「同族嫌悪と啄木」
(初出 note、2024年2月7日)
文学者同士が雑誌上で繰り広げた論争などを読んだり、反目し合っているように見える二者の主張を見てから作風に触れたりする時、「もしかしたら似た者同士なのではないか?」と感じられる事がしばしばある。
例えば夏目漱石の『文学評論』中に、「ダニエル・デフォーと小説の組立」という章がある。著作中で繰り返している通り私は海外文学は読まないが、文中に書かれている事と夏目漱石の遍歴から考察した事だけで「これは」と思うところがあるので引用してみる。
……そのうちでも最も崇高荘厳の反対極にあるものがデフォーである。デフォーの小説は気韻小説でもなければ、空想小説でもない。撥情小説でもなければ滑稽小説でもない。ただ労働小説である。どの頁を開けても汗の臭がする。しかも紋切り形に道徳的である。
彼の作物の名前を次々に点検して、彼の閲歴と連結して見ると、また一方に十八世紀の特色をざっと胸の中に思い浮べて、双方を好加減に攪き交ぜて考えると、デフォーの小説の性質は既におのずから解ったような心持になる。……(中略)……彼はいくら美事でも解らぬ手紙は書かぬ男である。下手でも、拙でも旅館の勘定書のように明細にかく、必ず払の取れるように書く男である。活版より木版が雅で、木版より肉筆が妙だなどと余計な趣向を凝らさない男である。出来得べくんば、悉く一号活字で麗々とのべつに書きたがる男である。もし文章の一極端に詩と名づけるものがあって、反対の極端に散文というものが控えているならば、もし詩が道楽で散文が用事とすれば、もし詩が面白い雑談で散文がさっさと片付けべき懸合事とすれば、デフォーは決して詩に触れない男である。
デフォーはこんな技巧はやっていない。長いものは長いなり、短かいものは短かいなりに書き放している。いくらぼんやりした遠景でも肉眼で見ている。度を合せないばかりではない、始から双眼鏡を用いようとしないのである。まことにまともなものであるが、悪くいえば智慧がない叙方といっても可い。厭味や気障は決して出ないが、器用とはいわれない。否心配して読者の便宜を計ってくれない書き振ともいえる。もしくは伸縮法を解せぬ、弾力性のない文章と評しても構わないだろう。
きりがないのでこの辺りでやめるが、漱石は『ロビンソン・クルーソー』の作者であるデフォーの小説に「詩」がないと述べている。同時に、出来事だけが淡々と述べられていて冗漫だとも言っている。私が大雑把にまとめると、必要な描写をする為に長い文章が必要になる時、それを冗長に見せない方法を採る作者は居るのに、デフォーはそれをしておらず、人物が「した事」だけをずらずらと列挙しており、読んでいて非常に長ったらしく感じられる、という事だ。しまいには、「書かないで済む事、書いて邪魔になる事、余計な事、重複する事を遠慮なしに書いて、これが写実だというならば、その写実とは外に何の意味も有していない、ただ小説になっていないという事になる」と、返す刀で写生文家を裁断している。
先刻話したように大事な方面はいくらでも眼を眠って、つまらぬ事を寄せ集める癖があるから、綿密で、周到で、探偵的ではあるけれども、如何にも下卑ている。
なるほど、創作者としては耳に痛い言葉ではある。が、これを読みながら私は、漱石の処女作『吾輩は猫である』を思い出さずにはいられなかった。「下卑ている」かどうかはさておき、写生文的な冗長さに関するあれこれは、私が最初に「猫」を読んだ時、中盤の銭湯の場面や、終盤の寒月がヴァイオリンを入手するまでを語る場面などに感じた冗長さを思い起こさせたのである。
『文学評論』は、明治三十八年六月から明治四十年三月まで「十八世紀英文学」のテーマで漱石が行った講義を書籍にまとめたものだ。漱石の初期作品には様々な作風のものがあり、「猫」や『坊っちゃん』など滑稽味や風刺味の強い作品もあれば、「倫敦塔」「琴のそら音」といった怪奇幻想小説もあり、また「薤露行」「草枕」など、詩的情緒や俳諧趣味に溢れたものもある。更に「薤露行」や、最初の転換点ともなった悲劇作品『虞美人草』は、「発句を重ねていくような心持ち」「一字一句にまで腐心して書いた」と語られる程、詩的な叙情を生み出す為に苦心した事が窺える。本当にデビュー直後の、後の評論家からは通俗的だとされる事もある作品群と、漱石自身が「低徊趣味」と名付け、余裕派ともいわれる所以ともなった、俗世を離れ、ゆったりとした情緒の漂う作品とでは作風に大きな違いがあるが、これらが発表された期間は『文学評論』の講義が行われた時期とほぼ一致する。
