「石川啄木」
(初出 note、2024年2月6日)
「詩人は先第一に『人』でなければならぬ」(同)と、彼は言った。同時に彼は、詩を作ったからばかりではなく、その活動の全体において、すなわち「人」として、詩人であることを証している。だから詩人啄木を考える場合に、その詩作品ばかりでなく、小説、評論、随筆、日記、書簡などの全著作を必要とする。
(山本健吉「啄木と歌」)
1.悪印象時代
私が石川啄木の「不来方のお城の草に寝ころびて/空に吸はれし/十五の心」という短歌に出会ったのは、恐らく小学生の国語の時間だったと思う。まだ青春という言葉を、その折々に付きまとう葛藤やアンニュイさに実感を伴って理解する事の出来ていなかった時期だったが、当時十歳前後の私は、何故かこの三十一音が心に残って離れなかった。
石川啄木という歌人の名前を、「教科書に載っている歌の一つ」としての短歌ではなく、個人として理解するようになったのは中学生以降だった。その後「ふるさとの訛なつかし/停車場の人ごみの中に/そを聴きにゆく」「頰につたふ/なみだのごはず/一握の砂を示しし人を忘れず」など有名な歌に触れたが、高校時代、現在のように自ら多くの文学作品に触れるようになってから、啄木に対する私の印象が突如として悪くなった。
理由は、その逸話の数々である。十六歳の時、学期末試験でカンニングが発覚して謹慎処分を受け、当てつけるようにその年に自主退学した、単身生活時代に浮気を繰り返した、理解者の金田一京助から多額の借金をした上、それを自分を頼る者に得意げに与えた、妻・節子との結婚の際、仙台に寄り道をして自分の結婚式に欠席し、土井晩翠の夫人に金を借りてまで遊び惚ける(しかも、妹になりすまし、母親が重篤だという虚偽の理由をつけて)など。その上、私が最初に心惹かれた「不来方の」の歌は、中学校の授業をエスケープして不来方城外に行っていた頃の心境である事が分かり、またこれらを収録した句集『一握の砂』を既婚者の橘智恵子に送って「その中に収めた歌二十何首かはあなたの事です」(意訳)などと手紙を書いた、という逸話も知り、私は幻滅に堪えなかった。
啄木は、若年の頃から天才肌であった。小学校には同級生より一歳早い年齢で入学したものの卒業時は首席であり、村では神童と謳われたという。石川家で唯一の男児であった為に両親から溺愛されて育ち、それ故に我儘で自己中心的な性格となり、その後の破天荒な行動に繋がる事になる。
二十歳で初詩集『あこがれ』を出版し、その後は散文(小説、評論)も精力的に書く。中でも「林中書」は巧みだが、この中に私が読んで、非常に気分を害した箇所が複数ある。軽く引用してみる。
しかり、(あえて自白する)予は実に無類の欠席者、済度し難き頑迷児であったのです。一個月中わずか三日しか出席しない月のあった事も、また教場へ出てもなるべく後方の卓を選んで常に教科書以外の本を密読した事も、嫌な学科の試験には、同類の怠慢者五六と相談して、ある一人に数人分の勉強を請負させておき、その者の作った原案を自分が五様六様に作変えて同類へ一通ずつ配布した事も、イヤに見識ばかり高くて、ある二三の人格高い先生を除いては何の先生の前でもケロリカンとしていて、ある時などは国文法上の一質問に答えて、『文法というものはその国語を用いる作者と読者の間の約束に過ぎません。文法を錯誤なく書き得る人には覚える必要のないものです。だから私は四段活も十段活も百段活も知りません。』と空嘯いた事も、……(後略)
要するに、不良学生だったという事だ。特に最後の方の台詞などは「生意気なガキだったのだな」という印象がありありと伝わってくるが、ここだけを見るとまだ「尖っていた時期があったのだな」と、時間が経って笑い話になった頃に振り返って、苦笑交じりに反省しているようにも思える程度ではある。しかし、もう一箇所の方は手に負えない。
天才──すなわち大人物は、世界の骨である、眼である、脳である。人生の司配者である、人間の理想的典型である。世界史はやはり天才の伝記である──我等は歴史の意義を知らなくても構わない。ただ人生の意義を知ればたくさんだ。
すなわち教育の最高目的は、天才を養成する事である。世界の歴史に意義あらしむる人間を作る事である。それから第二の目的は、かかる人生の司配者に服従し、かつ尊敬する事を天職とする、健全なる民衆を育てる事である。しかし、最高目的はどこまでも最高目的で、第二の目的はやはりどこまでも第二の目的である事を忘れてはならぬ。
