第二章 聖女は王国を守っている
廊下の向こうを歩いていた女は、男たちに気付くことなく角を曲がった。
白い布を抱えていたため顔の半分ほどは隠れていたが、背丈も髪の色も、横から見えた輪郭も、隣にいる女とほとんど変わらなかった。男は追いかけようとしたが、女の前を歩いていた使用人らしい男のほかにも廊下を横切る者が見えたため、その場を動くことができなかった。
隣にいた女は、自分と同じ姿の人間がいたことをそれほど重大なこととは考えていないようだった。
「あれも聖殻かな」
「お前が聞くな」
「だって知らないから」
男は女を物置へ押し戻し、人が通り過ぎるまで待った。
昨日からしか記憶がなく、自分が何者なのかも知らない女が城の中にいる。その女と同じ姿をした別の人間が、何事もないように働いている。男にはそれだけでも十分に異常だったが、隣の女は男が警戒しているため声を潜めているだけで、自分と同じ顔の女を見たことについて怯えてはいなかった。
「お前がいた部屋へ行く」
「マナを探さなくていいの?」
「先にお前が何なのか知りたい」
「分かった」
女はすぐに頷いた。
男は扉から廊下の様子を確認し、誰もいない間に外へ出た。女も同じように一度左右を見てからついてきた。先ほどまでなら何も考えずに歩き出していたはずだが、男が人目を避けているのを見ているうちに、自分も同じように動くようになったらしい。
女が昨日いたという区画は、王城の中心からは離れた場所にあった。使用人や物資の搬入に使われる通路をいくつも抜け、階段を二度上がった先に、宿舎のような小さな部屋が並んでいる。豪華な王城を想像していた男にとっては意外なほど簡素で、床も壁も装飾されておらず、扉には番号だけが刻まれていた。
「どれだ」
女は並んだ扉を順番に見てから、一つを指した。
「ここ」
鍵はかかっていなかった。部屋の中には寝台と小さな机、椅子、洗面用の水桶があり、昨日渡されたという服が畳まれて置かれていた。それ以外に私物らしいものは何もない。人が生活している部屋というより、一晩だけ誰かを泊めるために用意された部屋に近かった。
男は机の引き出しを開けた。空だった。寝台の下にも何もなく、衣服にも名前を示すものはない。
「ここで目が覚めたのか」
「うん」
「誰かいたか」
「最初は女の人が二人いた」
「何をされた」
「起きられるか聞かれて、立って、歩いて、ご飯を食べた」
「それだけか」
「体を触られた」
男は女を見る。
「どこを」
「いろいろ」
女は不快そうでもなく、自分の腕や首を示した。
「口を開けてとか、手を上げてとか。痛いところがあるかも聞かれた」
検査をされたのだろう。
「聖殻って言われたのは」
「その人たち」
「他に何か言われたか」
女はしばらく考えた。
「今日はここにいろって。明日になったら決めるからって」
「何を決める」
「知らない」
男は部屋をもう一度見回した。
番号の振られた扉。私物のない部屋。昨日初めて目を覚まし、身体を調べられ、翌日になれば何かを決められる予定だった女。その女が、マナと同じ姿をしている。廊下を通った別の女も同じ姿をしていた。
男は部屋を出た。
「他に昨日行った場所は」
「ご飯を食べたところと、体を見られたところ」
「そこへ行く」
女は男についてきた。
検査を受けたという部屋はそれほど遠くなかった。扉には鍵がかかっていたが、近くの壁には書類を収めるための小さな棚があり、何枚かの紙が残されていた。
男は一枚を抜き取った。最初に目に入ったのは人の名前ではなく番号だった。
第百九十七号。
その下に日付があり、身長、体重、脈拍、四肢の動作、言語反応、外傷の有無などが記されていた。
男は隣の女を見た。
「お前、昨日いつ起きた」
女が答えた日付は、紙に記された日付と一致していた。
「これがお前か」
