最終章 聖女は職務を全うする
男はしばらく動かなかった。
目の前にいるマナは、頬は削げ、肌にはほとんど血の色がなく、長かった髪も根元から先まで白く変色していた。両腕は石の内部で左右へ伸ばされ、手首には固定具が食い込み、胸、腹、脇腹、脚には細い管が何本も接続されている。管の中を流れているのは血ではなく、淡い白色の光だった。
魔法石と身体の境目も、近くで見るほど分からなくなった。背中の一部は完全に石へ沈み、腰から下にも半透明の結晶がまとわりついている。皮膚の上へ石が被さっているのではなく、肉と結晶が同じ場所を共有しているように見えた。
男は一歩近づいた。
百九十七号も後ろからついてきたが、声は出さなかった。
「マナ」
呼んでも反応はなかった。
閉じた瞼も動かない。胸がかすかに上下しているようにも見えたが、周囲の装置が一定の間隔で動いているため、それに身体を揺らされているだけなのかもしれなかった。
男は魔法石の周囲を見た。
太い管は床下へ続き、壁に刻まれた術式を経由して各地へ分配されている。先ほど見た管理室の記録が正しいなら、王都の防護結界、地方都市の対魔物結界、中央聖教会、王城の聖具、治癒所、浄化設備、そのほか王国中に存在する複数の施設へ、この場所から聖力が送られている。
たった一人の人間から。
男は魔法石の側面に設置された計器を見た。本体同調率。供給量。脈拍。意識反応。生命維持。そこに書かれている言葉には人間の名前がなかった。本体。供給源。接続率。
男はもう一度マナを見た。
一年前、村の丘で聖女としての仕事を終えたら帰ってくると言った女が、今は王国を動かす設備の一部として記録されている。
百九十七号が魔法石へ近づいた。
「この人がマナ?」
「ああ」
男は頷いた。
「私と同じ顔だった人?」
男は言葉もなく頷いた。
百九十七号はしばらくマナを見上げていた。
「今はあんまり同じじゃないね」
男は答えなかった。
女の言葉に悪意はなかった。事実としてそう言っただけだった。
男は魔法石のすぐそばまで近づき、手を表面へ当てた。冷たかった。
「マナ」
もう一度呼んだ。今度も返事はなかった。
ただ、その直後だった。閉じたままだったマナの右目の端から、小さな水滴が現れた。涙だった。頬を伝う。
男は動かなかった。
涙は白く変色した頬をゆっくりと下り、顎へ到達する前に形を変えた。透明な水滴の中心に白い光が生じた。表面が硬くなり、丸かった滴が多面体へ変わっていく。小さな宝石になった。魔法石の表面を転がり、男の足元へ落ちる。
男はそれを見た。資料に描かれていたものと同じだった。採取直後は透明度が高い。一定時間後、内部に人型の影が形成される。約一日で人型へ移行。百九十七号。百九十六号。百九十五号。第一号。約二百体。
男は床に落ちた宝石を拾わなかった。理解するための説明は必要なかった。聖殻は、マナの涙だった。
男はマナを見上げた。一晩に一つ。約二百日。この場所で身体を動かすこともできず、聖力を抜かれ続けた女が流した涙が宝石となり、翌日には同じ顔をした人間になる。
その人間たちは番号を付けられた。働かされた。売られた。実験に使われた。愛玩された。不要になれば廃棄された。
男は魔法石へ手をかけた。表面は滑らかで、素手では掴める場所が少なかったため、最初は管の接続部や固定具を避けながら足場を探し、マナの身体を傷つけないようにゆっくりと身体を持ち上げた。
「何するの?」
百九十七号が聞いた。
男は答えなかった。
最も低い位置に接続されていた管を調べ、根元にある金属部品へ指をかけた。留め具の構造を確かめ、外せる方向へ回そうとしたが動かない。反対側へ力を入れても変わらなかったため、今度は両手で管を握り、まっすぐ引いた。外れなかった。
握り直し、もう一度引いた。金属部品が軋み、手の平が滑った。男は一度だけ手元を確認すると、次は留め具を扱わず、管そのものを強く引いた。
金属部品が曲がった。さらに引くと、管が根元から抜け、白い光が噴き出した。周囲の術式が一瞬強く光り、警告を示す甲高い音が部屋に響いた。男は抜けた管を床へ落とし、隣の管へ手を伸ばした。
