第8話:引き裂かれた空気
「……ちょっと、ゆらり。職員室に来て」
由奈の震える声に背中を押されるように、あるいは引き止められるようにして、私は冷え切った足取りで廊下を進んだ。
教室のざわめきが、まるで遠い海の底の音のように聞こえる。頭の中は真っ白で、ただ心臓の音がうるさいほどに大きく響いていた。
職員室の扉の前で、担任の先生に名前を呼ばれる。
中に足を踏み入れた瞬間、そこに座っていたのは先生だけではなかった。見知らぬスーツ姿の大人たちが数人、険しい顔でこちらを見据えている。そして、その一角のパイプ椅子に、うなだれた姿勢で座る見慣れた背中があった。
「……慧太郎……?」
声に出した瞬間、顔を上げた慧太郎と目が合った。
いつもの気だるげな雰囲気も、優しい笑みも、そこにはなかった。やつれた顔の彼は、私を見ると痛ましそうに目を伏せ、小さく首を横に振った。
「ゆらりさんですね。……こちらに座りなさい」
冷徹な大人の声が、私の思考を強制的に切り裂く。
どうしてこうなったのか。あの秘密の部屋でのこと、誰にも言わなかったはずの甘い時間が、どうやってこんな形で暴かれたのか。嫉妬からだったのか、それとも由奈や誰かの純粋な「心配」が大人たちを動かしたのか。理由はもう分からなかった。ただ、私たちが踏み越えた「一線」が、想像よりも遥かに重い鎖となって、私たちを縛り上げていることだけが痛いほど伝わってきた。
「未成年者誘拐、あるいは……」
大人の誰かが発した物騒な言葉が、耳の奥で反響する。
違う、そんなんじゃない。私が好きになったんだ。私が無理を言って、彼のそばにいたくて……そう叫ぼうとしたのに、喉の奥がキュッと締めつけられて、どうしても声が出ない。息ができない。あの図書館で出会う前よりも、もっと酷い、逃げ場のない窒息感が私を襲った。
「ゆらり、もういいんだ」
ボソリと、慧太郎が呟いた。
彼はゆっくりと立ち上がり、冷たい手錠のような視線を浴びながらも、私にだけはまっすぐな目を向けた。その瞳の奥にあったのは、後悔の色なんかじゃなく、私を必死に守ろうとする痛々しいまでの覚悟だった。
「……俺が、全部やったことです。この子は……関係ない」
「慧太郎……っ!」
私が駆け出そうとした瞬間、大人の大きな手が私の肩をガシリと掴んだ。
「離して! 行かないで、慧太郎……!」
私の叫びを遮るように、警察の人間らしき男たちが慧太郎の両脇を固め、そのまま連れ出していく。
ガチャリ、と重い金属の音が響いた気がした。
慧太郎が連れ去られたその場所には、ただ冷たい空気と、あの日の甘い香りの残骸だけが取り残されていた。
あんなに誇らしかった「大人びた私」は、一瞬にしてただの無力な子どもに引き戻される。
息の仕方を忘れた私の頬を、熱い涙がとめどなく伝い落ちていた——。