「分からない」
「第百九十七号」
女は紙を覗き込んだ。
「百九十七って名前?」
「違う」
少なくとも男はそう思った。
紙の下部には「初期状態良好」「聖力反応なし」「翌日まで経過観察」と書かれ、その隣に担当者らしい署名がある。
百九十七号。
百九十七という数字が、男の中に残った。
同じ棚には他にも書類があった。第百九十五号。第百九十六号。日付は一日ずつずれている。記載されている身長や体重はほぼ同じで、髪の色、瞳の色、身体的特徴に関する記述も一致していた。聖力反応については、どの紙にも「なし」と書かれている。男はさらに古い紙を探したが、その棚には最近のものしか残っていなかった。
「他にもいる」
「さっきいたね」
女はそれだけ答えた。
「百九十七人いるかもしれない」
「そんなに?」
ようやく少し驚いたようだった。
「全部私と同じ顔?」
「知らない」
男は書類を戻さず折り畳み、懐へ入れた。
その先を調べる必要がある。マナを探しに城へ入ったはずだったが、目の前にあるものを無視して進むことはできなかった。何より、この女たちとマナが無関係だとは考えにくい。
二人はさらに城内を進んだ。人目を避けているうちに、男はこの区画が王城の表向きの部分から意図的に離されていることに気付いた。窓のない廊下が増え、使用人の姿も少なくなる。扉には名前ではなく番号や記号が使われ、壁には荷物を運ぶための小型の昇降機や、魔道具を接続するための金属製の端子が取り付けられていた。
途中で、再び同じ顔の女を見た。
今度は距離が近かった。女は一人の老いた使用人の後ろを歩き、汚れた衣服を籠に入れて運んでいた。髪は簡単に後ろで束ねられ、着ている服も使用人と同じものだった。
男は物陰から様子を見た。老いた使用人が振り返り、何かを指示した。女はすぐに頷き、指示された部屋へ入った。一度も周囲を見ない。
男は隣の女に目を向けた。同じ顔だった。
「声をかける?」
女が小声で聞いた。
男は迷った。
マナの所在を知っている可能性はある。老いた使用人が離れたのを確認してから、男は女が入った部屋へ近づいた。中では水の音がしており、先ほどの女が床を拭いていた。男が扉を少し開けると、女は顔を上げた。
マナだった。
少なくとも外見は。
「少しいいか」
女は男を見て、それから男の隣にいる聖殻を見た。
驚いた様子はない。
「何でしょう」
声もマナと同じだった。
「お前も聖殻か」
「はい」
「名前は」
「ありません」
答え方は簡潔だった。
「ここで何をしている」
「清掃を命じられています」
「いつから」
「こちらへ移されてからです」
「どこから移された」
女は少し考えた後、男ではなく扉の方を見た。
「作業中に持ち場を離れてはいけません」
「質問してるだけだ」
「作業を終える必要があります」
女は再び床を拭き始めた。
「ここから出たいと思わないのか」
手が止まった。
男を見る。
「なぜですか」
「なぜって」
「私はここで働くよう命じられています」
「嫌じゃないのか」
女は少し考えた。
「嫌とは、どういう意味でしょう」
男は答えなかった。
女は本当に意味が分からないらしかった。疲れている様子はあった。手は洗剤で荒れ、指には小さな傷もある。それでも、自分がここで働くことについて不満を持っている様子はなかった。
「お前は何号だ」
「第百四十一号です」
迷わず答えた。
「百四十一号」
「はい」
「それを名前だと思ってるのか」
「管理番号です」
「名前は」
「ありません」
男は隣にいる女を見る。
第百九十七号だと思われる女は、清掃をしている百四十一号を興味深そうに見ていた。
「行こう」
男が言うと、百九十七号はついてきた。
部屋を出る直前、清掃を続けている百四十一号へもう一度目を向けたが、女はすでに男たちを気にしていなかった。