「それ外していいの?」
百九十七号が聞いた。
男は答えなかった。
二本目は留め具を調べなかった。両手で掴み、一度で外れなければ角度を変え、金属ごと捻って引き抜いた。警告音が増えた。壁の計器の針が大きく揺れ、一部が赤い領域へ入った。
三本目は接続部を踏みつけて外した。四本目は管の途中へ腕を絡ませ、体重をかけて乱暴に引きちぎった。固定具の留め具が見つからなければ、石との隙間へ指を入れて持ち上げ、曲がった金具はそのまま押し広げた。
最初に確認していた構造を、途中から見なくなった。マナに繋がっているものを外していった。それだけだった。
魔法石をさらによじ登り、胸元へ接続された細い管に手をかける。接続部は皮膚と石の境目へ深く埋め込まれており、管だけを引いても抜けなかった。男は周囲へ指を入れ、金具を浮かせようとしたが、指先が入るほどの隙間がない。
爪を差し込んだ。金具を持ち上げる。動かなかった。もう一本の指も差し込み、力を加えた。爪と皮膚の間に痛みが走り、指先から血が滲んだが、そのまま力を入れた。爪が浮いた。手を離せば戻るところまで金具が持ち上がったため、男はさらに指を押し込んだ。
爪が剥がれた。血が魔法石の表面へ落ちた。男は剥がれた爪を見ず、同じ指をもう一度隙間へ差し込んだ。血で滑るようになったため手の位置を変え、反対の手で管を掴み、金具を引き上げるのと同時に身体ごと後ろへ引いた。管が抜けた。
マナの身体がわずかに揺れた。男は一度だけその顔を見た。反応はなかった。
そのまま次の固定具へ手を伸ばした。警告音が鳴り続けていた。百九十七号は下から男を見上げていたが、男はもうそちらを見なかった。
部屋の入口で術式が光った。重い扉が開き、先ほど廊下で警備をしていた兵士が二人入ってきた。一人はすぐに剣を抜き、もう一人は壊された装置と魔法石の上にいる男を見た。
「何をしている!」
男は振り返った。
「そこから降りろ!」
男は兵士を見た後、再びマナへ繋がる管へ手を戻した。
「装置から離れろ! 供給が止まる!」
兵士が駆け寄り、男の脚を掴んだ。
男は魔法石から引きずり下ろされ、肩から床へ落ちた。肺から息が押し出され、しばらく呼吸ができなくなったが、兵士が身体を押さえつけようとした時にはもう起き上がろうとしていた。
「何者だ!」
返事はなかった。
男は床へ片手をつき、もう片方の手で近くに落ちていた金属製の器具を掴んだ。振り上げた。兵士の側頭部へ当たった。鈍い音がして、兵士の身体が横へ傾いた。
男はその隙に立とうとしたが、もう一人の兵士が剣の柄を腹へ打ち込んだ。身体が折れ、膝が床へついた。
兵士が腕を掴んだ。男はその腕を振りほどこうとしたが外れず、肩から兵士の身体へぶつかった。二人とも床へ倒れ、兵士の剣が手から離れて石床を滑っていった。
男は倒れた兵士の胸へ馬乗りになった。拳を振り下ろした。一度。兵士が腕で顔を守った。その腕の上からもう一度殴った。さらに殴った。兵士が男の身体を押し退けようとしたが、男は退かなかった。傷めた右手を何度も振り下ろし、拳の皮が裂けても同じ動作を続けた。
兵士の腕が下がった。それでも一度殴った。もう一度振り上げたところで、背後から腕を首へ回された。男は掴んでいた兵士を離し、後ろへ肘を振った。腹に入った。
相手の腕が緩まないため、同じ場所へもう一度肘を打ち込んだ。力が緩んだ。男は身体を反転させ、兵士を床へ押し倒した。近くに落ちていた金属器具を拾い上げる。
兵士が腕で頭を守った。男は構わず振り下ろした。金属器具は兵士の肩へ当たり、骨の折れる音がした。叫び声が上がった。男はもう一度振り上げた。兵士の動きが止まった。男は数秒その姿勢のままでいたが、追撃はせずに器具を手放した。
額から血が流れていた。腹を打たれた影響で呼吸は浅く、右手では二本の爪が剥がれ、拳の皮膚も裂けていた。
男は立ち上がった。振り返った先に魔法石があった。それ以外を確認せず、再び歩き出した。
百九十七号が倒れた兵士を見ていた。
「死んだ?」
男は答えなかった。
「あなたも血が出てる」
返事はなかった。
男は魔法石へ登った。先ほどまでのように管の接続部を調べることはなくなった。
