界の片隅に憑魔の姿がちらちらと映る。死角である事と黒い靄に覆われている事が相俟ってまだよく見えないが、ヒョウモンダコとヤドカリを混ぜたような姿のようだ。
──大きい。自分の何倍もある。自分の”特権”である封魔役術が理論的にあの敵に通用するなど、俄かには信じられなくなる程だ。
高い。怖い……足が竦む。
それでもここで躊躇ったら、今まで耐え忍んできた「辛い事」の全てが、自分に何の実りももたらさなかったという事になる。
母が見ている。=自分が無価値であると、いつでも見做されるという事。
(地獄から、私が何も持ち帰らなかったはずがない)
律は意を決すると、高らかに宣言した。
「本多律、行きます!」
叫ぶ──床を蹴り、飛び出す。滑空する鳥の翼の如く両腕を広げ、風を受ける。
旋回する大型ヘリコプターから持ち出した慣性を引き摺りつつ、鳶の如く輪を描いて降下。同時に、魔法の発動を開始する。
「運命開放! 魔導書板術!」
左手の上に、魔方陣が出現する。そこから浮き上がるように、観音開きの、釣り鐘を二次元的にしたような形の石板が出現する。古代文字の如き記号がびっしりと並んだそれは、あたかも磁力で反発し合っているように、律の掌の上に浮かび、こちらの手の動きに連動した。
「ギギッ……ギギギギギギギギイイイイッ!!」
新潟スラムの建造物群を踏み潰すようにして、憑魔が遂にその全貌を見せた。爪が取り囲んでいるのは、伸縮する円形の口。そこが、絶え間なく排出される黒煙の源泉のようだ。それがあまりにも巨大な為、周囲で蠢く爪はスラムのあちこちから生えているように見え、憑魔は複数現れていたのか、と勘違いしそうになる。最初こそ蛸かヤドカリのようだ、と思ったが、実際には磯巾着に近い。
『こちらキャリアー1。対象、ヨグ=ゾフト、目視で姿を確認』
チヌークからの通信が、インカムの装着された耳朶を震わせる。
転瞬、ヨグ=ゾフトと呼ばれた憑魔の口から、マグマが噴き上がるように薄紫色の光が込み上げてくるのが見えた。
推測……ブレス。恐らく、熱放射線を伴う。
威力……触手からのビーム < ブレス。回避──不可能。∴相殺しかない。
律は右手の人差し指と中指を揃えて立て、魔導書板の文字列をスクロールする。望んだ位置で、望んだ通りの箇所がすっと浮かび上がる。
何故か律には、何と書かれているのか分からないその未知の文字たちを、確信を持って読む事が出来た。
「魔王術!」
周囲に、セルロイド板のような透明の平面×七枚が出現。
それらは偏光板の如く、律の体の前面から迸った無数の光のリボンを吸収し、それぞれ内側に向かって屈折させた。束になった光は、そのまま極太のレーザー光線のように憑魔へと向かって行く。
相手の方も、同じくブレスを射出した。二筋の光芒は空中でぶつかり合い、膨大な衝撃波を拡散させる。それを浴びた廃墟のビル群は、膨らむ風船に圧し潰されたかの如く円形に歪曲→崩壊→爆散。但し、国防軍の軍用機たちにそれらの破壊の手が及ぶ事はなかった。
『や、やっぱり凄いや……』
安威一佐の、感心したような声が響く。憑魔は──憑魔を形成しているフォヴォーラは、戦場に於ける自らの存在の絶対性を揺るがされた事に怒りを覚えたのか、爪の一本を伸ばして力任せに叩きつけようとした。
律は空中で身を捻り、回し蹴りを繰り出す。ブーツの爪先を軽く削られただけで、こちらが傷を負う事はなかったが、大きく軌道の逸れた爪はすぐ横を引こうしていたF - 2戦闘機(バイパーゼロ)の上部から振り下ろされ、機体を両断→爆散させてしまった。
