「王道か問題作か」
(初出 note、2024年2月28日)
誰が読んでも面白い作品、とは、謳い文句としては非常に疑わしい。文学作品の評価は客観的かつ分析的に行われるべき、と言うのは簡単だが、読んで面白い、興味深いと感じるかどうかは人それぞれであるし、文芸評論家はそのような個人の好悪を超越して評価を行わねばならないというのも言葉を選ばなければ理想論、机上の空論と言わざるを得ない。夏目漱石も『文学評論』の中で、批評的鑑賞の態度には好悪が根本となる、という旨をやや割り切り気味に語っている。
同時に「無難な作品」「画期的な作品」も、評価として非常に危うい。前者はともすれば凡庸となる危険性があり、後者は狙った感の否めない、もしくは悪趣味で生理的嫌悪感を催させる、と感じさせるリスクも秘めている。
前者の場合、好意的な言い方では「王道」と表現される。伝統に則り、諸先輩の培ってきたパターンを踏襲し、受け手から「やはりこうこなくては」「この流れが見たかった」と思われるような作品の事だ。エンターテインメントのジャンルごとに例を挙げれば、ファンタジーものは”剣と魔法の世界”が舞台で、主人公がパーティーを組んで冒険し、ラスボスを倒す、という流れであるし、恋愛ものならば引っ込み思案な主人公と誰もが憧れるような相手役が些細なきっかけで知り合い、偶然を重ね、次第に主人公が勇気を持ち、擦れ違いと相互理解を経て更に関係が深まり……という作品が(私の好みは措くとしても)「いい話」とされがちだし、スポーツ系ならば弱小チームまたはペアが切磋琢磨し合い、時には衝突も経て、クライマックスで大会に臨む、という流れが一般的だ。
ミステリは「王道」という言葉の例が最も伝わりやすいジャンルだ。一九五八年に松本清張が『点と線』を上梓し、いわゆる「社会派」の旋風を巻き起こす以前、古典的な作品は科学的論理に則られながらもあくまで絵空事であり、綾辻行人『十角館の殺人』作中の言葉を借りれば「知的な遊び」であった。今日では本格派と呼ばれる伝統的なミステリでは、風変わりな殺人事件、奇抜な建物、閉鎖された空間、名探偵といった要素が”お約束”であり、時代が進むに連れて新風が取り入れられすぎ、見失われがちになってしまったものだった。
故に、一九八七年、『十角館の殺人』が世に出た時の文壇の衝撃と、それに追随する「新本格」と呼ばれる流派の出現は起こった。『十角館』を読み、ああ、そうだよな、これがミステリだよな、と感じた人が多ければ、それは「王道」として成り立っているという事だ。
一方で、「王道」の成立には時勢の影響も手伝っている。私は昨今の異世界転生と悪役令嬢を嫌悪しているが、最初にこの設定を考えた人の発想は卓越している、と認める。完全な異世界を一から構築する事に伴う縛り、例えば「ハンバーグ」や「南京錠」といった、現実の地名に由来する名詞を出すと辻褄が合わなくなる事の回避や、現実ではない世界の設定を、余所者である主人公と共に読者が理解出来るようにする工夫としてはこの上なく秀逸だが、それ故に亜流が増えすぎると、作者の発想力のなさを現実との地続き設定でごまかしているような感が否めなくなる。
私は自らの書くファンタジー小説群を「転生しない異世界シリーズ」と呼んでいるが、これはある意味では、社会派が一世を風靡する中で勃興したミステリ界の新本格ムーヴメントに倣った王道宣言である。昨今の異世界転生ものの殆どが亜流であるように、こちらもまたやりすぎると何番煎じ、懐古趣味と断罪されかねない可能性は忘れてはいけない。
例えばの話、3DCGを駆使し、フルボイスかつアニメーションもあり、オープンワールド化も可能な最近のゲームの中に、突如としてデジタルゲーム黎明期のようなドット絵の、操作にかなり制限のある、一人用の作品が「復古」を謳い参入したとしてもそれは受け入れられるだろうか。一部のマニア心はくすぐるかもしれないが、多くは時代錯誤と切り捨てて終わりだろう。王道とは、伝統に則っていながらもあくまで現代という時代を重んじ、決して「やりすぎ」てはいけないのだ。
