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未分類  作者: 藍原センシ
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「三島由紀夫『蘭陵王』──『日本近代短篇小説選』補遺」

(初出 note、2024年2月2日)


 先日読了した『日本近代短篇小説選』だが、最終巻である「昭和篇3」収録、三島由紀夫「蘭陵王」について、紅野謙介氏による解説に対して思う事があったのでもう一回だけ枠を取らせて頂く事にした。

「蘭陵王」は、三島の最後の短編小説である。昭和四十四年十一月、自衛隊市ヶ谷駐屯地での自決から約一年前に発表され、題名は北斉の蘭陵武王・高長恭(こうちょうきょう)の武勇伝を取り扱った雅楽の曲目に由来する。作品は三島が主宰を務める民兵組織「楯の会」が陸上自衛隊富士学校で体験入隊を行った時の出来事を書き綴ったものだが、エッセイでも小説の体裁を取った報告でもない。作中で「蘭陵王」は終盤、行軍で小隊長を務めた学生が横笛による演奏を行い、皆でそれを聴くという形で作品に登場するが、題名であるからにはこの場面に物語の核心が潜んでいるに違いない。

 とはいえ、「蘭陵王」は非常に謎めいた作品である。流すように読めば本当に現地報告ではないか、と思われる程淡々と進み、穏やかに凪いだ空気が漂っている。「卒業試験ともいうべき小隊戦闘訓練」で行軍を行っていた主人公「私」たちは休憩中に木陰に蛇が居るのを見つける。特に騒がれる訳でもない。演習後は帰営して食事や入浴を済ませ、最後にいよいよ「蘭陵王」の演奏となる。演奏が終わった後、笛を吹いた小隊長のSは唐突に、「私」に「もしあなたの考える敵と自分の考える敵とが違っているとわかったら、そのときは戦わない」という謎めいた言葉を掛け、物語は幕引きとなる。作品の雰囲気が全体的に凪いでいる印象があるのは、物語に大きな起伏がない事以前に、「私」が「要するに私は幸福だった」と、営舎での生活に満足に近い気持ちを抱いており、描かれている現状がそのままでいいものだ、という安定感があるからではないか、と私は考えている。

 発表当時も(ほとん)ど反響がなかったそうだが、複数の評論家がぽつぽつと独自の見解を述べている。佐伯彰一氏は「生命の極点に姿をあらわす死」を指摘し、それを「三島の美学の原型」と考察している。紅野謙介氏は「要するに私は幸福だった」という箇所が直前の「肉体は銃器のように細心に管理されていた」を受けている事から「自己管理の頂点としての『幸福』は反対の極に滑り落ちるぎりぎりの緊張があって成り立ちえた」と書いている。更にこれを、小説の構成が「古典的にまで均整のとれ」ている事に布衍し、「破綻すれすれの小説の臨界点を示しているのかもしれない」ともしている。

「自己管理の頂点」「生命の極点」が、何故それによって「死」が現れる事を思わせるのか。それは、作中で演奏される横笛の音の起伏について、次のような描写がなされるからではないか。少々長いが引用させて頂く。


 耳で聴くのではなくて、頭の奥底で聴くようで、自分の頭のなかに暗い広野があるから、その奥のほうへじかに響いてくるのは、あたかも笛が、その頭の奥の(はる)かかなたの、非常に森閑としたあたりで吹かれているような気がする。

 音には、しかも一片の暖色もなくて、寒色ばかりで占められている。はなはだ遠くにきこえるかと思うと、忽然(こつぜん)として近くに在る。そのとき笛の音のなかに、何かの面影が立ち休らうのが見える。

 音がなだらかな坂を下り切ると、今度は永遠につづくような急坂を昇りはじめ、切迫した息の苦しみはひしひしと身にせまり、氷結した死が、青年の息を迎え入れるために、かなたに口をあいていた。

 私は、横笛の音楽が、何一つ発展せずに流れるのを知った。何ら発展しないこと、これが重要だ。音楽が真に生の持続に忠実であるならば、(笛がこれほど人間の息に忠実であるように!)、決して発展しないということ以上に純粋なことがあるだろうか。