『律っ! 何やっているの!』
フェガト本部からの通信で、母の叱責の声が鼓膜を打つ。律は身を縮め、
「す、すみませんっ!」
声を上擦らせて謝る。それでも、気を散らさない訓練は受けていた。
重い空気の抵抗を引き裂くようにして、律は前方へと身を投げ出し続ける。ヨグ=ゾフトと自分を隔てるビルの残骸へと近づくと、体を丸めながら二、三度前転し、外壁に足を着くや否や膝の撥条を活かしてパルクール選手の如く地上から九十度の平面を駆ける。
「制勝奪取……」
詠唱すると、右腕にキューブ型のポリゴン片が密集し、籠手のような装備を形成する。鋼の羽根のようなもの×三本、手首から出現=残弾数。これが、封魔役術に於ける”切り札”だ。
律は、目の前に現れた窓の中に飛び込み、床をごろごろと転がって起き上がる。左膝を突き、足首を伸ばしつつ母趾球に力を込める。やや崩れたクラウチングスタートのような体勢で飛び出し、ただ正面に向かって走る。
憑魔のターゲットは、確かに律へと移っていたようだった。相手は、突然律が見えなくなった為混乱したのか、咆哮を上げつつ爪を振り回す。ガラスの全て喪失された窓という窓の外が紫色に輝き──頭上の崩壊しかかった天井、及びそれを支えている四方の壁が砕け散った。瓦礫の雨が、律の上に降り注ぐ。
「皆さん、サポートを!」
律は左手の魔導書板を頭上に掲げ、傘の如く使用して落下物を防ぐ。開け放たれた天井越しの空に、戦闘の続行可能な機体が憑魔に向かって機銃掃射を行うのが確認出来た。
前方の窓までの距離……十メートル。- 五メートル、四、三──律は床を蹴って跳躍する──二、一。
行く手の視界を制限していた壁、足場が消え、虚空に身を躍らせた律の眼前に、ヨグ=ゾフトの口部下方に半ば埋没しかかった眼球が見えた。
「札提示……現!」
右手首で、”切り札”の破砕×三回。それぞれの断片は赤、緑、青の三色のエネルギーとなり、籠手を上書きするように律の拳に纏わる。
加法混色……R+G+B=白。
律の右手が、目映い程の白光を放ちながら憑魔の口の端に振り下ろされた。
「ギイイイガアアアッ!!」
ヨグ=ゾフトは、耳を聾せんばかりの大声を上げ、身を仰反らせる。律は光芒を曳きながら拳を振り下ろし続け、位置エネルギーを加算しながら自由落下する。落下そのものが自身に与えるダメージは、敵の胴体を引き裂く際の抵抗が緩和してくれるだろう。
律は地上に到達するまでの間に落下の勢いを殺しきり、安全に着地すると共に後方に宙返りした。体勢を立て直し、憑魔を改めて睨み据えると、左手の魔導書板と右手の籠手が共に消えた。第一ラウンドは、終了したのだ。
ヨグ=ゾフトは爪を天高く掲げたまま、引き裂かれた胴体からだらだらと無色の血液を溢れさせつつ悶えていたが、やがてその巨体を細かな黒い粒子に変えて四散→蒸発させた。後には、ひび割れたコンクリートに片膝を突く、青白く鱗めいた皮膚を持った亜人のような姿だけが残る。
(あれがフォヴォーラ……人間の肉体を乗っ取った、神話の魔神)
今し方自らの手で弱らせたばかりながら、律はそこで改めて恐ろしさが胸の奥底から込み上げるのを感じた。先程まで、無数の閃光となって散って行った国防軍の軍人たち。覚醒して半日も経たないというのに、この魔神は既に何人の人間の命を奪ったのだろう?
