第一章 聖女は王都に行く
マナが聖女になった日の朝も、村には何ひとつ特別なことは起きていなかった。
山の向こうから昇った陽が畑を照らし、まだ冷たさの残る空気の中で家畜が鳴き、村の中央を通る細い道には朝早くから畑へ向かう者の姿があった。王都から遠く離れた辺境の村では、季節が巡れば畑を耕し、雨が少なければ空を見上げ、冬が来る前には薪と保存食の量を確かめる、それだけの生活が何代にもわたって続いており、マナもまた、その中で生まれ育った一人だった。
その日、マナは母親に頼まれ、教会へ乾燥させた薬草を届けに行った。
村の教会は礼拝堂と司祭の住居を兼ねた小さな建物で、中央聖教会のような立派な尖塔も、色硝子を嵌め込んだ大きな窓もない。毎週の礼拝と、子供が生まれた時の祝福、死者が出た時の葬送、あとは病人や怪我人に簡単な治癒術を施す程度で、村人にとっては神に近い場所というより、困った時に司祭を訪ねる場所だった。
マナが薬草の入った籠を台所へ置き、司祭に声をかけようと礼拝堂へ足を踏み入れた時、正面に置かれた聖印が白く光った。
光は強かったが眩しさはなく、床や壁を照らしているようにも見えなかった。ただ聖印そのものから白いものが溢れ、それが細い帯のようにマナへ伸び、胸の中心へ吸い込まれた。何かを見たわけではない。耳で聞いたわけでもなかった。それでもマナには、自分の内側へ直接意味だけが落ちてきたことが分かった。
聖女。
それが自分を指している。
マナはしばらく動けず、やがて奥から物音を聞いて出てきた司祭に見つけられた。司祭は光の消えた聖印と、その前に立つマナを交互に見てから、何も言わず礼拝堂の奥へ戻り、古びた聖典と封蝋の施された書状を持って戻ってきた。
その日のうちに、村の鐘が鳴らされた。
急な礼拝でも、死者が出たわけでもない時間に鐘が鳴ったため、畑や家から集まってきた村人たちは教会の前で事情を知らされ、最初は誰もすぐには理解できなかった。聖女という言葉は誰もが知っていたが、それは王都や聖典の中に存在するものであり、毎朝井戸から水を汲み、母親に言われて薬草を届け、祭りの日には村の娘たちと一緒に焼き菓子を並べているマナとは簡単には結びつかなかった。
しかし天啓を受けたのはマナだけではなかった。
同じ時刻、周辺の町や都市にある教会にも、聖女の出現を告げる天啓が降りていた。司祭が持っていた書状は、そのような場合にのみ開封するよう歴代の司祭へ引き継がれていたもので、天啓を受けた聖女を保護し、中央聖教会へ連絡を送り、その到着を待つよう記されていた。
「王都へ行くの?」
話を聞き終えたマナが最初に尋ねたのは、それだった。
司祭は頷いた。
「中央聖教会から迎えが来る。早ければ一週間ほどだろう。詳しいことは、その者たちから聞くことになる」
「一週間」
「怖いか」
マナは少し考えてから首を横に振った。
「怖いというより、よく分からないです。昨日まで何もなかったので」
司祭にもそれ以上の説明はできなかった。聖女は数十年、時には百年以上現れないこともあり、この村はもちろん、司祭自身も実際の聖女を見たことなどなかった。
天啓を受けたからといって、その瞬間からマナの外見が変わったわけでも、触れた傷を治せるようになったわけでもない。村人たちに囲まれ、何度も祝福の言葉をかけられても、本人は朝と同じ服を着たままで、薬草の籠を教会へ置き忘れていたことに気付き、帰り際に取りに戻った。
男がその話を聞いたのは、昼を少し過ぎた頃だった。畑仕事を手伝っているところへ村の子供が走ってきて、マナが聖女になったと言った。最初は子供の冗談だと思ったが、村の中央へ戻る途中で会った者が皆同じ話をしており、教会の前にはまだ人が集まっていた。
