「砂漠に雪を降らせること──未熟さと過剰さの狭間」
(初出 note、2024年4月5日)※大学の授業課題として提出したもの
1.「俺たちがその気になればね、砂漠に雪を降らすことだって、余裕でできるんですよ」
伊坂幸太郎さんの小説『砂漠』に登場する言葉だ。主要登場人物の一人・西嶋が発する台詞であり、表題の由来にもなっている、作品全体を代表する言葉である。この小説は私が中学三年生の夏、図書館でたまたま手に取り、自らの世界が開けたような気がした作品で、単純にカテゴライズする事は難しいが大学生たちの話だ。特に有り得ないような事件が起こる訳ではないが、読んでいてふとした瞬間に笑えて泣けるような物語だった。
この言葉を語るに当たって、私と『砂漠』との出会いに関する事情を述べねばならない。私は小中学生時代、自らの趣味として読書を挙げていたものの、基本的には乱読であり、好きな小説を挙げろと言われても、何年経っても同じ児童文学のファンタジー作品を出すような状態だった。それが殊更に好き、という事もあったが、その他に「好きな本」というものがなかったというのが正解だったのだろうと思う。そのような中、中学三年の夏休み、「休暇中に読んだ本を列挙する」という課題があり、私はいつまでも同じ本ばかりを読んでいると思われたくない、との気持ちから図書館に向かった。
肝腎の、何故『砂漠』(実業之日本社文庫)を手に取ったのか、という理由が思い出せない。当時から地元愛の強かった自分にとって、舞台が仙台だった事が魅力だったのかもしれないし、何処か郷愁をも覚えさせるような、退廃的ながらもだらだらとした毎日に輝きがあるような若者を思わせる表紙に惹かれたのかもしれない。あらすじを読んだだけで借り、家に帰って読み始めたところ、私はそこで初めて、読書に於ける不思議な体験をした。それまでにない程に様々な事を考え、感じ、大袈裟と思われる程に泣き笑いした。
無論、それまで読んできた本の中で何も感じた事がなかった訳ではない。だが、私は『砂漠』を読みながら、初めて自分が「読書」という事を行っているような気がしたのである。読み終わった時には、自分が胸を張って「趣味は読書」と言えるようになり、「好きな本は『砂漠』だ」と言い切れるようになっていた。現在私は年間三百冊を超える本を購読し、共感や考察、批判をしているが、そのきっかけが『砂漠』であった事は間違いない。
2.西嶋の台詞
西嶋は、作中で最もキャラクター性の濃い男である。極端に熱く、何処までも真っ直ぐで、しばしば何行にも渡る台詞を発する。その内容は受動的な世間への批判であったり中東侵攻を繰り返す米国への怒りであったり、かと思えば実際にはそこまで政治に詳しい訳ではなく、麻雀で敗北した愚痴に収束したりする事もある。理屈っぽいので、彼の人間性をよく知らない人からは煙たがられる事もあり、いじめられて非行に走った過去もある。だが、その際彼はある家裁調査官に出会い、彼から貰ったサン=テグジュペリの『人間の土地』という文庫本の言葉に「はっとさせられ」る。
それは、「人間であるということは、自分には関係がないと思われるような不幸な出来事に忸怩たることだ」(ルビ原著)という言葉である。彼はこれを体現するような人物で、中東で軍事行動が起これば平和を願って麻雀の「平和」を上がろうとし、動物管理センターのホームページで保護期限が迫ったシェパードが居れば後先を考えずに引き取りに行く。
また彼はボウリングが極めて下手で、新入生による大会で大恥をかくが、そうすると後日、朝から晩まで一人で練習し、それを克服しようとする。彼が最後に一回ストライクを出す瞬間、それをこっそりと見ていた同級生の女子・東堂は「行け、って思わず心の中で言っていた」という。