 三島は「発展しないこと」を「生の持続に忠実」である事だと述べた。「発展しない」とは完結した、それ以上改良や変化の余地がない究極的な状態だという事だが、その究極的な状態即ち不変である事が、否が応にも「死」を連想させるのだ。笛が人間の息に忠実、吹き込んだ息により望み通りの音を返す事も、それによって奏でられる音楽が「生の持続に忠実である」事と重ねられているが、吹き込む際、息は「切迫した」状態であり、「苦しみ」を伴うものである。その息の向かう先に待ち構えているのは、「氷結した死」だと決定的な言葉が使われている。

 そしてもう一つ。Sは笛を吹き終わった後、何時間も続けて練習をすると、幽霊を見るのだそうだ、と語る。「吐く息ばかりになるためであろうか」と彼は考察しているが、私はこの「幽霊」が、「私」が「笛の音のなかに、何かの面影が立ち休らうのが見える」と幻視するものの正体なのではないか、と思えてならない。もしこの「面影」と、笛の吹き手が見るという「幽霊」が同一のものなら、「私」が吹き手に感情移入し没入している、という事になり、同じように「等しく深い感銘を受けて、しばらくは言葉もなかった」学生たちも含めた連帯感が強調されていると捉えられるが、実際のところはどうだろうか。

 この幽霊云々という下りを経て、問題の幕引きに入る。「もしあなたの考える敵と自分の考える敵とが違っているとわかったら、そのときは戦わない」という言葉が、作中の表現を借りれば「卒然と」登場する場面だ。

 紅野氏はこれを反語的に捉え、このように解説している。


 これは『あなたの考える敵』と『自分の考える敵』が同じであれば、必ず戦う、相手を絶対に倒すという意味でもある。違っているのであれば戦いはしない。……(中略)……『あなた』と『自分』が一致しているという確信があって、初めて戦う意志が生まれる。三島由紀夫最後の短編はこの言葉で結ばれる。

 学生たちの背景は何も描かれていない。楯の会に入り、こういう確信にいたるまで、学生たちひとりひとりにそれぞれの孤独と葛藤があったはずである。未熟さをひきずりながら、しかし、こうして集まってきた学生たちに三島は一体感をもった。


「私」が、笛の吹き手が見る「幽霊」と思われる「面影」を見ているのは、紅野氏の述べるような「私」とSの、()いては学生たちの「一体感」を表すのとは真逆の描写になっている。何故なら、Sは「私」からの「君は(幽霊を)見たか」という問いに対し、「いや、見たことがない、幽霊を見れば一人前だと言われているが、まだ見たことがない」と、やけに強調して答えるのである。

 私は「楯の会」の一体感は、この「蘭陵王」と同じく、安定しながらも常に破綻と隣り合わせにある一体感だと考えている。気を付けねばならないのは、不安定だからこそいつ決壊するか分からない、という事ではない。()()()()()時にはする、という事を前提とした団結であり、そうでない限りは盤石に安定している、という事だ。そして「破綻すべき時」が、自分たちの敵がそれぞれ異なると分かった時。つまり、(はな)から「楯の会」は家族的な理由のない連帯ではなく、目標を共有する事で同じ船に乗っている状態だった、という捉え方だ。

 Sの最後の言葉は、紅野氏や、高橋英夫氏の「拒否」または「否定形」が着目点であり、「自分に対して向けられた拒否を逆に拒否しかえすことによって、それをドラマの中に持ちこむ」という表現上の方法である、という考察の如く反語的に解釈するものではない。目標が異なれば共闘をやめ、いつでも決別する、という意識を共有していた事の提示だった、という訳である。

「蘭陵王」が発表される半年前、昭和四十四年五月、三島が東大全共闘の学生たちと行った伝説的な討論がある。社会運動が一世を風靡する中、暴徒と化し、命を賭ける覚悟もなく治安を擾乱する運動に混乱する東大を「動物園にしろ」と苦言を呈した三島だが、彼は別に東大生と戦う為に大学に行ったのではない。内田樹氏は三島が「全共闘と自分には共通点がある」と発言していた事を挙げ、「東大に彼が乗り込んだのは論争するためではなく、共にクーデターに立ち上がる革命戦士をリクルートに行った、というのが僕の仮説です」(「ビジネスインサイダー」より)と語るが、この事を踏まえ、討論の最後に三島と全共闘の学生の間にあったやり取りを見る。


 全共闘G これは会場の諸君とは関係ないですけれども、ぼくから三島さんに呼びかけたいのですが、ぼくは「あなたに共闘していただきたい」と。さっきあなたは、もし諸君が天皇という言葉を口にしたならば、喜んでやるだろうとおっしゃった。……(中略)……それでもぼくは今天皇という言葉を口にした。それでいて、なおかつぼくは今東大全共闘としてまだ活動続行中である。三島氏がさっき言ったことがほんとうとするならば、三島氏はぼくと共闘してくれてしかるべきだと思う。

 ……(中略)……

 全共闘G それで共闘するんですか? しないんですか?

