「ハルモニア」①
(初出 note、2024年5月5日~11日)
ここが?
真都心の中央に屹立する塔の、百何階という普段は絶対に行かないような階層。エレベーターを出た瞬間、律は国境を越えた。セレスタル・ピラー百階以上は国際組織フェガトの管轄となっており、特定の国家の領土には属していない。パスポートは不要だが、そもそも一般人は普通にエレベーターのボタンを押しても、その階層までは辿り着けない。
ここが、お母さんの職場?
絵に描いたような「研究室」の中では、私服姿の多くの研究員たちが早口で言葉を飛ばし合っていた。皆インカムを着け、机上のデスクトップPCと睨み合いを続けたまま、だ。彼らは背筋を伸ばしたまま指先と口、時折眼球だけを動かし、コミュニケーションを取り合っている。研究室というよりオペレーティングルームのようだ、と思うと同時に、自分が完璧な計算で動いているような機械の中に紛れ込んだ異物のような気分になった。
律はショルダーハーネスを両手で掴むと、そこに下げられている六芒星のストラップに触れる。ふうっ、と深呼吸をし、意を決して叫んだ。
「失礼します! 本多律、到着しました!」
叫べばよく通る、と評される律の声が響き渡ると、研究所内は突然しんと静まり返った。何十人分という視線が、一斉に自分に照射される。
注目されるのは苦手だ。律が思わず背筋を丸めてスカートの裾をもじもじと弄り始めた時、入口に程近い席に座っていた二十代前半くらいと思われる茶色いパーマの男性が、「律ちゃん?」と呟いた。
「君が……本多司令の娘?」
「手を休めないで!」
奥から鋭い声が飛んできた。律はびくりとし、再び背筋を伸ばす。
母にして訓練教官、そしてフェガトの総司令でもある本多きららが、鬼のような形相で部屋に居る一同を睨め回していた。
「こうしている間にも、現場では大勢の人間が命を落としているのよ。あなたたちの声一つが、届かなかったばかりにね。……律、来なさい」
言われるがまま、律は母親に駆け寄る。同時に、オペレーティングを中断していた彼らが再び忙しなく指と目を動かし、互いに連絡を再開し始めた。
「遅かったじゃない、律」
「ごめんなさい、お母さん。でもHMEを受け取った時、三十分以内になるって」
「そういう時はなるべく急いで、せめて二十分以内に来るように心がけなさい。そもそも三十分なんて悠長な事を言った時点で、あなたは自分の立場の重みを理解していないわ。あなたの到着が遅れれば遅れるだけ、失われなくて良かった命が沢山失われるのよ」
母は言うと、「見なさい」と窓外を示した。
薄く雲の掛かった街は、腹がひやりと冷たくなる程小さい。全面がガラス張りなので、足元を見るとあたかも自分が断崖絶壁に立っているような錯覚に陥る。無論強化ガラスであり、ちょっとやそっとでは割れないという事は分かっているのだが、こういった恐怖は理屈で消えるものではない。
その時、彼方のビル街で空中に素早く流星の如き光が走った。刹那の間を置き、光の通ったビルが手刀で撫でられたかのように切り裂かれた。斜めに斬られた建物の上部が滑るように崩落を始め、やがて爆散する。
その周囲で花火の如く散ったのは、考えるまでもない、国防軍の航空機だ。今の瞬間で何十人の命が散ったのだろう、と思い、律は胸が絞られるようだった。
「こうして、目視で見られる場所に居るのが憑魔。さすがは神話の存在というべきかしらね、第一号からしてまた世界を終わらせかねないわ」
「あそこに、フォヴォーラが……」
思わず後退りかけた律の肩を、母は痛む程に力を込めて掴んだ。
「いい、律? あなたは今日という日の為に、今まで私から戦術を教え込まれてきたのよ。あなたに発現した”特権”なら、確実にフォヴォーラを倒す事が出来る。ヘリの準備は出来ているわ、すぐに行って戦いなさい」
「戦う……やっぱりお母さんは、その為に私を呼んだの?」
必死に目を逸らしていた現実を、突きつけられたような気がした。
無論、HMEで呼び出された時から聞いてはいた事だ。自分の持つ、”特権”と呼ばれる特殊な魔法であれば、神話の存在であるフォヴォーラに対抗出来る。シミュレーション通り、通常の兵器が効かなかった敵と戦えるという最後の希望は、律に懸かっている。