マナは自宅の前にいた。村の女たちに囲まれて何度も同じ質問をされ、何度も同じような返事をしていたが、男の姿を見つけると、わずかに困ったような顔をした。男は人が減るまで近くで待ち、ようやく二人だけになった頃には、陽がかなり傾いていた。
「聖女らしいな」
「らしいよ」
「何をするんだ」
「分からない」
「いつ帰ってくる」
「それも分からない」
マナが答え、二人とも黙った。
幼い頃から同じ村で育ち、家もそれほど離れていなかった。物心がつく前から互いを知っており、子供の頃は特別に仲が良いと考えたこともなかったが、成長するにつれて一緒にいる時間が増え、いつの間にか他の異性とは違う意味を持つようになった。正式な婚約はしていない。村では家同士の話が先に進むことも多かったが、二人の場合は互いの家族も関係を知っており、いずれ本人たちが決めるだろうという程度に見られていた。
だから王都へ行くという話も、別れそのものとは受け取らなかった。
「一週間で迎えが来るんだって」
「早いな」
「王都まではもっとかかるけどね」
「帰ってくるのは」
「だから分からないって」
マナはそう言ってから、男の顔を見て少し笑った。
「そんな顔しないでよ。聖女になったからって、急に別人になるわけじゃないんだから」
男は何も答えなかった。
実際、マナはその後の一週間もほとんど変わらなかった。
王都へ行く準備として母親と荷物を整え、村の女たちから服や保存食を持たされ、司祭から最低限の礼儀や中央聖教会について教えられたが、それ以外の時間は以前と同じように過ごした。畑の手伝いをし、井戸へ水を汲みに行き、家の裏で干していた布が風で飛べば追いかけた。
男も特別なことをしなかった。
二人で村の外れまで歩き、小川沿いの道を通り、昔から腰掛けていた倒木の上に並んで座った。王都へ行けば立派な服を着せられるのではないか、聖女なら毎日祈らなければならないのではないか、王都の食事は村より美味しいのかと、分からないことを適当に話した。
「偉い人ばっかりなんでしょ」
「多分な」
「嫌だなあ」
「偉くなればいい」
「聖女って偉いの?」
「知らない」
「私も知らない」
マナは笑った。
別の日には、男の家の薪割りを手伝おうとして止められた。聖女に怪我をさせたら村中から何を言われるか分からないと男が言うと、昨日までやっていたのに、と不満そうに斧から手を離した。その日の夕方には男がマナの家へ行き、代わりに重い荷物を倉へ運んだ。
一週間は短かったが、二人はその短さを深刻には受け取っていなかった。
中央聖教会へ行き、聖女として何をするべきか教わり、必要な仕事を終えれば帰ってくる。具体的な期間こそ分からなかったが、それ以上の未来を想像する理由もなかった。
使者が到着する前日の夜、二人は村の入口近くにある小高い丘へ行った。
昼間なら畑仕事の帰りに誰かが通る場所だったが、夜になると人影はなく、遠くに村の家々から漏れる灯りが見えた。マナは草の上に座り、男も隣に腰を下ろした。
「王都、見てみたかった?」
男が尋ねると、マナは首を傾げた。
「別に」
「一度くらいは行きたいと思わなかったのか」
「お祭りとかなら行ってみたいけど、住みたいとは思わないかな。人が多そうだし」
「聖女なら住めって言われるかもしれない」
「仕事があるなら仕方ないけど、ずっとは嫌だよ」
それからマナは少し黙り、村の灯りを眺めた。
「ちゃんとやってくるよ」
「何を」
「分からないけど、聖女の仕事。せっかく私だったんだから」
選ばれたことへの喜びというより、与えられた役目なら果たすという程度の言い方だった。
「終わったら帰ってくる」
男は頷いた。
「待ってる」
「うん」
それ以上の約束は必要なかった。
翌日の昼前、中央聖教会の馬車が村へ到着した。