因みにこの直後には「教育の真の目的は、『人間』を作る事である」という事が書かれており、個々人の適性を無視し、長所を殺してまで単一化された教育を施そうとする教育方針へ物申す内容となっている。無論戦前の事で、当時の教育方針は現在とは大分異なるだろうが、その主張は間違いではない。しかし、私は啄木の「人間」の捉え方に、得も言われぬ不快感を感じた。彼は「人間」の育成を「天才」の育成と言い換えており、そこには「社会を動かすのは天才たちだけであり、それ以外の人間の行為には一切の価値がない」というような見方が窺える。
この天才至上主義とでもいうべき考えは、啄木自身がその「天才」であった事と無関係ではない。従来の教育制度を軽蔑した彼は、「林中書」の発表当時代用教員として小学校で教育を行っていた。一見矛盾した行動のようだが、彼には「人を倒すには足を斬るのが一番よいようだ。『教育』の足は小学校である。木乃伊へ呼吸を吹き込むには、小学校の門からするのが一番だ」という、子供が小学校のうちから天才なりの教育を施さねば、という思案があったようだ。これは、自らを天才と考えていなければ起こし得ない「凡愚な民衆の目を社会組織の内側から覚まさせるのだ」という、いわゆる”革命の英雄”的な自己陶酔にも取れる。
世間の大多数から見た場合の人格的な欠陥を持った大人物は多い。太宰治を例に出すが、彼と啄木は非常に共通した部分がある。幼少期から才能があった事も、女性関係の乱れもそうだが、太宰の場合、彼が世で言う「健常者」ではその文学は生まれなかった、と私は思っている。彼が薬物中毒に悩み、幾多の心中を繰り返し、他人へ迷惑を掛け、またその事について罪悪感を抱いていなかったら、つまり人並みに生きていたら、人並みの人間を感動させ得る厚みは作品に加えられなかった。しかし、啄木の場合はどうだろうか。
なるほど作品は巧みである。しかし、それは彼自身の抱えていた葛藤や、日常で吐き出せない精神の褥瘡とでも表白すべきものが、文学として昇華されたものになっているのか。逆に、「天才だから何をしても『さすが、やはり天才は違う』と容認される」という驕りがあるのではないか──。
私はそのような事を考え、それまで心惹かれていた彼の作品群に魅力を感じられなくなった。恵まれた環境に満足したお坊ちゃんが趣味で始めて持て囃される、以上のものには思えなくなったのである。
……と、いうのが、この間までの私の、啄木に対する評価であった。
2.本当にそうなのか?
啄木の本なぞもう買うものか、と思っていた私だが、距離を置いて暫らく経過した事が意地を張っていた私の心を解き解したのか、どういうつもりだったのかは思い出せないが、私はこの間新潮文庫の彼の句集『一握の砂・悲しき玩具』と、ちくま日本文学シリーズ全四十巻のうち『石川啄木』を購入した。誰か別の作家の作品を調べる為に、資料として必要になったのだったような気もする。
ともかく私はこれらを読み、それまで私が啄木に抱いていた印象が、彼のある一面に過ぎなかった事に気付かされた。そのきっかけとなったのが、『石川啄木』に収録された明治四十二年「弓町より」という評論だった。
この評論には「食うべき詩」という副題がある。これは本当に副題なのか、それとも「弓町より」という大系化された評論集を作ろうとして結果的に「食うべき詩」のみで中断したのか不明だが、本作を取り上げる際「食うべき詩」という題名を使う人の多い事は事実である。内容としては詩論だが、「林中書」とは異なり淡々とした自己反省文に近い。中でも、序盤に登場する「そうして『詩人』とか『天才』とか、そのころの青年をわけもなく酔わしめた揮発性の言葉が、いつの間にか私を酔わしめなくなった」という言葉で、私は膝を正さざるを得なかった。
肥大した自尊心に満ち満ちていた啄木とは思えないような言葉である。一体何があったのだろう、と、私は疑問に思い、普段見ないような巻末の年譜まで見、ネット上で資料を調べるまでした。その時、私は啄木に感じていた「恵まれた環境で生きていた」という印象が全くの誤りであった事を知った。
* * *