マナの手首を拘束していた金属帯を掴み、留め具を引いた。外れなければ両手で捻った。それでも動かなかったため、床へ落ちていた兵士の剣を拾い、留め具へ叩きつけた。一度。金属がへこんだ。二度。留め具が曲がった。三度目には剣の刃が欠けた。男はそのまま振り下ろした。四度。五度。固定具が割れた。
マナの腕が支えを失い、下へ落ちた。
男はそれを受け止めず、すぐ反対側へ回った。同じように壊した。脚の固定具。腰。胸部。外せるものは外し、外れないものは曲げ、曲がらないものは剣で叩き壊した。
管は根元から引き抜いた。白い光が噴き出すたびに、壁の計器が大きく振れた。警告音が重なった。男は一度も振り返らなかった。
管を一本抜く。固定具を一つ壊す。もう一本抜く。剣を振り下ろす。白い光の流れが少しずつ弱くなっていった。
部屋を満たしていた低い機械音も一定ではなくなり、壁に刻まれていた術式が一つずつ消え始めた。
王国の各地でも、同じ変化が起きていた。王都の外壁に設置された聖具から光が消え、城門を覆っていた防護結界が薄れた後、完全に消失した。中央聖教会の治癒室では大型の聖具が同時に停止し、治療中だった神官たちは別の術式を起動させようとしたが、それも反応しなかった。
北部の防衛線では魔物の侵入を阻んでいた結界が消え、西部の浄化塔では水路へ送られていた聖力が途絶えた。王城内でも複数の聖具が停止し、異常を知らせる術式が各所で作動した。
最深部では、男が最後に残った太い管へ手をかけていた。
腕ほどの太さがあり、魔法石の中央から床下へ続いている。男は接続部を両手で掴んだ。引いた。動かなかった。足を魔法石へかけ、身体全体の重さを使った。金属が軋んだ。血に濡れた指が滑った。握り直した。もう一度引いた。接続部が少し曲がった。男は手を離さなかった。さらに身体を後ろへ倒した。金属が大きく歪んだ。剥がれた爪の跡から血が流れ、魔法石へ筋を作った。
男はただ引き続けた。接続部が外れた。太い管が床へ落ちた瞬間、残っていた白い光が一気に噴き出し、部屋全体を覆った。男は目を閉じた。やがて光が消えた。
魔法石の内部を流れていた光も止まり、部屋を満たしていた機械音が途切れた。白く輝いていた巨大な石が、ただの半透明な結晶へ変わっていく。同時に、マナの身体を覆っていた石の一部に亀裂が入った。
男は剣を差し込み、割った。石が砕ける。もう一度。マナの腰の周囲。背中。脚。完全に同化している部分は剥がれず、薄い結晶を身体に残したまま、少しずつ人の形として分離していった。
男は最後にマナの身体を両腕で受け止めた。軽かった。一年前に抱き上げたことなどなかったが、それでも異常な軽さだと分かった。
白い髪が男の腕から垂れた。全身に残っていた管の跡からわずかに血が滲んでいる。胸は動いていた。ごく小さく。生きている。男は床へ座り、マナを抱き直した。
その時だった。百九十七号が突然、膝をついた。
男が顔を上げる。
「どうした」
女は両手で頭を押さえ、身体を震わせていた。
「分からない。何か……」
言葉が途切れ、床へ片手をつく。呼吸が急速に浅くなり、もう片方の手で胸元を押さえた。
「痛い」
男はマナを抱いたまま女を見る。
「おい、大丈夫か」
百九十七号が顔を上げた。目から涙が流れていた。
「動けない」
女は自分の脚を見る。両脚とも正常で、膝を立てれば動かすこともできる。それでも何度も脚へ触れ、確かめるように指を這わせた。
「動く。でも、動けない。ずっと動けなかった」
男は何も言わなかった。
「寒い。痛い。帰りたい……」
女は胸元を掻きむしり、突然、男を見た。
「あなた」
その目は男の顔を確かめるように止まった。
「知ってる」
「何を」
「知らない」
百九十七号は男を見たまま涙を流した。
「待ってた」
男は腕の中のマナへ目を落とした。百九十七号の身体が大きく震えた。息を吸い込もうとして何度も喉を鳴らし、爪を立てた指で自分の胸元を掻く。
「嫌だ」
立ち上がろうとして足をもつれさせ、それでも無理に身体を起こした。
「嫌だ。嫌だ、嫌だ――」
そこで言葉が途切れた。