東堂は彼について「臆さない」と評す。「自分を信じている」「どんなことでも真剣勝負」とも言う。「砂漠に雪を降らす」とは「不可能な事」の比喩表現だが、西嶋は自分たちが本気になればそれは叶う、と言う。麻雀で平和を上がりながら祈れば世界が平和になる、という事も、誰もが「馬鹿馬鹿しい」「そのような事が世界に通じるものか」と指摘しても、西嶋は諦めない。むしろ、そのようにして「出来るはずのない事はしない」という態度を取り、冷めたような目で世間を達観している人に、それだからいけないのだ、と言い返す。
3.三島由紀夫と青春
主人公の北村は、街頭演説を行う政治活動家を見、西嶋に「あのように皆に訴えてはどうか」と提案するが、西嶋はそれに対し、三島由紀夫を引き合いに出して一種逆説的な事を言う。
市ヶ谷駐屯地で改憲を訴え、切腹した三島だが、彼は腹を切る覚悟で自分の本当に訴えたい事を訴えたのに、伝わらなかった、だからそれ程の覚悟もない人間が道端で大声で怒鳴ったところで難しいのだ、という言葉だが、これは西嶋に冷めたところがある事を意味するものではない。彼は「人に訴えても伝わらないんだからね、もう別の物に分かってもらうしかないんですよ」と主張する。それが、彼が麻雀で何度も平和を上がり、ひたすらに世界が変わると信じ、祈る理由だという。
伊坂幸太郎さんのエッセイを読んで分かった事なのだが、奇しくもここで取り上げられる三島由紀夫は、伊坂さんの青春観に大きな影響を与えている。三島は青春について、著書の中で「僕にはきっと、特別あつらえの人生が待っている」と思っている時期だと述べたそうだが、『砂漠』はきっとそのような若者たちの物語なのだろう、と私は考える。西嶋の「砂漠に雪を降らす」という台詞は、自分が願うのならそれはきっと叶うと信じられる、希望を持てる時期を「青春」というのだ、と教えている言葉なのだ。
『砂漠』は新潮文庫にも収録されたが、文庫本の最後の方に載っている既刊本の紹介にて、「未熟さに悩み、過剰さを持て余し」という文章があり、私ははっとさせられた。西嶋が「砂漠に雪を」という言葉を使う理由は、自分を信じていながらも、今すぐに世界にそれを波及させる事が出来ない葛藤もあるからかもしれない。この小説を読んでいた中学三年や高校時代の事を振り返ると、確かに自分も、次から次へとこなさなければならない進路選択や成績の維持などに追われ、自身が心から望む目標には届かないのではないか、という不安や、若さ故の無知、能力の限界に悩みながらも、自分なら何とかなるのではないか、と根拠なき自信を持っていたように思う。そしてその頃の事を思い返すと、当時は味気ないごく普通の日常だ、と思っていたものが、戻りたいと思う程に懐かしく愉快なものだった事に気付く。
4.不可能に関する捉え方
私が西嶋の台詞に惹かれた理由について、中学時代、人格形成に大きく関わったさとうみつろう氏の言葉に「不可能とは『正しさ』を乗り越えられない者の言い訳」というものがあった事が大きい。
さとう氏の言う「正しさ」とは、固定観念や常識の事だ。それは、『砂漠』でいうところの「どれだけ自分たちが祈っても大国は戦争を起こす」「麻雀で平和を上がってもそれは世界平和とは関係がない」というような諦観でもある。西嶋は、「アメリカ批判なんて、いまどき、子供だってしない」という指摘に「俺はあえて、子供だってしないことをやってるんですよ」と答える。彼が「砂漠に雪を降らせられる」、その気になれば不可能など存在しない、と信じる事は、彼が「正しさ」という限界線を自ら引かないし、それを言い訳にしないという事である。
『砂漠』を読み、西嶋の台詞に触れた事は、私の人格形成期を補完し、「青春」を迎える為に必要な通過点だった。
5.余談
『砂漠』は二〇〇五年に実業之日本社から出版され、二〇一〇年に新潮文庫、二〇一七年に社創立百二十周年記念の一環として実業之日本社文庫に追加された。そして、この文庫収録が決定した二〇一六年には、観測史上初となるサハラ砂漠への積雪があったという。