啄木は、「林中書」に書いていた通り教え子たちに独自の教育を施す。実際児童はそれを楽しみ、休日にも啄木宅を訪れたという。しかし、「林中書」発表から四ヶ月後、彼の実家では、元宝徳寺の住職であり、宗費滞納を理由に罷免された父・一禎の住職再任運動が失敗し、その波及を受けて啄木は免職処分となる。というのも、これは前年、父が曹洞宗宗務庁から特赦され、住職再任の話が浮上した際、それに賛同する者、反対する者に檀徒が二分化し、村を巻き込む紛争に発展した事で、これ以上家族に迷惑を駆けられないとした父が家出、啄木はこの事で村の人間たちの行動に怒りを覚え、自らを慕う教え子たちにストライキを指示し、免職……という経緯があったのだそうだ。
事実だけを見れば「また破天荒な事を」と思いそうになるが、これについてのコメントは後述する。
父の罷免により経済的基盤を失っていた啄木一家の生活は、ここから更に困窮する事となる。村内紛争の勃発した年には、長女の京子も生まれていた。一禎が再任を断念して出奔した後、啄木は家族と共に北海道へ移住する。しかし、不幸は重なるもので、松岡蕗堂らの好意で得た苜蓿社の編集作業に加え、函館区立弥生尋常小学校の代用教員、函館日日新聞の遊軍記者という仕事が全て年内に消滅する。小学校と新聞社は、函館大火によってどちらも焼失してしまったのである。苜蓿社の同人たちはその後もあの手この手で啄木の仕事を世話するが、最終的に移った小樽日報で主筆や事務長らと対立、暴力を振るわれこちらもまた退社に至った。
この社内紛争も、また啄木に全くの責任がないとは言えない。小樽日報で親交を結んだ野口雨情と共に主筆を排斥しようとし、その後も社を「営業実績が上がらない」という理由で見限りかけ、札幌に新設されると聞いてそちらに通おうとした事で事務長と火花を散らしたのだという。
何をやっているのだろう、と思う事は出来るが、こういった事件の数々は、啄木自身の才能と自負心、そして貧窮の中で家族を養わねばならないという理想と現実の乖離を彼に突きつける事となった、とも想像出来るだろう。故郷でのストライキの煽動の件も、小樽日報での社内紛争も、彼の理想に現実が迎合せず、しかもそれが変え難い事であった故に彼の身に跳ね返った。
苜蓿社同人の中には、後に啄木の生涯の友人となり、妻節子の妹と結婚する宮崎郁雨が居た。この時既に親交を結んでいた彼に家族を託すと、啄木は上京する。この理由には、まだ彼の矜持が付きまとっている。小樽日報の退社後、釧路新聞へと就職した彼は編集長となり読者を獲得したが、彼にはまだ中央文壇への憧れがあった。当時は自然主義文学の全盛期であり、啄木は辺境の地で記者活動に勤しむ自分が取り残されるような気がしたのだ。
郁雨はこの話を聴き、自分の文学的運命を試したい、という彼の創作意欲に応えて家族を引き受け、上京資金を工面した。本郷菊坂町に同郷の友人・金田一京助と拠点を構え、小説を書いた時期はこの時期である。「鳥影」を始めとするこれらの作品にはまだ彼の天才であるという自信や独り善がりなところが見られるようだが、ここが啄木の紛れもない転機であった事は、再会した金田一の「流転から再会へ」という文章で語られている。
私の涙ぐましい程、嬉しくもなつかしかったのは何を云うにも、今度の石川君は、しみじみとして、気取りもなければ、瘦我慢もなければ、見栄坊もなく、一切の過去を奇麗に清算して少しのわだかまりなく、真実真底から出て来る本音のようなことばかりが口を出る、といった気分だったことである。云うことが、そうだろう、そうだろう、とみんなそのまま受け取れてびしびしと来る事ばかりだったことである。
金田一が啄木の理解者である事、啄木にとっても気の置けない友人である金田一と再会した事から態度が軟化していたのでは、という可能性もあるが、まず客観的に見て啄木の人格が成長していたのは確かだ。見ざるを得ない現実から弊目する事がやめられた、ともいえるかもしれない。
そして、その翌年に家族が上京してくる。啄木は彼らを迎え、本郷弓町に移って一家での暮らしが始まったが、彼が東京に居る間、函館で暮らしていた母・カツと節子との間では確執が激しくなっていた。また節子は結核を患い、それにもまして経済的な余裕のなさから、なかなか送金してくれない啄木への感情が変化していた事も手伝い、遂に娘の京子を連れて家出をする。彼女は盛岡の実家に帰り、啄木や金田一らの尽力で三週間後に帰宅するが、啄木はこの出来事に衝撃を受け、今までの自分を悔悟する事となる。