百九十七号は口を開いたまま何度か荒く息をし、次に顔を上げた時には、それまで男へ向けていた表情が消えていた。涙は流れ続けている。しかし目だけが変わっていた。何かを理解しようとしていた視線がなくなり、開いた瞳は目の前にあるものを見ているだけになっていた。肩が上下し、指が不規則に曲がり、身体の奥から押し出されるような低い声が喉から漏れたが、それはもう言葉にはならなかった。
床に倒れていた兵士の一人が呻いた。百九十七号の顔がそちらへ向いた。兵士が意識を取り戻し、身体を起こそうとしていた。
「聖殻……」
その声を聞いた瞬間、百九十七号が動いた。
床を蹴り、兵士へ飛びかかった。肩からぶつかって再び床へ倒し、その上へ乗ると、両手を首へかけた。兵士が腕を掴み、引き剥がそうとする。
百九十七号は何も言わなかった。歯を食いしばることも、怒鳴ることもなく、ただ両手に力を込め続けた。振り払われれば爪を立て、身体を持ち上げられれば再び上から押さえつける。泣いている顔と、行動だけが噛み合っていなかった。
もう一人の兵士も意識を取り戻した。状況を確認するより先に剣へ手を伸ばす。百九十七号が振り返った。兵士が剣を取るより早く、女は最初の兵士から離れ、床に落ちていた別の剣を拾った。
構えることもしなかった。両手で柄を掴み、そのまま兵士へ振り下ろした。兵士が腕で受ける。女はもう一度振り上げる。落とす。避けられる。また振る。そこに技術はなく、相手が動かなくなるまで同じ行動を繰り返しているだけだった。
男はマナを抱いたまま見ていた。百九十七号は声を上げなかった。呼吸だけが荒い。涙だけが流れている。
やがて二人の兵士が動かなくなった。百九十七号は剣を握ったまま、その場で立ち尽くした。数秒後、手から剣が落ちた。金属音が室内に響く。
女はゆっくり男の方を向いた。男も女を見る。百九十七号は何も言わなかった。呼吸はまだ荒く、目には先ほどまでの凶暴さが残っている。それでも男へ飛びかかることはなく、しばらくその場から動かなかった。男を見ていた。
やがて百九十七号は男から目を逸らした。開いたままの扉を見る。次の瞬間、走り出した。振り返りもしなかった。廊下へ飛び出し、そのまま研究棟の奥へ消えていった。
同じことが、王国各地で起きていた。
王太子の居室では、第一号が茶を飲んでいた。
王太子は数日後に予定されている正式な発表について話していた。第一号は王太子の話を聞き、笑い、婚礼衣装について尋ねていた。
第一号は王太子を愛していた。初めて目を覚ました時から聖女マナとして扱われ、王族の作法を教えられ、王太子から好意を向けられ、その好意を受け入れて生きてきた。王太子と結婚することが幸福だった。その感情は偽物ではなかった。
だからこそ、本体マナの記憶が流れ込んだ瞬間、第一号は自分の中に同時に存在する二つの感情を理解できなかった。目の前にいる男を愛している。同じ男の家族によって、身体を魔法石へ埋め込まれた。
王太子が笑っている。マナは一年間、ほとんど動けなかった。王太子から贈られた宝石を大切にしている。マナの涙は宝石になり、その宝石から自分が生まれた。第一号は微笑んだまま涙を流した。
王太子が異変に気付いて近づいた。第一号は王太子へ抱きついた。王太子も抱き返した。
次の瞬間、第一号は王太子の首へ噛みついた。
奴隷商の地下では、一人の聖殻が主人の足元へ座っていた。
主人に呼ばれれば返事をする。食事を与えられれば感謝する。売られる時も抵抗しなかった。それが自分の生活だった。そこへマナの記憶が流れ込んだ。痛い。動けない。帰りたい。嫌だ。
女は初めて、自分が首につけている輪を嫌なものだと思った。目の前にいる主人が、自分を所有していることを知った。それまで知識としては知っていた。しかし、初めて意味を理解した。
女は主人の顔を見た。主人は突然泣き始めた女に怒鳴った。女は立ち上がり、主人を殴った。
研究施設では、七十八号が寝台の上で身体を震わせていた。右脚はない。左腕も壊れている。先生のために必要な実験だと思っていた。次の処置を待っていた。