しかし、そう言われながらも律は、心の何処かで思っていたのだ。フェガトに行きさえすれば──母の傍まで行けば、たとえ相手が世界を滅ぼす程の力を持った魔神だとしても自分に危険を及ぼす事はないのではないか、と。
面と向かって「戦え」と命じられた事で、律は自分が如何に楽天的で、甘えた考えで居たのかという事に気付かされた。母を恨むに至る程の苛烈な戦闘訓練を、理由も分からないまま施されたという事実が、確かに存在するのに。あの苦しみを、自分は一度たりとも忘れた事はないというのに──。
「怖いの?」
畳み掛けるような母の言葉に、「当たり前じゃない」という反抗の言葉が口を突きかける。しかしそれは律にとって、許されざるものだった。
「怖く……ありません」
「それでこそ私の娘。さあ、行くのよ」
──この日の為に、私は生を受けたんだ。
律は、母の死角で拳をぎゅっと握り締める。地球を「破滅後」の世界に変えた魔神が、再び牙を剝く。現地球人の身を依り代にし、またそれによって、現地球人を滅ぼし尽くす為に。
自分の戦いが成功すれば、結果として二つの命が確定で失われる。
憑魔となったフォヴォーラと、同じく憑魔となった人間の。
* * *
「君が律ちゃんかあ……ちょっと、思っていた子と違うな」
国防軍のCH - 47(チヌーク)で移動している最中、同乗した迷彩服の軍人が声を掛けてきた。彼の声がよく通るのか、自分の聴覚がやはり優れているのか、機体前後に取り付けられた二つ分のローター音の中でも言葉ははっきりと律の耳に届く。それが雑談でもするような軽い調子だったので、律は一瞬彼の独り言かと思って流しかけてしまった。
「は、はい!」
背筋を伸ばし、しっかりと通るように声を張り上げる。
「母のきららがお世話になっています!」
「ふふっ、どちらかっていうと、俺たちの方が本多司令にはお世話されている感じだけどね」軍人は、巨大なゴーグルの下から覗く口元を綻ばせる。「あの人より、律ちゃんの方が強いんだってね」
「それは……私が、特権持ちだからです。武術で渡り合ったら、お母さんには全然敵いません。それに魔法だって、通常魔法の方は全く……」
「謙虚で宜しい」
「か、揶わないで下さい。本当に駄目なんです、私」
口籠りつつ言ってから、律はふと気付いて恐る恐る尋ねた。
「あの、母は職場で私の事、話すんですか?」
厳格な仕事人間で、使い物にならなければ実の娘であろうと意味がない、と思っているような母親だ。先程見たフェガトの職場で、そのような娘の話題が出るとは、律は思っていない。
案の定、軍人は「全っ然」と首を振った。
「女の子で、フランチャイズだって事がデータベースに載っていただけ。顔写真すら載っていなかったよ、司令は刻々と変化するデータをいちいち載せてどうするんだって感じだし。訓練の記録も、俺たちのような下っ端が見てどうなるっていうものでもないみたいだしね」
「そう、ですよね。だけど、それじゃあ……」
「心配しないで。確かにこうして本人に会って、イメージとは違ったけどさ。イメージしていたのより、ずっと可愛かった。もっとマッシブで、それで居て物凄い淡々とした感じで、クレバーに残酷に敵を殺していくような子を想像していた」
「は、はあ」
何と言って良いのか分からない。返答に窮していると、軍人の方で会話の接ぎ穂を与えてくれた。
「律ちゃんの”特権”の魔法、封魔役術だっけ?」
「あ、ええ。強力なものとはいっても、元々の物理戦闘能力がなければ使いこなせないみたいなんです。だから、お母さんは私に訓練を」
「司令、お母さんとしても厳しい?」
「教官としては、ですけど……どちらかというと、冷たいです」
律は、無意識に吐き捨てるような口調になっている自分に気付いた。
フォルブレイク(fol. break:破滅直後)世代と呼ばれる、ブレイクドワールド暦への改暦の年に生まれた律は、フォヴォーラの出現によって引き起こされた大厄災を経験していない。故に、フェガトの司令である母が当時どのような活躍をしたのかは歴史書のような知識としてしか知らないし、大厄災を生き延びた人々が母たちに感謝し、尊敬する気持ちも自分のものとして理解する事が出来ない。