使者は三人で、神官二人と護衛の騎士が一人、いずれも村人が普段目にする者とは違う上質な服と装備を身につけていた。神官は司祭と書状を確認し、マナ本人にもいくつか質問をした後、聖印を用いた簡単な確認を行った。聖印はマナが触れると淡く白く輝き、それだけで必要な確認は済んだらしい。
村人たちは道沿いに集まり、マナの家族は馬車の前まで見送った。
男もその中にいた。
マナは旅用に用意された外套を着て、中央聖教会から渡された小さな荷物を持っていた。王都へ到着すれば必要なものはすべて用意されるため、私物を大量に持っていく必要はないと言われたらしい。
馬車へ乗る直前、マナは家族と別れ、最後に男のところへ来た。
「行ってくるね」
「ああ」
「ちゃんと待っててよ」
「他に行くところもない」
「そういう言い方する」
マナは笑い、男の手を握った。
幼い頃から何度も触れてきた手だった。
「頑張ってくる」
「無理はするな」
「分かってる」
「帰ってこい」
「うん」
マナは手を離した。
馬車が走り出してからも、しばらく窓から手を振っていた。街道の曲がり角で馬車が見えなくなり、集まっていた村人たちが少しずつ仕事へ戻り始めても、男はしばらくその場に残った。
翌日から、村は以前とほとんど同じ生活へ戻った。
聖女が生まれた村として周辺から人が訪れることはあったが、マナ本人はもういない。中央聖教会から特別な知らせが届くこともなく、村の司祭が問い合わせても、聖女は王都で必要な教育を受けているという返事が来る程度だった。
季節が変わった。畑の作物が育ち、収穫され、冬が来て、雪が解けた。
男は時々マナの家を訪ねたが、家族のもとにも個人的な手紙は届いていなかった。中央聖教会では聖女としての修練が忙しいのだろうという話になり、男もそれ以上の理由を考えなかった。
約一年後、王都から一つの知らせが届いた。
正式な王家の布告であり、村の教会にも写しが送られた。国王の嫡男である王太子が、公爵家の令嬢と正式に婚約する。それ自体は辺境の村に直接関係する話ではなく、王家の慶事として礼拝の際に報告されれば終わる程度のものだった。
ただし布告には、もう一つ記されていた。
聖女マナを王太子の側妃として迎える。
司祭からその話を聞いた男は、しばらく意味を理解できなかった。
「側妃?」
「そう書かれている」
司祭は布告の写しを男にも見せた。
王太子の正妃となるのは公爵令嬢であり、聖女は側妃として王家に迎えられる。王国に聖女を留め、王家との結びつきを強めるという意味では、政治的には不自然な話ではなかった。過去にも聖女が王族と婚姻した例はあり、司祭自身も制度上あり得ないとは言わなかった。
男が理解できなかったのは、制度ではなかった。
「マナが承知したんですか」
「布告にはそこまで書かれていない」
「本人から何か」
司祭は首を横に振った。
マナの家族にも知らせは届いていなかった。
男は布告を何度も読み返した。聖女マナ。名前は間違っていない。王都に別のマナという聖女がいるとは考えにくかった。
王太子に見初められたのかもしれない。王都で生活するうちに考えが変わったのかもしれない。聖女として王家に入る必要があると判断したのかもしれない。
どれもあり得ないとは言えなかった。一年という時間があれば、人の考えが変わることはある。
男はその日のうちに旅の支度を始めた。
マナが男を忘れたのなら、それは本人から聞けばいい。王太子を選んだのなら、それも本人の口から聞けばいい。村へ戻らない事情があるのなら、事情を知ればいい。
何かされたのだと決めつけるつもりもなかった。ただ、何も知らないまま納得することはできなかった。
王都までは遠い。中央聖教会の馬車であれば道中の宿場や関所で優先的に通行できるが、男にはそのような便宜はない。乗合馬車を使える場所では利用し、それ以外は歩き、宿代を節約するために街道沿いの簡素な宿を選んだ。