その結果として書かれたのが、同年の「弓町より」であった。
二十歳の時、私の境遇には非常な変動が起った。郷里に帰るという事と結婚という事件と共に、何の財産なき一家の糊口の責任というものが一時に私の上に落ちて来た。そうして私は、その変動に対して何の方針も定める事が出来なかった。およそその後今日までに私の享けた苦痛というものは、すべての空想家──責任に対する極度の卑怯者の、当然一度は受けねばならぬ性質のものであった。そうして殊に私のように、詩を作るという事とそれに関聯した憐れなプライドの外には、何の技能も有っていない者において一層強く享けねばならぬものであった。
啄木は、この論中で本当は自分は小説を書きたかったのだという事、そしてどうしても書けなくなった時、「勝手気儘に短歌という一つの詩形を虐使」して四、五百の短歌を作った事を告白する。啄木は「虐使」という言葉を使ったように、小説を書いていた頃、短歌をそこまで重要なものとは捉えていなかった。どちらかというと、その時々の心情や書けない苦しみを、滑稽味と共に表現した「戯作」のつもりであったようだ。しかし、これは啄木が「歌」を発見する端緒であった。
彼は更に、同論文中で当時の新体詩の風潮について「今までの詩人のように直接詩と関係のない事物に対しては、興味も熱心も希望も有っていない──餓えたる犬の食を求むるごとくにただただ詩を求め探している詩人は極力排除すべきである」と述べている。例としては「意志薄弱なる空想家、自己及び自己の生活を厳粛なる理性の判断から回避している卑怯者、劣敗者の心を筆にし口にしてわずかに慰めている臆病者、暇ある時に玩具を弄ぶような心をもって詩を書きかつ読むいわゆる愛詩家、及び自己の神経組織の不健全な事を心に誇る偽患者、ないしはそれらの模倣者等」だそうだ。分かりにくい場合、「詩人は何処かセンチメンタルで病んでいるようなところがあるから、詩書き界隈に入るには病んでいるように振舞わなきゃ」と考えるような人々、と考えてもいいだろう。
啄木がこの「弓町より」の翌年にいよいよ刊行した『一握の砂』を読むと、「かなしき」「かなしむ」「かなしみ」といった言葉がどれだけ多いだろう、という事に気付かされる。そしてそれは、想像で悲恋を描く最近の私たちのようなものではなく、つまり創作物としての浮泛なものではなく、「食」、ないしはそれを基礎とする日常生活に密接に結びついたものである。特に巻末の、生まれてすぐに世を去った長男・真一の事を綴った歌によく表れている。
啄木は、小説が書けず苦し紛れに吐き出していた歌、殊更に作ろうと意識せずとも次々に浮かび上がった歌に、生活の悲しみに密接に寄り添った文学の真髄を発見したのだ。
引用ばかりで申し訳ないが、もう少しだけ「弓町より」について解説を続けさせて貰う。彼が最終的に三十一音に行き着き、それらが珠玉の作品と捉えられるようになった裏付けとも取れる言葉である。
詩はいわゆる詩であってはいけない。人間の感情生活(もっと適当な言葉もあろうと思うが)の変化の厳密なる報告、正直なる日記でなければならぬ。従って断片的でなければならぬ。
その「断片」こそが、三十一音という短い音の中で作られる短歌なのである。
* * *
石川啄木は確かに天才である。しかしその天才は、私が常々主張しているように生涯の暗さを芸術の域にまで昇華させられたという文学者としての素質であり、彼が歌人であるには、また現在まで残り続ける歌の数々を生み出すには、「神童」としての挫折と北海道漂流の厳しさ、両親や妻子に対する責任の自覚などを通じた「研鑽」の結果だった。『一握の砂』の「我を愛する歌」という最初の歌群の名前について、私は以前まで「自分の才覚に酔い痴れている啄木らしい名だ」などと思ったが、そうではなく「それでも私はここまでやった」「悲しい事は沢山あるが、私はその中で私を生きている」という人間的な誇りの表れだったのか、と今では思う。
私は啄木を全否定しないように、全肯定もまたしないが、彼の歌が表している一面は傲岸な優等生としての彼ではない、生活者としての一面の方なのだ、という事を結論に掲げておく。