律にとって母親は、いわゆる「仕事の鬼」以外の何物でもなかった。保育所で、同じ年齢の子供たちが自分たちと親との出来事について話している時、律は彼らの口にする「パパ」「ママ」といった存在が、自分と母親との関係と同じ繋がりを持った人間だとは俄かに信じられなかったものだ。ある時は、
「どうして律ちゃんにはパパが居ないの?」
と、まだ分別を備えていない子供心に尋ねられ、何故か非常に寂しい気持ちになったのを覚えている。幼い頃はベビーシッターの女性に育てられていた律だが、その後母と顔を合わせた時にこの事を尋ねてみると、
「そんな事、二度と口にしないで」
いつにも増してぶっきらぼうに突っぱねられた。
「そっか」
軍人が、溜め息のような声を零した。律は今度こそ”接ぎ穂”を失って黙り込む。
数分間の沈黙の後、軍人は徐ろに「でもさ」と言った。
「俺たちにとっては、あの人は紛れもなく命の恩人なんだよ。そして、今日この日の為に俺たちはあの人の元で戦ってきた。今度は、俺たち皆が英雄になる為に。別に皆から持て囃されたいとか、そういう下心はないけどね。だけど、それがどれだけ難しい事か、あれを見れば分かるだろう?」
律は窓の外に、近づいてきた戦場の様子を見る。
憑魔の姿は、廃墟の陰になっていてよく見えない。黒い煙のようなオーラを放つ巨大な塊が動き回り、触手のような、甲殻類の持つ長い爪のようなものが空を切る様子が辛うじて確認出来る。
そして、それがビーム状の光を放った、と思った次の瞬間には、また国防軍機の一団が爆散させられていた。
「あんなに呆気なく、戦士としての命が終わってしまうんだ。どれだけ、人の命を守りたいって思ってもね。人間の手で自然災害を止める事が出来ないように、どんな事にも力が及ぶ限界っていうものはある。だけどね、律ちゃん。君のようなフランチャイズは、違う」
軍人は身を乗り出すと、律の肩に手を置いた。その思いがけない力の強さに、軽い痛みを覚えながら律は顔を上げる。彼のゴーグルの奥で、強い意志の光がきらりと煌めいたような気がした。
「君は、俺たちが望んでも得られなかった、文字通り”特権”を得た。それは、言い換えれば『可能性』と『義務』って事だ。人を救う為の力は、ただそれだけの為に使われなきゃならない。律ちゃんは今、確かに不安だろう。俺だって怖い相手だ、どうして自分が、って思う気持ちも、否定は出来ないと思うよ。だけど、自分が誰の為にその”特権”を使うのか、よく考えて欲しい」
「誰の為に?」
「そう。自分ではない誰かの為に、持てる者はその力を使い続けなきゃいけない。利己的であっては駄目だし、放棄だって、出来ればして欲しくない。俺がもしフランチャイズだとしたら、自分に戦える力があるのに、それをしなかったら……自分が戦わないせいで誰かの命が失われているんだ、って思う瞬間に出会ってしまったら、きっといい気分にはなれないよ」
それこそが、と軍人は言い、歯を見せて笑った。
「高貴な義務っていうものじゃないかな?」
律が、その言葉を反芻しようとした時だった。
操縦席に座っていたパイロットが突然、声を張り上げた。
「間もなく、憑魔の制空圏内に突入! 攻撃、来る!」
同時に、廃墟の陰で蠢いていた憑魔がこちらに気付いたらしい。鋭く、長い爪の一本がビルを大きく削りながら高々と掲げられ、その先端が藤色に光り始める。と、思った次の瞬間には、ビームが射出されていた。
「聖なる光よ、我を守り給え! プリヴェントファクター!」
軍人が脊髄反射のような動きで立ち上がり、パイロットの横から機体前方に腕を突き出しつつ叫んだ。彼も”特権”持ちではないが、魔法使いではあるらしい。
光属性、初歩的な防御魔法。彼が詠唱すると、窓の前に光の粒子を密集させた壁が出現し、直撃するところだったビームはそこに当たって拡散し、防がれた。
しかし、衝撃自体はやはり完全に殺す事が出来なかった。巨大な力の塊は容赦なく機体に叩きつけ、シートベルトが胸に食い込み、律は心臓が押し潰されたかのように呼吸が出来なくなった。
「安威一佐!」パイロットが叫ぶ。「機体に強化魔法を。それからドアガン用意!」
「はいよ!」
軍人はガトリング砲のような巨大な銃器を取ると、シートベルトを外してチヌークの扉を開ける。そこから銃身を突き出すと、律が何かを言うよりも先にそれを乱射し始めた。




