第11話「銀狼の咆哮と、崩れ落ちる幻想」
風が完全に止んだ。
時が凍りついたかのような沈黙の中、レオンがゆっくりと大剣を抜き放つ。
鞘から滑り出る鋼の摩擦音が、静寂の平原に異様なほど甲高く響き渡る。
刃の表面には冷たい朝の光が反射し、鋭い光の筋がアルベルトの顔面を真っ直ぐに薙いだ。
アルベルトは光に目を細め、腕で顔を庇うように仰け反る。
その瞬間、レオンの隣にそびえ立つ神獣フェンが、天に向かって大きく顎を開いた。
空気を切り裂くような、物理的な破壊力を伴った咆哮。
音の塊が目に見える波となって前方に押し寄せ、大地を激しく震わせる。
耳をつんざくような轟音に、私は両手で耳を塞ぎ、身をかがめる。
突風が吹き荒れ、アルベルトの軍勢の先頭に立っていた兵士たちが、まるで枯れ葉のように後方へと吹き飛ばされていく。
土煙が舞い上がり、悲鳴と馬のいななきが入り乱れる。
アルベルトの乗っていた馬は完全にパニックを起こし、前脚を高く上げていななきながら彼を振り落とした。
「ひぐっ……!」
泥の中に無様に転がり落ちたアルベルトは、全身を泥だらけにしながら這い蹲る。
王族としての誇りも、私に向けられていた傲慢な態度も、大いなる力の前には紙切れほどの価値もない。
彼は必死に立ち上がろうとするが、恐怖で足に力が入らないのか、何度も泥濘に膝をつく。
その滑稽な姿は、かつて私を玉座から見下ろしていた男と同一人物とは思えないほど小さく、惨めだった。
「ひいっ! こ、来るな! わたくしは聖女よ! 神に選ばれた存在なのよ!」
セリアは狂乱状態で叫びながら、這いずるようにして後退していく。
彼女の周囲には光の粒子が散発的に明滅しているが、それはもはや何の意味も持たない虚飾だ。
フェンが低い唸り声を上げながら、ゆっくりと彼らに向かって歩みを進める。
巨大な前脚が地面を踏みしめるたびに、重い振動が足元から伝わってくる。
銀色の毛並みは神々しい光を放ち、獲物を追い詰める捕食者の冷徹さが全身から滲み出ている。
フェンはアルベルトとセリアの数歩手前で立ち止まると、その黄金の瞳で彼らを冷ややかに見下ろした。
鼻息が荒く吹き付けられ、セリアの乱れた金髪が激しく揺れる。
彼女は言葉を失い、白目を剥いてその場で気を失った。
「ヒッ……許してくれ……私がいけなかったのだ……ルミナ、お前を正妃にしてやる! だから、あの怪物を止めてくれ!」
アルベルトは顔を涙と鼻水でぐしゃぐしゃにしながら、私に向かって命乞いを始めた。
彼の口から飛び出す言葉は、どこまでも自分の保身だけを考えた浅ましいものだ。
私は彼の言葉を聞いても、心にさざ波すら立たないことに気づく。
怒りも、悲しみも、憐憫の情すら湧いてこない。
私の心の中に、彼らの居場所はもう一ミリも残されていないのだ。
「レオン陛下、もう十分です」
私は静かに声をかけ、レオンの腕にそっと触れた。
彼の硬い筋肉が微かに緊張を解くのが伝わってくる。
レオンは振り返らずに大剣を肩に担ぎ、冷たい視線をアルベルトへと投げ下ろした。
「命拾いしたな、虫けら。我が国の至宝が持つ慈悲深さに感謝するがいい」
レオンの声は、極北の吹雪のように冷たく、一切の感情を排していた。
「二度と我が国の国境に近づくな。次はないと思え。貴様らの国がどうなろうと、我々には関係のないことだ。泥にまみれて、自分たちの過ちを噛み締めながら滅びていくがいい」
その宣告は、死刑宣告よりも重く、決定的なものだった。
アルベルトはガタガタと震えながら何度も頷き、気を失ったセリアを引きずるようにして背を向けた。
生き残った兵士たちも、武器を放り出したまま蜘蛛の子を散らすように逃げ出していく。
彼らの背中が朝靄の向こうに消えていくのを、私はただ静かに見送った。
◆ ◆ ◆
腐臭が消え、冷たいが澄んだ風が丘を吹き抜ける。
私は大きく深呼吸をし、肺の中の空気をすべて入れ替えるように長く息を吐き出した。
ずっと私の足に絡みついていた重い鎖が、音を立てて砕け散ったような感覚。
前世から引き継いだ命を救う使命と、この世界で与えられた理不尽な扱い。
それらすべてに決着がつき、私はようやく自分自身の足で、自由に大地を踏みしめている。
フェンが元の愛らしい子犬の姿に戻り、短い尻尾を振りながら私の足元へ駆け寄ってきた。
私は膝をつき、彼の柔らかい体を抱きしめる。
温かい体温と、お日様のような匂いが私の心を優しく解きほぐしていく。
「終わったな」
レオンが大剣を鞘に収め、私の傍らに歩み寄る。
彼の声からは先ほどの威圧感が消え、いつもの穏やかで不器用な響きに戻っていた。
私は立ち上がり、彼を真っ直ぐに見つめ返す。
「はい。……本当に、ありがとうございました。貴方がいてくれなければ、私はきっと……」
「礼を言う必要はない。俺は俺の守りたいものを守っただけだ」
レオンはそう言いながら、私の頬にかかった髪を不器用な手つきで耳に掛けてくれる。
彼の指先が肌に触れた瞬間、心臓が大きく跳ねた。
朝の光を浴びた彼のアイスブルーの瞳は、どこまでも澄み渡り、私だけを映し出している。
私は彼の視線から逃れることができず、ただ胸の高鳴りに身を委ねた。
もう過去に怯える必要はない。
これからは、彼と共に、この豊かな国で生きていくのだ。




