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未分類  作者: 藍原センシ
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「『小説神髄』及び『当世書生気質』」

(初出 note、2024年4月22日)


 日本に於ける近代文学の濫觴は、明治維新に伴う文明開化だとされる。開国に伴って西洋の小説文化が流入した日本で独自の小説が生み出される為には、まず小説とはそもそも何であるのかを創作者は知らねばならず、その為に世に送り出された最古の体系的文学論が坪内逍遥『小説神髄』である。

 逍遥はこの書籍の序盤で、「世の人情と風俗をば写すを以て主脳となし、平常世間にあるべきやうなる事柄をもて材料として而して趣向を設くるものなり」と述べている。黎明期の日本文学は、主に江戸時代の読本を始めとする戯作文学の延長線上にあるような作品が主流であり、また仮名垣魯文や矢野龍渓といった政治小説──ただ政界や官界を題材とする作品ではなく、西洋文化の伝媒や自由民権論などの鼓吹手段として用いられた作品──が幅を利かせていたが、逍遥はこれらを否定し、小説は写実主義的な客観描写に徹するべきだと主張した。後に文壇を風靡する自然主義文学は解釈によっては「現実を包み隠さず描くもの」と簡略化されて考えられるきらいもあるが、それらが本来写実主義の流れを汲むものである事を考えても『小説神髄』が近代文学のアイデンティティ形成に大きく貢献した事は疑いようがない。

 逍遥がこの評論中で否定した従来の文学の概念に、勧善懲悪という要素がある。私自身は何故こちらに主眼が置かれてはいけないのかという理由に、勧懲は一方向からの道徳の啓蒙となり、思想の普及手段になりかねないので功利主義の産物となり、受容層の普遍化という文芸の目的に反するからではないか、と、文中では語られない推測を巡らせている。この勧懲については江戸戯作の特徴ともいえるもので、代表的なものに曲亭馬琴『南総里見八犬伝』が挙げられる(『小説神髄』の本文中でも取り上げられている)。

 故にこの主張は、客観描写こそが至上という前提から演繹されたものではなく、主観を排すという事からの帰納として写実主義に行き着いたのだと思われる。というのは、逍遥自身が勧善懲悪を多く主題とする江戸戯作の流れが、当時最先端であった西洋文学と迎合しない為、「小説」を従来の日本文学とは全く別のものとして解釈しようとしたという事だ。文中では「小説(ノベル)」と「奇異譚(ロマンス)」を別物として扱い、馬と鹿の違いに喩えている。

 では何故、道徳を含め主観を排すという事を出発点として論が展開されるのか、という話だが、これには逍遥の東京大学時代の体験が影響している。彼は文学部の三年生の頃、ホートン教授による試験でシェイクスピア『ハムレット』の作中人物である王妃ガートルードの性格批評を行う問題に於いて悪点を取り、政治学、理財学の成績不振も相俟って落第する事となった。その際、彼の減点の原因は日本で広く信奉されてきた道義によって解答した事だったという。

 逍遥は、決して江戸戯作に対して嘲弄的な態度であった訳ではない。安政の世に生まれた彼にとって、今日の私たちからすれば古典とされる江戸時代の読本は同時代の書物であり、時代が明治になっても私たちが現役作家の昔の作品を手に取るのと同じような感覚でそれらに親しんでいたのだ。彼は『八犬伝』について「人口に膾炙したる()の傑作」と述べており、作中では「小説」として否定しながらも愛読していた事が窺われる。ただ、近代文学と江戸戯作を混同して捉え、全てを包括して「小説」というような価値観にこそ一石を投じたのである。

 そして、彼がその解釈に基づき、実際に「小説」の見本として発表したのが『当世書生気質』だった。岩波文庫の宗像和重氏による解説では、この本は『小説神髄』が理論編であるのに対して実践編に当たるとされている。

 この作品は、一応物語としては私塾の書生・小町田粲爾と芸妓・田の次の恋物語だが、立場上主人公である粲爾の存在感はそこまで強くなく、読者が彼と共に筋を追うような仕様にはなっていない。むしろ、舞台である明治十四、五年の東京の社会を細かく描写している様子が目立つ。具体的には、書生たちの下宿生活や吉原の遊廓、牛鍋屋など。

 逍遥は「はしがき」で、この作品が『小説神髄』の理論を実践したものであり、実際には半分も行い得なかったので恥ずかしい次第だと謙遜はしているが、写実主義的なスタンスで描かれている事は確かだ(因みに『小説神髄』が出版されたのは『当世書生気質』より少し後だが、これは出版社のトラブルによって『小説神髄』の出版が遅れただけである)。