 三  島 今のは一つの詭弁(きべん)的な誘いでありまして、非常に誘惑的になったけれども、私は共闘を拒否いたします。(※)


「蘭陵王」の結びを示唆しているようには思われないだろうか。全文を引用する訳には行かないのでかなり分かりづらいかもしれないが、三島は討論の中で、思想の違う自分たちが同じ目的の為に手を取り合える可能性を示唆し、ある学生はそれに応じて三島を勧誘した。が、三島はやはり自分たちは敵対せねばならないとしてそれを拒んだ。「蘭陵王」では「敵」と書かれているが、それは「目標」とも言い換えられる。ここでいう「天皇」という言葉であってもいいが、同じ単語の対象を見ていても、その見解に類比性があれば共闘はしない。

 一度、「私」は「幽霊」のような「面影」を見るが、それはまだ無条件に同じ組織に属する仲間に連帯感を抱く描写である。その後、実はSが「幽霊」を見ていない、という事を強調し、駄目押しのように最後の言葉を加える。それは、無条件な連帯感から共通目標を(よすが)とした結束へと「私」の認識が改まる瞬間であり、故に物語は必然的に敵云々という言葉で終結せねばならなかった。そうでなければ何故、この謎めいた言葉を結びに置く必要があっただろう。

 三島のこの考え方を基に、彼の市ヶ谷駐屯地に於ける行動を解釈した時、私は紅野氏が解説中で語っている内容に異議を唱えたいのである。


 憲法改正を求め、天皇の軍隊として決起せよというクーデターの呼びかけに自衛隊員たちが応ずると思っていたとは信じられない。組織としての自衛隊は富士正晴のとらえた『帝国軍隊』と大差なかったにちがいない。むしろ、そのことを明るみに出した上で、幸福の極致として自死を演出することが三島由紀夫の最後のパフォーマンスであった。


 三島は自身が幸福を味わう為の演出として自死を遂げた、などというナルシシズム的な解釈は誤りだと言わざるを得ない。自衛隊は「帝国軍隊」と大差ないという事を明るみに出そうとした、というのも疑わしい。三島が、届くはずもないと最初から諦めながら「諸君らは武士だろう」と言っただろうか。

 少なくとも三島は、憲法に対して自衛隊側からすれば「自分を否定する憲法」と言っており、「蘭陵王」で挙げられた敵の共通を前提とする共闘の条件に、自衛隊が当て嵌まる事は確かだ。三島に、行動が失敗した時の覚悟があったとしても、その実行を決定したのは、自衛隊が自身の考える敵と共通した敵を持っていなかったと直接見極めた時になって初めてと考える方が自然だ。紅野氏の論の展開には、三島が「楯の会」を通して感じていた「幸福」を、単なる同胞へのシンパシーとして目的の伴わないまま、最期の瞬間まで引き摺ったというような曲解が感じられる。

 尚、それでは三島の自決する必要は何処にあったのか、という事に関しては、事件当日まで書かれていた『豊饒の海』第四巻「天人五衰」作中にその理由が仄めかされている。


「大体僕は自殺する人間の衰えや弱さがきらいだ。でも、一つだけ許せる種類の自殺がある。それは自己正当化の自殺だよ」


 つまり彼は、言葉で訴えても届かない自分の覚悟、自分の言葉は間違っていないという矜持を身を以て知らしめるために、自身の幸福感や陶酔など二の次で、短刀を腹に突き立てたのではないか。私はそう推論する。



※角川文庫『美と共同体と東大闘争』では発言者の名前が太字で強調されており、また改行の際は発言者の名前よりも下から次行が開始されていますが、「小説家になろう」の環境上再現出来ませんでした。

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