旅の途中、王太子の婚約と聖女の側妃入りはどこでも話題になっていた。聖女が王太子に見初められた。辺境の村娘が王家へ迎えられる。公爵令嬢も聖女を受け入れている。王国にとってめでたい話だ。宿の食堂で商人たちがそんな話をしていた時も、男は黙って食事を続けた。
「聖女様は相当な美人らしいぞ」
「王太子殿下も運がいい。正妃が公爵令嬢で側妃が聖女だ」
「聖女様にしても、辺境から王城なら大出世だろう」
男は反論しなかった。
マナが王都へ行く前、住んでみたいとは思わないと言っていたことを、彼らが知るはずもない。
王都へ近づくほど街道は広くなり、行き交う馬車の数も増えた。村では滅多に見ない魔道具を積んだ荷車や、聖印を刻んだ装備を持つ騎士も珍しくなくなり、遠くからでも王都を囲む城壁が見える場所まで来ると、男は自分が暮らしてきた場所との差を実感した。
王都の外周には巨大な防護結界が張られていた。薄い光の膜が空を覆っているわけではなく、普通に歩いているだけなら意識することもないが、城門の上には結界を維持するための聖具が設置され、白い光を一定の間隔で放っていた。魔物や呪術への対策として王都では常時稼働しているものらしく、門番は特別なものとして扱っていなかった。
城門を抜けると、人の多さは村どころか途中で通った町とも比較にならなかった。
石造りの建物が並び、舗装された道を馬車が行き交い、店先では魔道具の灯りが昼間から使われていた。広場には小さな聖具が設置され、怪我をした兵士が神官から治癒を受けている。水路には浄化の術式が組み込まれ、王都の住民たちはそれらを特別意識することなく利用していた。
男は宿を確保すると、その日のうちに王城へ向かった。近づけば近づくほど、自分がどうにもならない場所へ来たことが分かった。王城の正門には当然ながら兵士が立ち、訪問者は身分と用件を確認されている。商人であれば許可証、貴族であれば家名、教会関係者であれば所属を示すものが必要だった。
男には何もない。
聖女マナに会いたいと申し出ると、門番は最初こそ話を聞いたが、男が辺境の村の幼馴染だと知ると、面会はできないと答えた。
「聖女様は王家の保護下にある。個人的な面会は許可されていない」
「本人に、村から来た男がいると伝えるだけでも」
「伝言も受け付けられない」
「中央聖教会なら会えるか」
「現在の聖女様については王城へ問い合わせろ」
王城では受け付けられず、中央聖教会では王城へ行けと言われた。
男はそれから二日、方法を探した。聖女に仕える者へ伝言を頼めないか、王城へ出入りする商人に金を払えば何とかならないか、村の司祭からの書状が使えないか。どれも難しかった。そもそも聖女はもう辺境から出てきた村娘ではなく、間もなく王太子の側妃となる人物だった。男が口で幼馴染だと言ったところで、それを証明するものもない。
三日目の午後、男は王城の外周を歩いていた。正門から入れない以上、他に方法がないか確認する程度の考えだったが、王城は高い壁と複数の塔に囲まれており、当然ながら簡単に侵入できる構造ではなかった。裏手には使用人や物資搬入用の門があったが、そこにも警備があり、男が近づけばすぐに止められる。
どうするか考えながら、人通りの少ない道へ入った時だった。前方の細い路地から、一人の女が出てきた。
男は足を止めた。女も男を見て、少しだけ首を傾げた。
マナだった。
王都へ出てから一年が経っている。服装は違った。村にいた頃には着たことのない、薄い色の上等なワンピースを着ており、靴も柔らかな革で作られている。髪も以前より整えられていた。
それでも間違えるはずがなかった。顔も、髪も、背丈も同じだった。男はほとんど考えずに近づいた。
