第11話:ほどけていく糸
「ゆらりさん、体調はどうですか?」
精神科の診察室。白衣を着た先生は、カルテから目を離すと、静かな声で私に問いかけた。
私はイスに浅く腰掛けたまま、膝の上で制服のスカートの生地をギュッと指先で掴んで、うつむいたまま固まった。
「……別に、普通です」
「そうですか。……前回お話しした、あの人のことについて、少しずつ整理はつきましたか?」
その名前を出されたわけじゃない。でも、「あの人」という言葉だけで、私のなかの鍵をかけられた引き出しが無理やりこじ開けられるような気がして、息が浅くなった。
私は小さく、本当にわずかに、首を縦に動かした。
「……はい。もう、終わったことなので」
「そうですか。それがいいですよ」
先生は安心したように、ゆっくりと息を吐いた。
「あれは、あなたがまだ多感で、不安定な時期につけ込まれてしまったことですからね。あなたが自分を責める必要はまったくありません。少しずつ、日常に戻っていきましょう」
先生の言葉は、棘がなくて、とても穏やかだった。
否定されているわけでも、怒られているわけでもない。なのに、その言葉を耳にするたび、私の胸の奥はどんどん冷たくなって、硬い氷の塊に変わっていくような気がした。
つけ込まれた?
違う。あのとき、あんなにも必死で、あんなにも自分の足であの部屋に通って、あの人の体温を求めていたのは、紛れもなく私自身の意志だったはずだ。
なのに、大人の口から語られる事件の輪郭は、私がまるで操り人形のようで、すべては仕組まれた被害だったというストーリーに綺麗に整えられていく。
「……私の意志って、なんだろう」
あまりにも小さく零したつぶやきに、先生は優しく微笑んだ。
「焦る必要はありませんよ。ゆっくり時間をかけて、本来のあなたを取り戻していけばいいんですから」
――本来の私。
大人が期待する「本来の私」とは、きっと、あの人と出会う前の、何の色気も誇りもない、ただ従順で退屈な子どもに戻ることなのだろう。私のなかにあったはずの熱が、少しずつ、形を失って溶けていく。
診察室を出て、学校に戻っても、同じ空気が私を包んでいた。
保健室のドアをノックして中に入ると、保健医の先生が、いつもみたいに困ったような優しい笑みを浮かべて立ち上がった。
「ゆらりちゃん、顔色悪いよ。こっち来て座って」
差し出されたマグカップからは、甘いココアの匂いがふわりと湯気と一緒に立ち上る。
「……ありがとうございます」
「無理しないでね。時間がすべて解決してくれるから。辛いことは、だんだん忘れていっていいんだからね」
忘れていい。
そう言われるたびに、私と慧太郎が過ごしたあの濃密な時間も、震える手で交わした言葉も、全部「なかったこと」の引き出しに押し込められていく気がした。
家へ帰れば、リビングのソファで母がテレビを見ていた。私を見るなり、そっと雑誌を置いて、腫れ物に触るような優しい手つきで声をかけてくる。
「ゆらり、おかえり。今日のごはん、何がいい?」
「……なんでもいいよ」
「そう。……ねえ、もう大丈夫よね? いつもの真面目なゆらりに戻ったんだから、お母さん、安心してるの」
その「安心した顔」を見るたびに、私は喉の奥がキュッと締めつけられた。
もう、反論する気力すらなかった。
「これのどこが悪い!?」って、あんなに教室で叫びたかったはずなのに。周囲の優しさと、正しさという名の綿あめに包まれて、私の輪郭はどんどん丸く、小さくなっていく。
怒る理由も、泣く理由も、誰かにぶつける熱も、すべて削ぎ落とされていく。
気づけば私は、自分の形さえ分からない、ただの抜け殻になっていた。