他方、画期的な作品について分析する。挑戦的な作品、野心作と言い換える事も出来るだろうが、これは私も一概に良いとも悪いともいえない。同時代の倫理や常識に敢えて一石を投じる作品ではあるが、これらは往々にして発表当時は受け入れ難いとされ、時が流れてから新ジャンルの先駆者という扱いを受け、最初にその斬新さを認め素養を見出した者が慧眼だ何だと賞賛される。そういった作品は、しばしば「問題作」という言葉で言い表される。
これは私の固陋さなのか、はたまた同族嫌悪なのかは分からないが、私自身としてはあまり「物事の根本を引っ繰り返す」ような作品については、愚挙という以外に抱く感想がない。当時は先鋭的すぎて受け入れられなかった、という作品を良いと感じる事もなくはないが、耐えられないのは「自分がこれで革命を起こすのだ」という気負いを以て生み出され、教祖を気取って時代を嗤うような作品だ。意図せず生み出された新風以外は、往々にして「やりすぎ」る。自分の考え方こそが新しく、正しいのであり、それ以外は古く、間違っている、というような独り善がりなものを感じると共に、異世界転生ものの横行と同じく基礎が出来ていないのを外連味でごまかしていると受け取れてしまう。
王道と問題作、それぞれのリスクについて語ってきたが、それを踏まえて私が良いと思う作品形態を考えると、それは維持すべき伝統を創作者の共有財産として保ちつつ、既存の作品に呑み込まれないだけのオリジナリティを詰め込む、といった手法で作り出されたものだ。
綾辻氏の例を引っ張る。私は『十角館』に始まる「館」シリーズが好きだが、『十角館』には嫌味がない。冒頭でエラリイという作中人物が社会派式リアリズムの風潮について挑戦的な台詞を言っているものの、綾辻氏本人が本格至上主義である訳でもそれ以外を認めないと述べている訳でもないし、何より氏はこの一作を以てミステリ界を覆さんと目論んでいたのではないのだ。
それ以前に彼の試みは「王道」の復古であり、伝統の否定でも無論ない。その一方で、今でこそ古めかしく見える現在との差異はあれど、当時はコンテンポラリーな作品であり、現代で本格ミステリ風の事件を設定するとしたらどうなるか、という事が意識され単なる懐古趣味では終わっていない。
また、私の本領であるハイファンタジーにも例を取るが、舞台はいわゆる”剣と魔法の世界”であり、魔物が居り、中世ヨーロッパを思わせる街が主で、ラスボスとして魔王が居る……という設定はいわば共有財産であり、それそのものがオリジナリティではないのだ。こういった枠組みそのものを「ジャンル」とし、そこに置くべき自らの創作物を配置する。物語の進行でも、定番の熱い展開──仲間が増えたり強敵との戦いの最中に奇跡が起こったり──を用意しつつも、既存の物語をなぞるだけでは先の予想がついてしまうので、謎やどんでん返しを自ら入れ、あくまでそれらによって物語を主導して貰う。
昨今の異世界転生はこういったオリジナリティが足りないから、ご都合主義にも拘わらずお茶を濁す為のギャグ化、コメディ化に流れがちなのではないかな、と考える事もある。あのやたら長大な題名をつけたがる風潮も、「これはギャグですよ」をアピールしたいが為ではないのか。
王道か問題作か、という、作品評価に於ける二者択一は、ともすれば「現状維持か博打か」という見方に置き換えられてしまう。出版文化の発展と変遷に関する作品評価は、読み手の受け取り方も大切だが、それ以上にオリジナリティの有無に重きを置いて行われるべきではないか、と私は考えている。