「マナ」
女は立ち止まった。
男を見た。
「誰?」
男も止まった。
聞き間違いだと思った。
「俺だ」
「うん」
女は返事をしたが、分かったという意味ではなかった。
「誰?」
声まで同じだった。
男は女の顔を見た。
記憶の中のマナと比べても、違いを探すことができなかった。目の形も、鼻筋も、口元も同じで、髪の色も長さもほとんど変わらない。
「マナじゃないのか」
「マナ?」
女は初めて聞く名前を確かめるように繰り返した。
「私は違うよ」
「じゃあ、誰だ」
「分からない」
女は特に困った様子もなく答えた。
「名前は」
「ない」
「ない?」
「うん。あ、でもさっき聖殻って呼ばれた」
聞いたことのない言葉だった。
「せいかく?」
「そう」
「それが名前か」
「多分違うと思う。私だけを呼ぶ時も聖殻って言うけど、名前って感じじゃなかったから」
男はしばらく黙り、女を見た。女は警戒していなかった。見知らぬ男に突然名前を呼ばれたというのに、逃げるでも助けを呼ぶでもなく、むしろ男が何を考えているのか興味を持っているようだった。
「どこから来た」
女は王城の方を指した。
「そこ」
「城?」
「うん」
「何をしてる」
「何もしてない」
「城の人間なのか」
「分からない」
何を聞いても分からないと言う。
男は苛立つより先に、別の可能性を考えた。記憶を失っているのかもしれない。何か事情があって自分を知らないふりをしている可能性もある。
「昨日は何をしてた」
「起きた」
「朝に?」
「多分」
「どこで」
女は少し考え、また城の方を指した。
「部屋」
「その前は」
「知らない」
「覚えてないのか」
「覚えてないっていうか、ない」
女は自分でも説明しづらそうに眉を寄せた。
「昨日、目が覚めたところからしかないよ」
男は女の言葉をすぐには理解できなかった。
「怪我でもしたのか」
「してない」
「誰かに何かされた?」
「服をもらった。ご飯も食べた」
「そうじゃなくて」
「あと、ここにいろって言われた」
「誰に」
「知らない人」
「城の中で?」
「うん」
「なんで外にいる」
女は少し笑った。
「出たかったから」
男は思わず黙った。
「出るなと言われなかったのか」
「ここにいろとは言われた」
「同じだろ」
「違うでしょ」
「だいたい同じだ」
「じゃあ次から気をつける」
女は素直に頷いた。
その反応は、マナとは似ても似つかなかった。マナなら同じことを言われれば、違うものは違うともう少し言い返したはずだった。
しかし顔は同じだった。男はもう一度、正面から女を見た。
「俺が探してるマナって女と、同じ顔をしてる」
「私と?」
「ああ」
女は驚くより先に、自分の頬を触った。
「どれくらい?」
「同じだ」
「似てるじゃなくて?」
「俺には違いが分からない」
女は少し考えた後、楽しそうに笑った。
「見てみたい」
「俺も会いたい」
「どこにいるの」
「城にいるはずだ」
女は城を振り返った。
「じゃあ探せばいいね」
「入れないから困ってる」
「なんで?」
「俺は城の人間じゃない」
「私も多分違うよ」
「お前は中にいたんだろ」
「いた」
「どうやって出てきた」
女は路地の奥を指した。
「向こう」
男は指された方を見た。
王城の外壁に沿うように建物が並んでおり、その先は物資搬入用の区画へ続いている。
「門から?」
「門は人がいたから通ってない」
「じゃあどこだ」
「狭いところ」
女は男が聞き返す前に歩き出した。
「見せる」
男はすぐにはついていかなかった。何者なのか分からない。マナとまったく同じ姿をしている。昨日以前の記憶がない。城から勝手に出てきた。どれ一つとして普通ではなかった。
女は数歩進んだところで振り返った。
「来ないの?」
「少し待て」
