「詩に物語は必要か」
(初出 note、2024年3月25日)
詩の良し悪しが何であるのかは、小説のそれ以上に議論が分かれる課題だろう。正直なところ、私は一編の詩を細かく裁断して分析し、言語の拠り所を作者本人の背景と照らし合わせるような解釈も、それによって含蓄のある言葉、浅薄な言葉などと判断する見方が好きでない。私があまりそういったコンクールに興味がないというのも理由だが、審査員の好尚すら均一でない場所で、賞を獲ったら偉いのか? という気持ちもある。
強いてそれを求めるのであらば、私は詩文学が「詩文学」として生み出されねばならなかった理由を追求するのが在るべき態度だと考える。詩は小説に比べて短く、織り込める内容に限りがある。だからこそ、詩は言葉を極限まで搾り詰め、煮詰めて残った抽出液でなければならない。
『ギルガメッシュ叙事詩』や北欧の『エッダ』など極端なものは出さず、一般的な短い現代詩を思い浮かべて頂きたい。小説の内容を希釈して適宜改行を加え、並べたような、と見られる作品(学生のポエム手帳のような)は、詩的言語を持ち合わせているだろうか。「私はあなたが好きなのにあなたは振り向いてくれないの」というような類の作品である。私はそれが月並みであるという以前に、それは小説として書けばいいではないか、という感想がまず浮かぶ。小説の文量で書けばロマンスに昇華出来たであろう作品を、詩という、「特に決まりはない、自由だ」といった敷居を下げるような言葉では決して除ききれない制限のある枠組みが、普遍的で浅はかなものにしてしまう。
そこで私は、そもそもある文学的作品が「詩」でなければならない理由に立ち返って考えた時、詩に物語としての「筋」は必要ないのではないか、と思う。「筋」というのは文頭から末尾までの一貫性という意味ではなく、小説を要約したあらすじのようなものだ。恋愛詩を例に挙げるならば、「これは長年想い焦がれていた相手にインタラクティブな関係を求めようとして玉砕した若者の話だ」などと、物語の切なさや出来事そのものの印象に着眼して価値を見出す作品は「詩」という観点で優良なものではない、という事である。失恋といえば切なく、人の死であれば悲しく描かれるのは当然だし、そこにカタルシスを生じさせるのは「筋」の役目だ。その「筋」に着目するなら、詩でなく小説でも構わない。
ここで混同してはいけないのは、詩作と音楽を伴う作詞の違いだ。歌詞のある音楽はある意味複合芸術であり、歌詞があって曲があり、歌う人の声があって初めて一つの作品として成り立つ。番組の主題歌やある企画のイメージ曲といったものは、音楽という領域の中でそれらとの関連性を示すものでなければならないので、歌詞に物語は必要である。なくても構わないが、あったところでそれによって「別の形で置き換えられるから詩的価値はない」などと判断されはしない。歌詞は独立した詩である以前に、音楽という芸術の一部だからだ。
私はよく楽曲を聴くが、アーティストによって、或いは個々の作品によって好悪の分かれるポイントは異なる。歌詞が好きなものもあれば、メロディやテンポが好きなものも、歌手の歌い方や声が好きな作品もある。逆に、歌手自体は好きだが曲や歌詞に嫌悪感を催して敬遠するものもある。特に歌詞を重視するのは私が物書きだからであり、楽曲の絶対的な評価ではない。
では、曲も誰かの声もない詩はどうだろうか。内容が分かりやすい詩が、特別に良い詩だとは私は思わない。曲や歌声といった、他に情感を誘われる部分が一切排された詩作品で、頼りになるのは白紙に綴られた文字列だけである。それを読んで「良かった」と思う事に理由があるならば、持ち合わせた言葉を限界まで凝縮して突き詰めた、いわば川底の汚泥から洗い出された砂金の美しさであり、熱した上で叩きに叩いて不純物を飛ばし、鍛え上げた鋼の輝きへの精神的な肉薄である。片や音楽でもないのに「溢れ出んばかりの言葉を心に正直に書いた」などと美化して説明された詩を、私は信じない。
無論、愛別離苦や何事かへの憧憬が根本に流れた詩があっても構わないし、感動した小説や番組などの「物語」に触発され、それを意識して書いた詩があってもいいだろう。だが、それをあらすじのダイジェストやある人物の心情を形容詞だけで反復したような作品は、詩である必要がない。それを読んで誰かが感動するならば、それは元の「筋」への感動であって「詩」への感動ではない。
私は今まで、物語を小分けにした連作としての詩や、連作小説をセルフポエマイズした作品を何度も書いてきた。だが、今思い返せばそれらは本来小説など別の形で表されるべき作品を、長さという縛りのある媒体の中で薄弱にしただけであったような気がする。物語があるからこそ、「筋」を流さねばならないという事に囚われすぎ、置くべき言葉が置かれる場所に説明文の文句が介在したきらいが、どうしても否めないのだ。
以降、私は「ポエマイズ」を行う時は、既存の物語を詩の形式で再現するのではなく、詩でしか描けない事柄を、言い方を変えればそれを詩から省いたら作品のアイデンティティが崩壊するという言葉だけで構成しようと思う。裁断出来ない語彙を並べて全体を通した時、初めて「小説」との繋がりが微かに見える、という程度が適切なのだ。
恋愛詩や激励詩を量産する人が犯しやすい間違いなのだが、それを「物語のシチュエーションを無数に用意出来る」というストーリーテリングの才と勘違いし、小説に手を出すという事である。詩人、小説家の両刀使いは確かに居るし、一人の作家の文学全集を読むと高確率でどちらも含まれているが、詩と小説は文芸の中であくまで別のものであるという意識は欠いてはならない。このような人は大抵「物語を『筋』だけ並べた詩」を書くので、いざ小説を書こうとすると台詞も人物の配置も、酷い場合は文法すらままならない。果てには、小説なのに句点で改行され、不適切な体言止めの多い浅ましいものが出来上がる。
逆に「物語を書きたかったが小説を書くには力量が及ばず詩を書き始めた」というケースもあるようだが、それもまた感心出来るものではない。あくまでも詩は詩、小説は小説である。
思うに、多くの人々は最近、身近に韻文に触れる機会が音楽の視聴ぐらいしかなくなっているのではないだろうか。だから、「歌詞」と「詩」を混同しがちになっている。音楽的要素を省いた「歌詞」を読んで、「詩とはこうやって書くのか」などと一人合点をしている人が居ないとは思えない。
「詩」に物語は必要ない。私はそれを踏まえて、今後詩作に対する自らの態度を顧みていくつもりである。私は本来小説を書く方が主流なので、どうしても物語的制約から逃れられないと分かったら、それは小説にする。月並みな詩を量産し、個々のオリジナリティを損ねるくらいであれば、最初からある程度割り切って臨んだ方が良いと思う。
但し、これは詩というジャンルにはその枠内でしか表現出来ない可能性がまだまだあるという事である。何世紀過ぎても新たな小説が世に送り出されるように、探究自体には限界がない。限界を作るとすれば、それは詩そのものではなく、詩人と呼ばれる創作者側の限界だろう。