第12話:くだらない日常の温度
「ねえ、ゆらり。このあと、駅前の新しいカフェ行かない?」
放課後の廊下。窓の外の夕日をぼんやりと眺めていた私の肩を、由奈がポンと軽く叩いた。
あのとき私を問い詰めた彼女も、いまは私の壊れそうな様子をどこか気まずそうに、だけど必死に隠しながらこうして誘ってくれている。その優しさが、今の私には少しだけ重くて、でも拒む理由もなかった。
「……うん、行く」
私は小さくうなずいて、カバンからローファーを取り出した。
少し薄暗くて、甘いコーヒーの香りが漂うおしゃれなカフェ。
私たちは窓際の席に並んで座り、メニューの分厚いページをめくった。だけど、お互いに何を頼むでもなく、テーブルの上に置かれた小さな観葉植物をじっと見つめていた。
気まずい沈黙が落ちるのを恐れたのか、由奈が少し大げさな声で口を開いた。
「ねえ、聞いてよ。この前の数学の小テスト、マジで意味分かんなくなかった? あんなの、全校生徒の半分くらい赤点じゃない?」
「……ううん、私も全然わかんなかった」
「でしょ? あとさ、さっき校門のところにいた茶トラの猫、知ってる? あのデブ猫、また体育館の裏で日向ぼっこしながら寝てたんだよ。ほんと、世の中の縮図って感じでムカつくよねー」
哲学的な問いも、大人の冷たい診断も、自由意志についての苦しみも、そこには一切なかった。
ただの数学の小テストの愚痴。
体育館裏にいる、名前も知らない猫のどうでもいい話。
それはあまりにもくだらなくて、何の生産性もない、他愛のない女子高生の日常だった。
慧太郎がいなくなってからの私は、ずっと「どう生きるべきか」「何が正しかったのか」って、頭がおかしくなりそうなほど重たいことばかり考えていた。でも、目の前でパンケーキのシロップの掛け方に文句を言っている由奈を見ていると、その力んでいた肩の力が、ほんの少しだけ抜けていくのが分かった。
「……ねえ、由奈」
私はストローをクルクルと回しながら、カップの中の冷たい液体を見つめた。
「んー? どうしたの?」
「私さ……何者にもなれなかったなあって、最近思うんだ」
由奈は手を止め、きょとんとした丸い目で私を見た。
「何者って? ゆらりはゆらりじゃん。急になに、哲学者気取り?」
「ううん……そうじゃなくてさ」
私は小さく息をついた。
「立派な大人にならなきゃいけないとか、自分の意志をちゃんと証明しなきゃいけないとか、そういうの、もういいのかなって。なんか、疲れたなあって」
何者かになろうと背伸びをして、傷ついて、すべてを奪われて。
でも、いまこうして、ただ友達とくだらない話をして、甘いものを食べている。
世界が終わるわけでも、私が消えてしまうわけでもない。
「ねえ。……何者でもなくたって、生きていけるのかな」
私の消え入りそうな声に、由奈はしばらくじっと私を見つめた。
そして、呆れたような、でもどこかホッとしたような優しい笑みを浮かべて、ストローを指で弾いた。
「当たり前でしょ。何者かなんて、今すぐ無理にならなくていいの。それより、明日の古文の予習、私全然やってないんだけど手伝ってよ」
その、あまりにも軽くて、くだらない言葉が、胸の奥のつかえをスッと軽くしてくれた。
大人が決める「正しい私」でもなく、背伸びしていた「大人びた私」でもなく、ただの私でいい。
冷え切っていた胸のなかに、ほんの小さな、けれど確かな体温が戻ってくるのを感じながら、私は初めて、目の前のパンケーキを美味しそうだなと思った。