それから見つけた書類には、番号のほかに「配置」という項目があった。
第百四十一号。王城内務部。清掃。
さきほど見た女と一致する。
第百三十九号。東棟厨房。
第百四十号。西棟衣装管理。
第百四十二号。返却。
第百四十三号。北部伯爵家へ移送。
第百四十四号。廃棄。
男の目が止まった。
廃棄。人間の管理記録に使う言葉ではなかった。その紙には理由として、「左脚形成不全、視覚障害、言語反応不良」と記されている。男は紙をめくった。
第百四十五号。研究棟第三室。
用途、術式耐性確認。
第百四十六号。研究棟第二室。
用途、治癒限界測定。
第百四十七号。南部商会。
用途、売却。
その下にも番号が続いていた。
男は途中で紙を閉じた。
「何?」
隣の女が聞いた。
「何でもない」
「顔が嫌そう」
男は女を見る。
「嫌そうか」
「うん」
「嫌だからだ」
女は紙を見た。
内容を理解できるほどの知識があるのかは分からない。字そのものは読めるらしく、しばらく眺めた後、「廃棄」という言葉のところで止まった。
「これ、何するの」
「知らない」
男は答えなかった。
正確には、知りたくなかった。
この頃には、マナに会うために進んでいるのか、聖殻について調べるために進んでいるのか、男自身にも分からなくなっていた。ただ、どちらを追っても同じ場所へ向かっているように思えた。
廊下の構造も変わっていった。木製の扉が減り、金属で補強されたものが増える。壁には聖術式が刻まれ、床には何かを運んだ車輪の跡が残っている。薬品に似た匂いが漂い、時折、壁の向こうから機械の作動音が聞こえた。
王城の一部というより、研究施設だった。男は施錠されていない扉を見つけるたびに中を確認した。
空の処置室。洗浄された器具。血のような色が薄く残った布。割れた魔石。番号の書かれた小瓶。人間の身体を図示した紙。どこにもマナの名前はなかった。代わりに聖殻という言葉が増えていった。
聖殻第八十二号。
聖殻第九十号。
聖殻第百二十三号。
番号が若くなるほど記録の日付も古い。
男は一冊の分厚い記録簿を見つけた。表紙には「聖殻観察記録」と書かれていた。最初の数頁は身体的特徴についての記録だった。
すべての個体がほぼ同一の容姿であること。身長、体重にはわずかな誤差があること。聖力を持たないこと。通常の人間と同じ食事を必要とし、睡眠も取ること。外傷を受ければ出血し、病にも罹患すること。
人間と違う点として繰り返し記録されているのは、生成直後の精神状態だった。
男は頁をめくった。初期個体は簡単な言葉を理解し、歩行や食事など日常動作も可能である一方、自分自身に関する認識が極めて薄い。名前、家族、過去の記憶を持たず、好き嫌いについて尋ねても明確な回答を示さない。
数日から数週間経過すると、個体ごとに性格の差が生じる。
その差が何によって生まれるのかを調べるため、複数の聖殻を異なる環境へ配置した記録が続いていた。
命令を多く与えた個体は、命令を待つ傾向が強くなった。褒賞を与え続けた個体は、褒賞を受けるための行動を自ら選ぶようになった。特定の人物から継続的な愛情を与えた個体は、その人物への愛着を形成した。罰を中心として管理した個体は、罰を避ける行動を優先するようになった。
男は頁をめくる手を止めた。
記録の文章には、善悪に関する評価はなかった。結果だけが並んでいる。さらに後の研究では、聖殻が単に命令へ従っているわけではないことが確認されていた。
奴隷として扱われた聖殻に、自分が自由になることを望むか尋ねても、多くは否定した。理由を問うと、主人へ従うことが自分の役割であり、それを失う方が不安だと答えた。研究対象として育てられた聖殻に処置を中止すると伝えたところ、自分は何をすればよいのか分からないと混乱した。愛玩を目的として一人の貴族へ与えられた聖殻は、その貴族が求める話し方や服装を好むようになり、本人もそれを自分の嗜好として認識していた。
