第10話「泥に塗れた王冠と、決別の朝」
冷たい朝靄が足元にまとわりつき、肺に吸い込む空気は刃のように喉を刺す。
国境の防衛線を越えて丘を下るにつれ、鼻を突く腐臭はより一層濃度を増していく。
枯れ果てた土の匂い、手入れされていない鉄の錆びた匂い、そして生気を失った人間の汗の匂いが混ざり合い、胃の奥を不快に掻き回す。
眼下に広がる祖国の軍勢は、かつての威容など見る影もない。
風に翻るはずの軍旗は泥に汚れ、兵士たちの顔には色濃い死の影が張り付いている。
彼らは武器を構えることすら満足にできず、力なく虚ろな目でこちらを見上げている。
その惨状の中心で、アルベルトだけが異様な高揚感に包まれていた。
彼の瞳は血走り、不自然に見開かれている。
金糸で彩られたマントは所々が破れ、王族としての品格は完全に失われている。
私はレオンの背中の後ろから一歩前へ踏み出し、冷え切った大地をしっかりと踏みしめた。
恐怖はない。
私の背後には、強大な神獣フェンがそびえ立ち、隣には私を命がけで守ると誓ってくれたレオンがいる。
その事実が、私の背骨に鋼のような強さを与えてくれている。
「ルミナ! さあ、私の元へ戻ってこい」
アルベルトの声が、静まり返った平原に不気味に響き渡る。
彼の声には、私に対する愛情や後悔など微塵も含まれていない。
あるのは、壊れた玩具を直すための部品を求めるような、身勝手で貪欲な執着だけだ。
彼は馬の腹を蹴り、数歩だけこちらへ近づいてくる。
馬の蹄が乾いた土を削る音が、嫌なリズムで耳に届く。
「お前がいなくなってから、この国は少しだけ調子が狂ってしまったのだ。お前の地味な力でも、多少は役に立つことが分かった。これからは、セリアの補助として働かせてやる。光栄に思え」
アルベルトの口から飛び出す言葉の羅列に、私は呆れを通り越して哀れみすら覚えた。
自らの国が崩壊の淵に立たされているというのに、彼はまだ自分が絶対的な権力者であると信じて疑わないのだ。
私は深く息を吸い込み、冷たい空気を肺の底まで満たす。
そして、彼を真っ直ぐに見据えた。
「お断りします。私はもう、貴方たちの所有物ではありません」
私の声は、自分でも驚くほど冷たく、静かに響いた。
アルベルトの顔から、薄ら笑いが消え去る。
彼は信じられないものを見るように目を瞬かせ、やがて顔を真っ赤に染め上げて激昂した。
「なんだと! 私に向かってその口の利き方はなんだ! お前のような無能を拾ってやると言っているのだぞ!」
「無能、ですか。その無能を追い出した結果が、貴方たちの後ろに広がる枯れ果てた大地なのではないですか」
私が事実を突きつけると、アルベルトの喉からヒュッと空気が漏れる音がした。
彼は図星を突かれた怒りと焦りから、腰の剣の柄に手をかける。
その手は小刻みに震え、まともに剣を抜くことすらできていない。
「お、お姉様! わたくしに嫉妬して、隣国の王をたぶらかしたのですね!」
アルベルトの背後から、甲高い声が飛んできた。
豪華な馬車から転がり出るようにして現れたのは、義妹のセリアだった。
彼女のドレスは泥に汚れ、美しく結い上げられていたはずの金髪は鳥の巣のように乱れている。
彼女の顔には疲労と狂気が張り付き、目元には濃い隈が落ちていた。
セリアはふらつく足取りでアルベルトの隣に立つと、血走った目で私を睨みつけた。
「わたくしこそが真の聖女です! お姉様のような偽物が、幸せになるなんて許されません! 今すぐわたくしにその魔力を渡しなさい!」
セリアは両手を私に向け、無理やり魔力を振り絞る。
彼女の指先から、バチバチとはぜるような光の粒子が放たれる。
しかし、その光は以前のような輝きを持たず、ただ空気を焦がすだけで途中で力なく消え失せた。
私は彼女の哀れな姿を見つめながら、静かに首を振る。
「魔力は誰かに渡すようなものではありません。そして、私は貴方たちを恨んでなどいない。ただ、もう二度と関わりたくないだけです」
私の言葉は、決定的な拒絶となって彼らに突き刺さる。
アルベルトは私の冷ややかな視線に耐えきれなくなったのか、背後の兵士たちに向かって怒鳴り声を上げた。
「ええい、構わん! あの女を捕らえろ! 隣国の王ごと切り捨ててしまえ!」
彼の狂気に満ちた命令が下される。
しかし、兵士たちの誰一人として、一歩も前に進もうとはしない。
彼らの視線は私やアルベルトではなく、私の背後に立つ巨大な銀狼に釘付けになっていた。
フェンの喉の奥から、低い地鳴りのような唸り声が漏れ出す。
その音は空気を震わせ、周囲の小石がビリビリと跳ね回る。
圧倒的な捕食者の気配を前にして、兵士たちの足は完全にすくみ上がり、持っていた武器を次々と地面に取り落としていく。
金属が土にぶつかる鈍い音が、連鎖するように響き渡る。
「……私の女に、これ以上その汚い声を浴びせるな」
レオンが低く、地の底から響くような声でつぶやく。
彼が腰の大剣に手をかけると、周囲の気温が急激に下がったかのような錯覚に陥る。
冷え切った空気が刃のように研ぎ澄まされ、私の肌を粟立たせる。
レオンの一歩が地面を踏みしめる音が、これからの徹底的な蹂躙を予告する鐘の音のように響いた。
私はただ、彼の背中を静かに見守ることしかできなかった。
◆ ◆ ◆
レオンの纏う魔力が、可視化できるほどの濃密な冷気となって周囲に渦巻く。
彼の銀髪が重力を無視したようにふわりと舞い上がり、青い瞳には一切の容赦のない冷酷な光が宿っている。
アルベルトはレオンの凄まじい威圧感に気圧され、乗っていた馬が怯えて後ずさるのを止めることができない。
「き、貴様ら、何をしている! 早くあの男を殺せ!」
アルベルトが唾を飛ばしながら喚き散らすが、兵士たちはもはや彼の声など聞いていない。
彼らは生き延びるという本能だけに従い、少しずつ後退を始めている。
セリアは恐怖のあまり地面にへたり込み、両手で顔を覆ってガタガタと震えている。
かつて私を見下していた者たちの、あまりにも無様な姿。
胸の奥に溜まっていた暗い澱が、少しずつ浄化されていくような不思議な感覚に陥る。
私はレオンの背中に向かって、心の中で静かに祈りを捧げた。
この無意味な争いが、これ以上の血を流すことなく終わることを。