マナの記憶が入った。身体を切られることが怖い。拘束されることが嫌だ。痛いことは嫌だ。逃げたい。その感情を、七十八号は生まれて初めて知った。先生だから従う。でも怖い。先生の役に立ちたい。でも殺したい。
七十八号は寝台から落ちた。一本の脚と、正常に動かない片腕で床を這った。研究員が部屋を確認するため扉を開けた。七十八号はその足へしがみついた。
王都の貴族邸。地方領主の館。娼館。商会。使用人部屋。見世物小屋。番号を失い、所在すら管理されなくなった聖殻たちの中にも、同じものが流れ込んだ。一つの身体に、自分自身とマナが同時に存在する。聖殻たちは泣き、笑い、叫びながら、周囲にいる人間へ襲いかかった。
被害が集中したのは、聖殻を所有できる者たちだった。王族。貴族。裕福な商人。聖職者。研究者。奴隷商。それらの者たちの近くに、多くの聖殻が置かれていた。
王城では最深部の異常を確認するため、兵士と研究員が地下へ向かった。しかし研究棟でも暴走は始まっていた。
清掃をしていた百四十一号は、床を拭くために持っていた金属製の道具で使用人を殴った。別の部屋では拘束されていた聖殻が固定具を引きちぎろうとして手首を傷つけ、そのまま近づいた研究員へ噛みついた。
聖殻の多くは戦闘訓練を受けておらず、身体能力も普通の成人女性と大差はなかった。しかし、自分が傷つくことを恐れず、相手が動かなくなるまで襲い続ける者を止めるのは容易ではない。それが一人ではなく、各所で同時に発生していた。研究施設の廊下は短時間で通行不能になった。最深部へ向かう者はいなくなった。
王都の結界も消えたままだった。聖具が使えないことによる混乱が広がり、王城では王族の安全確保が優先された。しかし王族の居室にも聖殻がいた。異変が起きてから1時間もかからないうちに、王国の中枢は機能を失い始めた。
その頃、男は最深部でマナを抱いていた。
警告音はいつの間にか止まっていた。魔法石の光も消えている。遠くで何かが壊れる音が聞こえることはあったが、男は気にも留めなかった。
マナの身体は冷たかった。それでも呼吸は残っている。男は床へ座り、膝の上にマナを乗せるようにして抱いていた。白い髪を手で払った。その手にも血がついている。自分の血なのか、マナの血なのか分からなかった。マナの身体には、管を抜いた跡が残っている。
一年前。同じ女が村の丘で笑っていた。王都へ行ってくると言った。聖女として頑張ると言った。帰ってくると言った。男は待っていた。
一年後、王太子の側妃になるという知らせが来た。理由を聞きに来ただけだった。それだけだった。
男はマナの顔を見た。
「遅くなった」
返事はない。
男はそれ以上話さなかった。
どれほど時間が経ったのか分からなかった。
マナの瞼が動いた。
男は顔を近づけた。もう一度動いた。ゆっくりと開く。瞳も色を失っていた。ほとんど白に近い。焦点が合わないまま、しばらく天井を見ている。
男は名前を呼んだ。
「マナ」
瞳が動いた。
男の方を見る。
すぐには分からなかったようだった。男は何も言わず待った。マナの目が少しずつ男の顔を追った。
剥がれた爪。腫れた拳。額から乾き始めた血。一年分だけ変わった顔。マナの口元がわずかに動いた。笑った。男にはそう見えた。
「俺だ」
マナの唇が動く。
音は出なかった。
一度、息を吸う。
声にするだけでも身体全体を使っているようだった。
男は顔を近づけた。
マナが言った。
「殺して」
男は動かなかった。
マナはそれ以上、何も言わなかった。言わないのではなく、もう言えないのかもしれなかった。わずかに開いた唇から細い呼吸だけが漏れ、白く濁った瞳は男を見たまま動かなかった。
男はマナの頬に触れた。白くなった髪を耳へかけ、痩せた頬を親指でゆっくり撫でた。それから頭を抱き寄せ、何度も髪を撫でた。
涙が落ちた。男は声を出さなかった。男はしばらくそうしていた。
やがて頬から手を離し、男はマナの首を見た。細かった。一年前よりずっと細い。管が接続されていた痕が残り、白い皮膚の下に骨の形が分かる。
男の右手がマナの首に触れた。マナは男を見ていた。怯えていなかった。男は両手を、マナの首へ置いた。冷たかった。
指に力を入れた。マナの喉が沈む。最初は弱く。それから、強く。