研究者はそれを「高い環境適応性」と記していた。洗脳ではない。記憶を書き換えているわけでもない。初めから何もない場所へ、周囲が与えたものが積み重なり、それがそのまま人格になる。
男は記録簿から目を上げた。
百九十七号は少し離れたところで別の棚を見ていた。
男が声をかけると振り返る。
「何?」
「お前、城を出たかったのか」
「うん」
「どうして」
「外が見たかったから」
「誰かに言われた?」
「言われてない」
「俺についてきたのは」
「マナを見てみたかったから」
「俺が探すのをやめたら」
女は考えた。
「私もやめると思う」
「なんで」
「一緒に探してるから」
男は記録簿を閉じた。
昨日目を覚まし、誰からも大した役割を与えられる前に城から抜け出し、その先で男に出会った。だからこの女は自由に歩き、知らないことを尋ね、男が何かを嫌がれば同じものを嫌がろうとする。そう考えれば説明はついた。
男は記録簿を持ったまま、その先へ進んだ。
研究棟の奥には、窓のない小部屋が並んでいた。そのうち一つから、何かを引きずるような音が聞こえた。男は立ち止まった。百九十七号も立ち止まる。
扉には小さな覗き窓があった。中を見ると、女がいた。マナと同じ顔だった。
寝台の端に座っている。右脚がない。膝よりかなり上から失われており、切断面は包帯で覆われている。左腕も正常な形ではなく、肘から先が強く曲がったまま固定され、首から胸にかけて小さな円形の痕が並んでいた。髪は短く切られ、肌には複数の古い傷が残っている。
男が扉を開けると、女は顔を上げた。
「誰ですか」
声はマナと同じだった。
男はしばらく答えられなかった。
「お前も聖殻か」
「はい」
「何号だ」
「第七十八号です」
番号がかなり若い。
生成されてから長い時間が経っていることになる。
「その脚は」
「切りました」
「誰が」
「先生です」
「なんで」
「再生術式の実験です」
女は普通に答えた。
「戻らなかったのか」
「三度目から戻らなくなりました」
男は女の右脚を見る。
治癒術には損傷した身体をある程度修復する力があるが、失った部位まで完全に再生できる術式は限られている。何度まで再生可能なのか、聖力を持たない聖殻ではどうなるのかを調べたのだろう。
「その腕は」
「神経接続の試験です」
「痛くないのか」
「今はあまり」
「ここから出たいか」
女は不思議そうに男を見た。
「次の実験があります」
「そんなこと聞いてない」
「ここにいないと先生が困ります」
男は寝台の脇にある拘束具へ目を向けた。
革の帯が腰と左脚を固定している。
「外すぞ」
男が手を伸ばすと、七十八号は初めて明確な反応を示した。
「駄目です」
「なぜ」
「外してはいけないと言われています」
「誰に」
「先生です」
「その先生が脚を切ったんだろ」
「はい」
「腕も壊した」
「はい」
「それでも言うことを聞くのか」
七十八号は返答に迷わなかった。
「先生ですから」
男は手を止めた。
百九十七号は扉のところから七十八号を見ていた。それまで同じ顔の女を見つけるたびに面白そうに眺めていたが、今は笑っていなかった。
「痛そう」
百九十七号が言った。
七十八号は自分の身体を見た。
「今は痛くありません」
「でも脚がない」
「はい」
「嫌じゃないの?」
七十八号は少し考えた。
「必要なことです」
百九十七号は何も言わなかった。
男は拘束具を外さなかった。今ここで解放したところで、この女は歩けない。抱えて連れていけば移動速度が落ち、マナを探すことも難しくなる。何より本人が逃げようとしていない。その事実が、外傷よりも男には不快だった。部屋を出た後、百九十七号はしばらく黙っていた。