「なんで?」
「考えてる」
「長い?」
「すぐ終わる」
「分かった」
女はその場で待った。
男は考えた。この女を信用できる根拠はない。しかし正門から聖女に会う方法もなかった。
「本当に城へ戻れるのか」
「戻れると思う」
「思う?」
「出てこられたから」
「見つかったらどうする」
女は少し考えた。
「逃げる」
「俺もか」
「一緒に来るなら」
男はため息を吐いた。
「分かった」
女は頷いた。
「じゃあ行こう」
路地を進む途中、女は男の少し前を歩いていたが、しばらくすると隣へ並んだ。
「マナってどんな人?」
「何が聞きたい」
「私と同じ顔なんでしょ」
「ああ」
「性格も同じ?」
「今のところ全然違う」
女は男の言い方を真似するように、「全然違う」と繰り返した。
「どっちがいい?」
「比べるものじゃない」
「そうなの?」
「お前とマナは別人なんだろ」
「多分」
女はその答えを気に入ったのか、少し笑った。
「じゃあ別人でいい」
路地の奥には、王城へ物資を運び込むための建物が並んでいた。その間を抜け、使われていない倉庫の裏へ回ると、壁沿いに人一人がやっと通れる程度の隙間があり、その先に古い排水路の点検口があった。格子は片側の留め具が壊れていた。
「ここから出た」
女が言った。
「よく見つけたな」
「歩いてたらあった」
「城の中を勝手に歩いてたのか」
「うん」
「見つからなかった?」
「見つかったら戻れって言われた」
「戻ったのか」
「その時は」
男は格子を持ち上げた。
思ったより軽く、確かに人間一人なら通れる。
「使えそうだな」
女は男の横で同じように格子を持った。
「手伝う」
「そこ持て」
言われた場所へ手を移した。
二人で格子を外し、狭い通路へ入った。石造りの排水路はしばらく暗かったが、途中から壁際に小さな魔道灯が設置されており、城の地下設備へ続いていることが分かった。女は昨日ここを通った時のことを覚えているらしく、途中の分岐で一度だけ迷ったものの、やがて上へ続く階段を見つけた。
「ここ」
小声で言った。
男も声を落とした。
「この上が城か」
「多分」
「多分ばっかりだな」
女は男の言葉を覚えたらしく、小さく笑った。
「だって昨日からしか知らないから」
階段の先には木製の扉があり、わずかに開いていた。男が隙間から外を確認すると、物置のような小部屋だった。誰もいない。二人は中へ入り、扉を閉めた。
城の中だった。男はしばらく耳を澄ませた。遠くで誰かが歩く音がする。女は平然と棚に置かれた布を触っていた。
「触るな」
「なんで?」
「見つかったら困る」
女はすぐに手を離した。
「分かった」
それから男の後ろへ回り、同じように足音を立てないよう歩き始めた。扉の外には細い廊下が伸びていた。華美な装飾はなく、使用人や物資の移動に使われる裏側の通路らしい。
男は女に、昨日いた部屋がどちらか分かるか尋ねた。
女は少し考え、右を指した。
「多分こっち」
「そこにマナがいるのか」
「知らない」
「お前がいた場所だけでいい」
「分かった」
二人は廊下を進んだ。
人の声が近づけば物陰へ隠れ、曲がり角では先を確認してから進む。女は最初こそ気にせず歩こうとしたが、男が腕を掴んで止めることを何度か繰り返すうち、自分から立ち止まって男を見るようになった。
しばらく進んだところで、女が突然男の袖を引いた。男は止まり、女が見ている先へ目を向けた。廊下の向こう側に、一人の女がいた。白い布を何枚も抱え、使用人らしい男の後ろを歩いている。
距離があったため顔までははっきり見えなかった。しかし髪の色も、背丈も、歩き方も、隣にいる女とほとんど同じだった。男の隣で、昨日からしか存在しないという少女が小さく首を傾げた。
「あれ、私?」
男は答えられなかった。