マナは抵抗しなかった。男の手を掴まない。身体を捩らない。ただ男を見ていた。呼吸が止まる。身体が一度だけ小さく動いた。男は声を上げず、ただ涙を流しながら、マナの首を締め続けた。指先が震えていた。
マナの口がわずかに開いた。息は出なかった。瞼がゆっくりと閉じた。
男は締め続けた。長かった。実際には数分も経っていなかったのかもしれない。男には分からなかった。
やがて、マナの身体から力が抜けた。男はそれでもしばらく手を離さなかった。完全に呼吸が戻らないことを確認してから、ようやく指を緩めた。首に自分の指の跡が残っていた。
男はマナを優しく抱きしめた。
その瞬間、王国各地で聖殻が止まった。王太子の胸へ爪を立てていた第一号が動きを止めた。顔には涙が残っていた。そのまま身体が崩れ、床へ落ちた。
奴隷商の地下で主人を殴っていた聖殻も止まった。手を上げた姿勢のまま力を失い、倒れた。
七十八号は研究員の脚へしがみついていた。残った一本の脚と腕で身体を支えていたが、突然その力が消え、床へ横たわった。
約二百体すべてが、ほぼ同時に動きを止め、再び起き上がった個体はいなかった。
その日の混乱が完全に収束するまでには数日を要した。王都の結界が消えたため城門は閉鎖され、残った騎士と兵士が直接防衛に当たった。地方では魔物による被害も発生し、治癒設備が停止したことで助からなかった者もいた。
しかし、それ以上に王国の政治機構が受けた損害は大きかった。王族の多くが死亡または重傷。有力貴族の中にも死亡者が続出した。中央聖教会では、聖女の研究と聖殻管理に関与していた上層部が多数死亡した。王国各地で同時に起きた事件を調べるための指揮系統そのものが失われていた。
数日後、生存した兵士と神官が研究棟へ入った。廊下には研究員や兵士の死体と、動かなくなった聖殻が残されていた。最深部へ向かうほど損傷は激しくなっている。
最後の扉を開けると、その先には巨大な空間が広がっていた。
高い天井まで届くほどの魔法石が中央に据えられ、床のあちこちが赤黒く汚れている。乾き始めた血の臭いが広い室内に籠もり、異様な静けさだけが残されていた。
そして、聖女は跡形もなく消えていた。
魔法石から人為的に分離された形跡は残っていた。拘束具は破壊され、管は引き抜かれ、床には複数人分と思われる血痕も残されていたが、最深部を警備していた兵士二名は死亡しており、研究員や神官も聖殻の暴走によって多数が死亡していたため、誰が収容区画へ侵入し、聖女を連れ出したのかは分からなかった。
事件の直前、辺境から来た一人の男が聖女との面会を求めて王城の周囲を何日も歩き回っていたという証言だけは残っていた。男は聖女マナの幼馴染を名乗っていたという。
そのため後の調査では、この男が事件に関与した可能性も指摘された。しかし男が王城へ入ったところを見た者はおらず、最深部にいたことを示す記録も証言も存在しない。
そして事件後、その男の姿も確認されなくなった。
聖女も、その後発見されなかった。
二人のその後を示す記録は、何一つ残っていない。
***
事件後、王国は急速に形を変えた。
王家には国家を統治できるだけの人員が残っておらず、王政を維持しようとする勢力も弱体化した。中央聖教会は聖女マナへの処置と聖殻の利用が明るみに出たことで信用を失い、王家と教会双方の責任を追及する動きが各地で広がった。
聖力設備の大半が一人の聖女へ依存していた事実も問題となった。王国は長い時間をかけて、聖力に依存しない防衛設備を作り直した。
地方の統治権も再編された。王家の権限は解体され、複数の地域代表と旧貴族、新たな行政組織によって構成される統治体制へ移行した。
聖殻がなぜ一斉に暴走し、そして突然動きを止めたのか、その理由が明らかになることはなかった。ただ聖女マナから生まれた聖殻たちの暴走によって、腐敗した旧体制が終わり、王国が新たな形へ移行する契機がもたらされたことは、聖女マナが残した功績の一つとして語り継がれる事となった。
王国を守り、最後には王国そのものを正した。
そうして、聖女は職務を全うしたのである。




