第9話「国境に迫る黒い影と、譲れない居場所」
けたたましく鳴り響く鐘の音は、夜の静寂を粉々に打ち砕き、私の心臓を冷たい手で掴み上げるようだった。
バルコニーで私に触れようとしていたレオンの手が、ぴたりと止まる。
彼の瞳に宿っていた微かな熱は瞬時に消え去り、極寒の氷の奥に鋭い刃を隠したような、峻烈な王の目へと変わる。
「何事だ」
レオンがバルコニーの下を警備する騎士に向けて低く鋭い声を放つ。
「報告いたします! 隣国アルベルト王子の軍勢が、我が国の国境を越えようとしております! 数は約三千。ルミナ様の引き渡しを要求し、強行突破の構えを見せているとのことです!」
騎士の切迫した声が、夜風に乗って私の耳に突き刺さる。
アルベルトの軍勢。
私を偽物と蔑み、暗い森へと追放した彼らが、今度は私を奪い返すために攻めてきたというのだ。
胃の奥が激しく痙攣し、吐き気にも似た恐怖がこみ上げてくる。
私のせいで、この美しく平穏な国が戦火に巻き込まれてしまう。
無関係な人々が血を流し、傷ついてしまう。
「……私の、せいで……」
震える唇から、自責の言葉が漏れ落ちる。
私が顔を覆ってうずくまろうとした瞬間、レオンの力強い腕が私の肩を強く抱き寄せた。
「自分を責めるな。愚かな決断を下し、そのツケを他国に払わせようとする狂犬の責任だ。お前は何も悪くない」
レオンの声は静かだが、その奥底にはマグマのように煮えたぎる怒りが潜んでいるのがわかる。
彼は私を抱えたまま部屋の中へと戻り、扉をしっかりと閉めた。
「出陣の準備をする。お前は安全な城の奥で待機していろ」
「駄目です!」
私は無意識のうちに、レオンの腕を強く掴んでいた。
自分でも驚くほどの大きな声が出た。
彼が私を守るために血を流すことなど、絶対に耐えられない。
「私も行きます。彼らの目的は私です。私が直接顔を合わせ、完全に拒絶の意思を示さなければ、アルベルト殿下は決して諦めないでしょう。……それに、私はもう、逃げ隠れするだけの弱い人間ではありません」
私の言葉に、レオンは一瞬だけ驚いたように目を瞠り、やがて顔をしかめる。
「戦場は遊びではない。血の匂いと死の恐怖が渦巻く場所だ。お前をそんな場所に連れて行くわけには……」
「連れて行ってください。私は、この国の治癒を担う者として、貴方の背中を守りたいのです」
私の真っ直ぐな視線を受け止め、レオンは深くため息をついた。
そして、私の頭に大きな手をポンと乗せる。
「……わかった。だが、絶対に俺の傍を離れるな。お前の命は、俺が命に代えても守り抜く」
その言葉の重さに、私は力強く頷いた。
◆ ◆ ◆
足元で様子を窺っていたフェンが、低い唸り声を上げた。
いつもは愛らしい子犬の姿をしている彼だが、今はその白い毛並みが銀色の光を放ち、周囲の空気がビリビリと震えるほどの魔力を発している。
彼の体が淡い光に包まれ、そのシルエットがみるみるうちに巨大化していく。
光が収まると、そこには天井に届くほどの体高を持つ、銀狼の姿をした巨大な神獣が立っていた。
鋭い牙、獲物を射抜く黄金の瞳。
その威厳ある姿は、まさにガルディアの守護神そのものだ。
「フェン……」
私が恐る恐る手を伸ばすと、巨大な銀狼は鼻先を私の手のひらにすり寄せ、かつてと同じように甘えるような仕草を見せた。
姿は変わっても、彼は私の大切な家族だ。
◆ ◆ ◆
夜明け前。
冷たい霧が立ち込める中、私たちは馬車に乗り込み、国境へと向かって疾駆していた。
レオンは漆黒の重装甲冑を身に纏い、腰には身の丈ほどもある大剣を帯びている。
馬車の中は重苦しい静寂に包まれていたが、揺れるたびに彼の肩と私の肩が触れ合い、その体温が私の心を落ち着かせてくれる。
馬車の外では、真の姿を取り戻したフェンが、風を切るような速度で伴走している。
やがて、馬車がゆっくりと停止した。
扉が開かれ、外の空気を吸い込むと、そこには微かな腐敗臭と鉄の匂いが混じっていた。
国境の防衛線。
私たちが丘の上に立つと、眼下の平原には、アルベルト率いる祖国の軍勢が陣を敷いているのが見えた。
しかし、その光景はあまりにも異様だった。
兵士たちの鎧は泥に汚れ、陣形は乱れ、立っていることすらやっとの者が大半だ。
彼らの頭上に漂う空気は淀みきっており、死の気配が色濃く漂っている。
その軍勢の先頭で、金糸の刺繍が入ったマントを風に靡かせている男がいる。
かつての婚約者、アルベルトだ。
彼は丘の上に立つ私たちの姿を見つけると、馬を進み出させ、狂気を孕んだ声で叫び声を上げた。
「ルミナ! 迎えに来てやったぞ! さあ、私の胸に飛び込んでこい! お前の罪はすべて許してやる!」
その傲慢で身勝手な言葉が、冷たい風に乗って私の耳に届く。
かつては、この人に嫌われることが何よりも怖かった。
だが今、私の隣には、私のすべてを肯定し、守り抜くと誓ってくれた本物の王がいる。
私の心には、アルベルトに対する恐怖も未練も、もはや微塵も残っていなかった。
「……行きましょう、レオン陛下」
「ああ。虫けらどもに、誰のものを奪おうとしているのか、身の程を教えてやる」
レオンが大剣を抜き放ち、その冷たい刃が朝日に照らされて鋭く輝く。
フェンが天に向かって、地響きのような遠吠えを上げた。
過去との決着をつけるための戦いが、今、静かに幕を開けようとしていた。