「どうした」
男が尋ねる。
「分からない」
「何が」
「さっきの子、嫌じゃないって言った」
「ああ」
「でも私は嫌」
「何が」
「脚を切られるの」
「普通はそうだ」
女は少し安心したように頷いた。
「じゃあ嫌でいいんだ」
男は何も答えなかった。
自分がそう言ったから、この女は脚を切られることを嫌なものとして覚えようとしているのかもしれない。その考えが頭をよぎった。
研究棟をさらに進むと、資料の量が増えた。聖殻の総数は百九十七。廃棄された数、死亡した数、現在城内にいる数、王都外へ移送された数が分けて記録されていた。現在生存が確認されている個体だけでも百五十を超えていた。
移送先には王都の貴族邸、地方領主、研究施設、商会などが並んでいる。用途欄には、労働、研究、奉仕、愛玩、興行、売却という言葉が記されていた。南部の商会へ送られた十数体については、その後の所在が不明となっている。地方の貴族へ渡された個体の一部は、所有者が転売したため追跡不能。王城の役人が記録を通さず持ち出した例もある。
研究棟で死亡した個体は廃棄。損傷によって利用不能となった個体も廃棄。男は一枚ずつ読むことをやめ、概要だけを追った。どこまで読んでも同じだった。
聖殻は人間として管理されていない。家畜より高価で、道具より便利な何かとして扱われている。理由も記録されていた。聖力を持たないため、聖女としての価値はない。しかし外見が完全に同一であり、生成後の教育によって高い適応性を示すため、各種用途への転用が可能。
男はその一文を二度読んだ。聖女としての価値はない。では、何のために生まれているのか。その答えは資料の中にはなかった。
生成を止める方法も分かっていないらしく、定期的に現れる個体を管理し、使い道を探しているうちに現在の状態になったことだけは読み取れた。
さらに古い記録を調べると、第一号の記載が見つかった。男はその頁を開いた。
第壱号。
現在の書類とは違い、初期の記録は詳しかった。最初に確認された個体であるため、身体検査、言語能力、聖力反応、記憶の有無などが日単位で記録されている。
外見は聖女マナと一致。聖力反応なし。既往記憶なし。聖女本体との識別については、聖力測定を行えば容易に可能。
その後、記録の内容が変わっていった。聖女本体が公務に出られない状態となったため、第一号を代役として使用。聖女としての礼儀、話し方、王族との接し方を教育。公的な場で問題なし。
男は頁をめくった。王太子との接触を継続。王太子側から第一号への強い好意を確認。第一号にも同様の感情形成を確認。長期的な代替運用に支障なし。
さらに後の日付には、第一号が王太子から与えられた贈り物を大切に保管していること、王太子の訪問を待つようになったこと、王太子が不在の際に寂しさを訴えるようになったことが書かれていた。研究記録としては、環境による人格形成を確認する初期事例の一つだったらしい。
最後の頁には、最近の日付で追記があった。王太子殿下の要請により、第一号を正式に側妃として迎える方向で調整。公的名称は引き続き「聖女マナ」とする。
男はしばらく記録から目を離さなかった。
村に届いた布告。聖女マナを王太子の側妃として迎える。あれは嘘ではなかった。王太子の側妃になる女は、確かに聖女マナと呼ばれている。ただし、マナではなかった。男は記録を閉じた。
百九十七号が横から表紙を見ている。
「分かった?」
「ああ」
「マナはいた?」
「これは違う」
「同じ顔の人?」
「そうだ」
「王太子って人のところにいるの?」
「そうらしい」
女は特に感想を言わなかった。
男はもう一度記録を開き、「聖女本体が公務に出られない状態」という部分を確認した。