デフォーに関する講義はかなり終盤の方だが、漱石は「猫」などを書き、自らの作品に対する瑕瑾も客観的に見、改善の余地を炙り出して研究していた時期だったのではないだろうか。だから、他の創作者の作品に見られる自分と共通した欠陥が目に付きやすく、自らが心を砕いて行っている切磋琢磨を放棄しているかのような作品には不快感が拭えなかったのではないか、と私は考えている。
もう一つ例を挙げる。毎度同じような例ばかりで己の守備範囲の狭隘さを暴露しているようだが、三島由紀夫と太宰治の事である。三島が二十二歳の時、太宰に会いに行って「僕は太宰さんの文学は嫌いなんです」と面と向かって言ったという話は有名だが、三島の太宰嫌いはその後も続き、昭和三十年(三島三十歳)に書かれた『小説家の休暇』という評論集でも「私が太宰治の文学に対して抱いている嫌悪は、一種猛烈なものだ」としている。
何故嫌いなのかというと、「顔」「田舎者のハイカラ趣味」「自分に適しない役を演じた」事がその要因らしい。「私とて、作家にとっては、弱点だけが最大の強みとなることぐらい知っている。しかし弱点をそのまま強みへ持ってゆこうとする操作は、私には自己欺瞞に思われる」「太宰の文学に接するたびに、その不具者のような弱々しい文体に接するたびに、私の感じるのは、強大な世俗的徳目に対してすぐ受難の表情をうかべてみせたこの男の狡猾さである」といった箇所を読みながら、なるほど、と納得は出来るように思う。
しかし、ここで思い出さねばならないのは三島の実質デビュー作とも呼ばれる長編小説『仮面の告白』である。
三島はこの小説を世に出した際、担当編集者の坂本一亀に「私小説」「自分で自分の生体解剖をしようといふ試み」と告げている。「能ふかぎり正確さを期した性的自伝である」だというが、河出書房版「『仮面の告白』ノート」にはそれとは矛盾を感じさせる記述が多数ある。福田恆存の、新潮文庫『仮面の告白』の巻末に掲載された文章「『仮面の告白』について」では同じ箇所が引用されているが、「肉にまで喰い入った仮面、肉づきの仮面だけが告白することができる。告白の本質は『告白は不可能だ』ということだ」というのはその最たる箇所だ。福田はまた「ノート」に、「芸術家としての生活が書かれていない以上、すべては完全な仮構であり、存在しえないものである。私は完全な告白のフィクションを創ろうと考えた」とあるのを引用し、先程の「告白」の本質を巡る箇所を証拠に示しつつ「おそらく三島由紀夫はこのことばを書きつけたとたんに、それもまたうそであることに気づいたにちがいない」と推測している。
しかし、私は「そうだろうか?」と首を傾げずにはいられない。私は、仮に『仮面の告白』が事実を基に作られていたとしても、三島はその途中で「ノート」に書かれているような「告白」の本質に気付き、ならばいっそ私小説としての体裁を維持したまま「強調」という形でフィクション性を主張したのではないか、と考察する。その結果、「これは本当の事か?」という批判も、「これは三島の弱点ではないか」という指摘も回避し得る。私にはこういった弱点があります、と強調しつつも、これ全てが私の事ではないので早合点はしないで下さい、というような。むしろ、自らを裁断するという体裁が自虐的であるが故に、逆に同性愛者でない読者からも感情移入がされやすいのに、それを自己欺瞞とお涙頂戴とは言わせない、という保険的な意図がその後の『仮面の告白』を巡る三島の言葉には感じ取れる。発表当時、文芸評論家の瀬沼茂樹は賞賛の言葉として「自己苛虐的な自己嫌悪を漂わせながら逆に自己を誇示してみせるところに、凡庸でない才能がひらめいている」と語っているが、この指摘は卓見に思う。
そして、この実人生を自虐的に公開しながら自らの弱点を誇示して見せるという手法は、小説家の中村文則氏も指摘している通り『人間失格』と酷似しているのだ。私は『人間失格』も『仮面の告白』も好きなのでこの事を糾弾する訳ではないが、客観的な目から見ればこうだという事である。これもまた、三島の太宰嫌いが同族嫌悪であったのでは、という推測に繋がる。或いは、まだ肉体的・精神的な鍛錬に励む以前の自分と、それを放棄し、自殺によって韜晦した太宰を照らし合わせて「こうはなるまい」と考えたのか。
昨日投稿した、石川啄木及び彼の作品群に対する私の印象変化にも、冷静に思い返せば似たような理由があったのではないかと思う。そちらは専ら啄木に関して書いたが、今度は啄木を通じて私自身の事について分析を行う。
石川啄木には、確かに印象を著しく損なうような逸話が多い。若かりし頃には、特に自らの才気を得意げに見せるような作品を書いたり、それを鼻に掛けるような言動を行ったりといったエピソードが目につく。十九歳で著し、二十歳で出版したという詩集『あこがれ』に収録された詩を読んだ時、私は確かにその絢爛な語彙や題の取り方に感心した。無論、早熟であるという理由でそう思うのではないし、歳若い者が書いたからといってあらゆる作品の価値が底上げされるのだとも思っていない。青少年の著した優れた作品を評価する時、「○○歳の作品として素晴らしい」などという評価は、文芸の世界を甘く見積もりすぎた考え方だ、とも思う。