 その一方で、大正十四年には彼自身が『小説神髄』と『当世書生気質』について回想し、忸怩たる思いを吐露している。彼は前者に於いて「勧善懲悪の攻撃が十分徹底したものではなかつた」とし、後者を「暢気な、なまけ学生のいたづら書き」、また双方をひっくるめて「学芸的には、全く無価値の著述」であり、当時の文壇に影響を及ぼしたのは「時代が幼稚であつた為」と断言しているのだ。逍遥が言う程どちらも失敗ではないように私は思うが、『当世書生気質』が写実主義的という点以外で『小説神髄』の文学論を忠実に実践したものであるかについては、確かにやや冷静に読み解く必要がある。

 実際に読むとすぐに分かるが、『当世書生気質』は全編を通して滑稽味が強い。これらよりも二十年程後になって出版された夏目漱石の『吾輩は猫である』を読んだ時の味にも通じるような会話のテンポの良さや、冒頭の「さまざまに移れば変る浮世かな。幕府さかえし時勢(ころおい)には、武士のみ時に大江戸の、都もいつか東京と、名もあらたまの年頃に、開けゆく世の余沢(かげ)なれや」を始め、五七五や七五調、七並べや都々逸のリズムを駆使した文体などがそう思わせるのかもしれない。だが、そういった体裁のみならず、写実以外の物語の筋で読者を惹きつける試み──例を挙げればヒロインである田の次の正体が、主人公粲爾の学友である守山友芳が探していた生き別れの妹だったという事実が判明したり、守山が彼女を探している事を知ったある芸妓が実の娘をその妹に仕立て上げようとしたり──が見られ、最終的に生き別れの兄妹が再会する大団円を迎える物語は、どちらかというと後に研究対象となる文学作品よりかはエンターテインメントに傾倒しているように思われる。

 ところでこれは現代の小説にも通ずる事ではあるのだが、あまりにも綺麗にまとまりすぎた結末を迎えた物語、例えば正義の味方が悪の親玉を倒して大団円、や、主人公が挫折を経ず万事が水の流れるように上手く行ってしまう結末は何処かこじんまりした印象を読者に与える。あまり年齢によって対象者を甘く見た発言をするのは好まないが、児童向けの作品などは分かりやすく、純粋に読んで面白かったと思わせる事が優先されがちなのでそれでも良いが、大人が触れる作品でそのようなこじんまりとした畳み方を見せられると何処か物足りなく感じる。

 勧善懲悪の否定という分かりやすい実例を挙げた逍遥だが、これは即ち「筋だけを連ねるな」という事を意味していると私は考察する。その点では『当世書生気質』は江戸戯作の影響を引き摺っている為に『小説神髄』と厳密には対を成す作品とはなっていないが、筋で魅せる戯作のエンターテインメント性に、現代でいう純文学的な描写の要素を加味した、当時に於いて最も現代の「小説」に近い小説だったのではないだろうか。

 描写に純と付けるには砕けすぎている感が否めなくもないが、これは(かえ)って当時の風俗に対してリアリティを追求した形だと私は思う。私は高校生たちを主要登場人物とある自作小説に、自分自身はあまり好まないインターネットスラングや若者言葉をふんだんに取り入れてみた事があるが、そうすると思いがけずリアリティが出、俗っぽいものにならないよう綺麗な言葉を用いるあまり何処か芝居じみた雰囲気が抜けなくなる、というジレンマへの解決に繋がった事がある。無論、その自作小説はエンターテインメントだったので、その為に成功した試みだったのかもしれないが、逍遥の作品を読んで「これが『小説』の黎明なのか」と感じた事とこのケースは、全く無関係とはいえない。

 逍遥の『小説神髄』は、「小説」と戯作を分けた上で、小説を今日大きな流れとなっているエンターテインメントとは捉えなかった点で画期的な文学論であり、逍遥の意図程強くはないが現代にも通用する理論である。また『当世書生気質』は『小説神髄』の理論を完全に踏襲してはいないからこそ、角が取れ、より現代の小説に近い形で成功している。逍遥は「胎生期の主な作のやうに言はれると、くすぐつたくて、慚羞に堪へない」としているが、私は間違いなくこれらは我が国の小説文化の(あけぼの)を飾る作品と見て不足はないと考える。

 尚、二葉亭四迷は『小説神髄』の主張に納得が行かず、『当世書生気質』に対抗して『浮雲』を執筆している。この結果は、私が一読したところ『当世書生気質』とそこまで大きなテイストの違いは感じられず、二葉亭自身も満足出来ずに「くたばって仕舞(しめ)え」と毒()いて二十年間小説を書かなくなってしまうのだが、その詳細はここには述べないでおく。

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