公務に出られない。死亡とは書かれていない。病気とも書かれていない。第一号を代役として使用する必要がある状態。
本物のマナはどこにいる。男は資料を探した。聖女。本体。マナ。古い記録ほど、第一号との区別のために「本体」という言葉が使われていた。しかし一定の時期から、本体に関する記録は聖殻の資料から切り離されている。
その代わり、生成についてまとめた別の資料が見つかった。
男は頁を開く。生成現象は一定周期で発生。宝石状結晶の形成を確認。結晶は採取後も変質を続け、約一日で人型へ移行。人型への移行完了後、外見は聖女本体と一致。聖力反応なし。
男は文章を読み返した。
「宝石」
百九十七号が言った。
「知ってるのか」
「知らない」
「じゃあ何だ」
「綺麗そうだから」
男は次の頁を見た。
宝石の大きさは一定ではなく、生成時期によってわずかな差がある。採取直後は透明度が高く、時間経過とともに内部に人型の影が形成される。生成そのものを停止させる試みは複数回行われたが成功していない。生成源についての詳細は、この資料にはなかった。「聖女本体に由来する現象」とだけ記されている。男は資料を持ったまま別の棚を探した。
本体管理記録。聖力抽出。融合。それらの言葉が少しずつ増えていく。
聖女マナが王都へ到着した直後の聖力測定記録もあった。規定値を大幅に上回る。通常の聖女数人分に相当する。長時間の聖術使用後も回復が早い。初期の記録には、本人による治癒、浄化、結界補助など、一般的な聖女としての活動が書かれていた。
その後、研究が始まっている。本人による術式行使では供給効率が一定しない。直接抽出によって安定した供給が可能。王都結界への接続試験成功。地方聖堂への遠隔供給成功。複数聖具への同時供給成功。日付が進むにつれて、マナ自身が何をしたかという記述は消え、抽出量や供給先の数値ばかりになった。
「これ、マナ?」
百九十七号が聞いた。
男は頷いた。
「多分な」
「何してるの?」
「王国を守ってる」
資料に書かれている内容だけを言えば、それで間違っていなかった。王都を包む防護結界。地方都市の対魔物結界。神官や騎士が使用する聖具。治癒所の大型術式。河川や水路の浄化。疫病発生時の広域浄化設備。男が王都へ入る時に見た城門の聖具も、広場で負傷者を治していた設備も、資料に記された供給系統の一部だった。マナの聖力が使われている。
男は頁をめくった。抽出設備の改良。固定器具導入。睡眠時供給の安定化。覚醒状態と睡眠状態の差を調査。長時間固定による身体負担。回復術式を併用することで抽出時間延長可能。
さらに進む。魔法石との接続実験。同調率上昇。直接接続によって供給損失が大幅に低下。融合処置を提案。本人の同意に関する項目は見つからなかった。
男は資料を閉じた。
「マナはどこ」
百九十七号が聞いた。
「探してる」
「ここには書いてないの?」
「書いてある」
男は別の頁を開いた。最終行に、現在の管理場所が記載されていた。聖女本体収容区画。研究棟最深部。立入許可、第一級。男は場所を確認した。
そこから先の扉には、これまでより強い術式が施されていた。幸い、研究棟内部から入る場合には常時施錠されているわけではなく、担当者が出入りするための認証装置が設置されていた。男には使い方が分からなかったが、近くの机に残されていた管理札を何枚か試すと、そのうち一枚で扉が開いた。
扉の向こうは、これまでの区画より静かだった。機械音だけが一定の間隔で響いている。人の姿はない。
廊下の左右には太い管が通り、壁の術式へ接続されていた。管の内部には淡い白色の光が流れている。一定間隔で分岐し、王城の別区画や地下設備へ続いているようだった。
男はその光を見た。王都で見たものと同じ色だった。結界。聖具。治癒術式。すべてを動かしている力。
「綺麗」
百九十七号が言った。