しかし、私を含めどうしても評価者は、作者の年齢を気にし、それを賞賛の言葉にしてしまうきらいがある。中島敦が京城中学校時代に漢詩を作っていたという話や、三島由紀夫が十六歳で処女作「花ざかりの森」を書いたという話を知った時には「自分より若いのに凄い」と私も思った。そして、私が啄木の詩を読んだ際に「巧みだがどうも気に食わない」という感想を持ったのは、当時の彼の言行を知った以外に、私のかつての創作を思い出したからであった。
私は何も、自分が啄木のような天才だと言おうとしているのではないし、その事で自分と彼を重ね合わせようとしている訳でもない。しかし、私が高校三年の春から初冬にかけて諸々の事情で創作界隈を離れる以前、創作第一期と自ら呼称している詩作品を見た時、似非文語と自称した語彙の羅列を濫用し、また当時高校生であった自分がそれを密かに得意げに思っていた気配がありありと感じられ、慙恚に堪えなかったのは確かである。
中の一編を例として挙げる。
草流記(二〇二二年一月二十八日投稿)
草の流るに花香り 仙気を食むが如き口
満たし詩情を誘うは 琳琅奏づ通り風
朱に交われば赤くなり 人に交じれば淀を受け
相映帯す娑婆が世に 逍遥したく碧落へ
未開が頃も春色の 細鱗散るは自ずから
朗吟のなき往昔も 黄鸝が唄は美音なり
袖触り合わぬ泬寥の 水明の地に身を臥して
緩と弄月嗜むは 明き都に成せぬ事
篆烟霞む春が先 桜咲けるの眺むるを
古き時より胸の裏に 琴爪弾ける性と云う
小休憩を書きました。最近わざわざ意訳のスレッドを立てる程凝って書いていたので、今回はあまり深い事を考えずに書こうと思って、人里離れた自然風景の描写に努めました。都会では感じられない美もある。(投稿コメント)
……余程途中でやめようかと思った。さすがに、自分で投稿したものなので言葉の意味を理解する事は出来る。だが、あまりにも嫌味である。「深い事を考えずに書こうと思って」というのが、特に「素でこれくらい書けますよ」という余裕を感じさせる。また何故この文体で歴史的仮名遣いをしないのか、というのは、文法上に間違いがある事を理解しながら、それをごまかした上で「別に古文を作ろうと思っている訳ではないので」と言い訳をする浅ましさが透けて見える。
当時から「自分の作品は『古典』というより現代の『和ロック』に近い」とは公言していたが、最近ではもうこのように行き過ぎたものは書かず、日本の美しい言葉を使った和風の作品を書く時はわざと口語を基礎にしている。
同時に、石川啄木の「荒磯」(『あこがれ』収録)という詩を見て頂く。私が書いていたような七五調で、長さも丁度良かったので例に選んだが、それは次のようなものである。
行きかへり砂這ふ波の
ほの白けきはひ追ひつゝ、
日は落ちて、暗湧き寄する
あら磯の枯藻を踏めば、
(あめつちの愁ひか、あらぬ、)
雲の裾ながうなびきて、
老松の古葉音もなく、
仰ぎ見る幹からびたり。
海原を鶻かすめて
その羽音波に砕けぬ。
うちまろび大地に呼べば、
小石なし、涙は凝りぬ。
大水に足を浸して、
黝ずめる空を望みて、
ささがにの小さき瞳と
魂更に胸すくむよ。
秋路行く雲の疾影の
日を掩ひて地を射る如く、
ああ運命、下りて鋭斧と
胸の門割りし身なれば、
月負ふに癯せたるむくろ、
姿こそ浜芦に似て、
うちそよぐ愁ひを砂の
冷たきに印し行くかな。
当然啄木と私では、私が文豪に敵わないのは言わずもがなといったところだが、二十四歳以前の啄木の態度と私は何処か似ているのだ。昔の作品を愛せなくなったとは私も言うが、今でも「どうせ自分がこのような事を書いても多くの人には分からないだろう」「自分の創作物は頭を使わずに読めるようなものではない」「何故こう幼稚な議論しか展開出来ないのだろう」などと、表面上はにこやかに振舞いつつも内心相手を見下したようなところは私にもある。自らの創作態度に気付いてからも、今度は三島の「詩を書く少年」の主人公が「僕が十五歳だというんで、みんながさわいでくれるにすぎないんだ」と内心呟くような、卑屈ながらその裏で周囲の無見識を諦めるようなところが目立つ。
同族嫌悪は、自分が自らの短所だと思いながらも目を背けたいところを、鏡のような他者が体現という形で目の前に突きつけてくる事で発生する。だが、嫌いなものは修正するよりも出来るだけ関わり合いになりたくない、と思う場合が多いので、対象を嫌いな理由が同族嫌悪かどうかにも気付かずに、自らの欠点も抱えたまま大きな顔で我が道を行く態度の人の方が多いのかもしれない。