背筋が粟立つのを感じながら、暫し立ち尽くしてしまった律だったが、すぐにぼーっとしている場合ではない、と頭を振る。”特権”は確かに強力な魔法だが、一連のコース──ラウンドを通して使用すると「冷却時間」が発生し、一定期間使用出来なくなる。対象から目を離さないよう注意しつつ、律はインカムの向こう、フェガト本部に向かって呼び掛けた。
「対象の肥大化を解除しました。地上部隊による応援をお願いします」
『何を甘えた事を言っているの』
応えた母の声は、先程までと同様険しいままだった。
『ブロードを解かれても、フォヴォーラに通常兵器は効かない。あなたを投入したのは、食い止めるだけで精一杯の戦況を打開し、無駄に命を散らせる兵士たちを安全に離脱させる為よ。止めを刺すまで、ちゃんとあなたの手でやりなさい』
「止め……」
その言葉に、今から自分がする事の重大さが否が応でも際立たされる。
自分が、彼らを救う為に憑魔へ手を下す。その結果、確実に二つの命が失われる事になる。一つは、フォヴォーラの。もう一つは、それに肉体を乗っ取られた、罪なき一般人の。
法律の上で、人間がどのタイミングを以て死を迎えるのかは曖昧だ。生物学的には心臓が止まった時だが、その対象者が臓器移植のドナー登録をしていた場合、脳死であっても”死”として扱われる。そしてブレイクドワールド暦が始まり、制定された対フォヴォーラ法の条文中に於いては──フォヴォーラに肉体を奪われ、自我を失った怪物……憑魔となった瞬間。
これは、法の上で禁じられた安楽死などではない。
適切に処理されずに放置された死体が腐敗すれば周囲の人間に健康被害をもたらす為、一刻も早く葬らねばならないのと同じだ。そう、自分が今命じられている事は、死体処理。但し、まだ動いている。
母親から、何度も擦り込まれた事だった。しかし、それでも律は、理屈だけでは消せない躊躇いがあった。どうにかすれば、囚われた人は帰って来るのではないか。まだ、その方法が見つかっていないだけなのではないか。
しかしその考えを辿って見えてくるのは、律自身が自らの手を汚したくないのだという逃避的な思考だけだった。きっと、この先何度もフォヴォーラは憑魔となって現れる。そうなった時、奴らに肉体を奪われた人々の身内は、絶望しながらも彼らが生還する事を諦めきれないだろう。脳死を宣告された患者の身内が、その人工呼吸器を外す瞬間には躊躇いが生じるように。
自分が「止めを刺す」事は、その人たちの希望──本当はそのようなものなど存在しない、擬似的なものではあるが──を完全に破壊する事に繋がるのだ。
律は自らの手を見つめ、逡巡する。強化を含め、通常魔法は殆ど使う事が出来ない。しかし、母にはまだ敵わないとはいえ、自分の身体能力はフランチャイズであるフォルブレイクの例に漏れず、常人を遥かに凌駕する。まだ封魔役術の余韻が残っているこの拳を全力で振るえば、憑魔は間違いなく絶命するだろう。
(私は……!)
ぐっと唇を噛み締め、駆け出そうとした時だった。
ほんの数秒の逡巡。それが、憑魔を律の生殺与奪の権の及ばぬ範囲に逃亡させる隙を生み出してしまった。
亜人のような姿の憑魔は、ブロードしている間に立ち昇らせていたような黒煙を纏い直すと、その中に紛れて見えなくなった。黒いもやもやした塊は、海面を跳ぶイルカの如く弧を描いて跳躍し、水面に飛び込むかのような動作で地面の中へと吸い込まれて行く。コンクリートの地面が、小爆発を起こすかのように、細かな欠片を飛び散らせながら土煙を上げる。
道路に大きな隆起とひび割れを生み出しながら、憑魔は崩壊したビルの土台の部分へと移動し、更に潜行する。律は慌てて追おうと足に力を込めたが、その瞬間前方で鈍い音が鳴った。
気付いた時には、律は巨大な建造物が空を覆い隠すようにして、自分の上へと傾倒してくるのを、ただ呆然と見つめる事しか出来なくなっていた。