男は答えなかった。
廊下を進む。
途中の管理室には、現在の供給量を示す計器が並んでいた。王都結界、正常。北方防衛線、正常。西部浄化塔、正常。王城聖具群、正常。中央聖教会、正常。すべての針が一定の範囲を示している。供給源の欄には一つだけ記載されていた。聖女本体。
男は先へ進んだ。警備の兵士が二人いた。ここまで来て初めて避けられない相手だった。
男は百九十七号を物陰へ隠し、しばらく様子を見た。兵士は一定時間ごとに交代するらしく、奥から研究員らしい男が来ると、二人のうち一人がその男と一緒に別の通路へ移動した。残った一人が背を向けた隙に、百九十七号が男の袖を引いた。
「こっち」
壁際に小さな作業用通路があった。
設備点検に使うものらしく、人一人が横向きになれば通れる程度の隙間だった。
「昨日ここも通ったのか」
「知らない。今見つけた」
「よく見つけるな」
「褒めた?」
「今はどうでもいい」
百九十七号は少しだけ笑った。
二人は作業用通路へ入り、兵士のいる場所を迂回した。その先には、研究員用の更衣室と資料室があった。資料室の棚には、ここまで男が探していたものがまとめて置かれていた。
本体融合経過。本体維持計画。聖力抽出量推移。男は一冊を開く。融合開始からの日数。身体組織と魔法石の接続率。血流維持。栄養供給。意識反応。初期には、痛覚反応あり、意思疎通可能と記載されている。その後、意識反応低下。発話困難。四肢運動不能。融合率上昇。自力離脱不能。身体色素減少。分離試験中止。現在、分離による生存可能性は極めて低い。
男は最後の一文を読んだ。
聖女本体は供給設備として安定稼働中。王国の主要聖力設備の大半を本体供給へ移行済み。現状では代替供給源なし。男は資料を机へ戻した。手が震えていた。
「どうしたの」
百九十七号が聞いた。
「何でもない」
先ほど自分が女に言った言葉と同じだった。
「何でもない顔じゃない」
女も男が以前言った言葉を覚えていた。
男は返事をせず、資料室を出た。最深部へ続く扉はすぐ近くにあった。
ここまで来る間に、男は喋らなくなっていた。百九十七号もそれに合わせるように黙っている。
扉には聖印が刻まれ、その周囲を複数の術式が囲んでいた。管理札だけでは開かず、横に設置された装置へ別の鍵が必要だった。
男は周囲を探した。資料室の責任者用机。研究員の衣服。壁に吊るされた鍵。一つずつ試し、最後に金属製の小さな札を差し込むと、術式の光が消えた。
重い扉がゆっくり開く。最初に聞こえたのは、低い機械音だった。一定の間隔で何かが作動し、そのたびに床から壁へ振動が伝わる。
部屋は広かった。王城の地下にこれほどの空間があるとは思えないほど天井が高く、中央には巨大な魔法石が設置されている。
白い光を含んだ半透明の石だった。周囲から無数の管が伸びている。太いものは床下へ、細いものは魔法石の表面へ接続され、そこから流れ出した白い光が壁一面の術式へ分配されている。
男は入口で立ち止まった。百九十七号も隣で止まった。
魔法石の中心に、何かがあった。最初は、人間の形をしていることしか分からなかった。
白い。石の中に埋め込まれた身体へ、外側から何本もの管が繋がっている。腕は左右へ固定され、脚も魔法石に埋まっている。
長い髪が魔法石の中へ溶けるように広がっている。肌も髪も、ほとんど色を失っていた。
百九十七号が、その姿を見上げた。自分と同じ輪郭をしていることに気付いたのか、何も言わずに見ていた。
男は魔法石へ近づいた。一歩ずつ。近づくほど、石の中の顔がはっきり見えた。一年という時間では変わるはずのない場所まで変わっていた。頬は痩せ、肌は白く、閉じた瞼の周囲に血の色すらほとんど残っていない。
それでも男は、その顔を見間違えなかった。
魔法石の中にいたのは、マナだった。




