第四話
歩は月を見上げている。
霞がかかった月はあの日と同じようにぼんやりと柔らかい光を放っている。
歩は引っ越しの前日、家をそっと抜け出して月明かりの中、涼介の家を目指した。
高揚した気持ちが夜の闇など吹き飛ばして怖いなんて思う暇もなかった。
初めて夜に一人で飛び出した日。
夏が終ろうとしていた。
夜風は想像以上に冷たくて、そして夜は驚くほど静かだった。
あらかじめ手紙で涼介に家に行くことを伝えておいたので、涼介もこっそり家を抜けだして庭で待って居た。
虫たちはこぞって鳴いているのに何故かそれがかえって静けさを強調させる。
虫以外居ない、二人を除いては、そんな気持ちにさせるのだった。
「家抜け出して大丈夫だった?」
息を切らせている歩に涼介が先に声を掛ける。
歩ははぁはぁと肩で息を繰り返して返事を返すことが出来なくて、ただ頷く。
涼介は辺りを気にして歩の手を掴むと家の裏手に連れて行く。
塀に囲まれた狭い隙間から空を仰ぐと月が二人を見ている。
「あのね、私引っ越しするでしょ?」
時間がないと思い、歩は息絶え絶えに唐突に話を切りだす。
涼介は掴んだ腕を持て余して迷いながらゆっくり離していく。
温もりが失われたそこが急激に冷えていく。
「明日だろ?本当に出て来て大丈夫だったの?」
涼介がそればかり気にするので歩は不満げに上目遣いで涼介をじっと見つめる。
涼介は真っ直ぐ見つめられて一瞬たじろいで、とっさに視線を夜空に彷徨わせる。
「忘れないで居てくれる?ずっと、忘れないで居て欲しいの。」
涼介が怪訝な顔をして見上げていた顔を元に戻して、歩と向き合う。それはほんの数秒の事だったかもしれないが、歩には永遠に続く沈黙のように感じた。
虫が切なく鳴いている。
いつまでも耳にそれがついて離れない。
涼介は口を開く。
「うん、忘れないと思う。」
子供の二人はそれ以上の言葉が見つからなくて、再び沈黙が流れていく。
歩は焦る気持ちと戦いながらその沈黙から動けない。
早く帰らなければという思いと、何か言わなければという焦燥感で頭の中が白くなる。
時間が迫っているような気がしてならない。
それなのに虫が一斉に儚い声で鳴くので何も考えられない。
「会いに・・・来るから。」
「わかった。」
「大きくなったら会いに来るから、その・・・えっと・・・」
「結婚するの?」
涼介が結婚なんて言うものだから歩は一気に顔が火照るのを感じる。
火を噴くように耳まで熱くなって俯く。
「好きだと結婚するんだろ?」
「そうだよね、たぶん。」
「会いに来いよな。」
恐る恐る視線を上げていくと、涼介も顔を反らしていてその横顔と耳が赤いのが解った。
夏の虫が囃し立てて、夜空の月がそれを見守っていた。
二人は幼いながらも確かに心を通わせていた。
歩は幼い恋を振り返り、ふうっと息を吐きだす。
忘れたことなどなかった。
それは夜空を彩る星のようにどんな時でも歩の気持ちを甘く切なく躍らせる。
戻りたいあの場所に、帰りたいあの時に。
そう思えば思うほど、ここはそこから遥か遠いのだと知る。
私は堕ちたのだと歩は思う。
あの頃夢中になったかぐや姫は、罪を犯して地上に流された天上人だったと言われている。
歩はあの時、天上界に居たのだと思う。
すべてが美しく甘い懐かしい日々。
かぐや姫もさぞ帰りたかったのだろうと自分の状況と照らし合わせて思いを馳せる。
男に騙されて堕ちるところまで堕ちた自分を、かぐや姫に例えるのは良くないことだと思うけれど、いつもそう思わずにはいられない。
さめざめと泣いて帰りたいと願ったかぐや姫は、迎えが来て月に戻って行った。
けれど歩は泣くことすら諦めて、ただひたすらに思う。
あの日に帰りたい。
忘れないと言った涼介に会いたい。
でも、歩は約束を守れずにいる。
会いに行くと言ったのにそれすら叶わない。
月は変わらずに満ちては欠けて、そしてあの日と同じ形になる。
季節もまた移り変わり、やがて虫たちが騒ぎ出す季節になる。
しかし、歩だけ戻れない。
きっともう、涼介も待ってはいないだろう。
でもそれでいいと思う。
歩は堕ちたまま戻れないのだから。
あの日に帰りたい。
あの場所に帰りたい。
あの人に会いたい。
月が黙って歩を見守っている。
もう戻れない。
懐かしい日々。
ちや。