第2章 怨と義の京召喚 【1.正庁の義断】
【1.正庁の義断】
下野国境の合戦で「平良兼の三千の大軍が、黒騎馬百余騎に撃破された」という噂は、瞬く間に坂東一円へ広がった。
この頃ようやく我を取り戻しつつあった源護は、新たな本拠を構え、一族郎党の再集結を呼びかけた。しかし、度重なる平氏方の敗北は、いったん霧散した家人たちが戻る余地を与えなかった。
源護の怨火は鎮まらず、その怨念はもはや呪詛のように将門へ向けられていた。
――常陸国府・東院の間
史生が巻物を広げ、張り詰めた声で読み上げた。
「――『下総豊田の平将門、大国玉の平真樹と結託し、南北より我が荘園を侵す。扶・隆・繁の三子を討ち、村々に火を放ち、叔父・平国香殿を殺害す。さらに良兼・良正ら肉親の諫めも聞かず、逆に兵を挙げてこれを討たんとす。これは国の秩序を乱す叛徒・逆賊の所業なり。国府は速やかに投状し、両名を召し進められたし』――」
読み終えた史生は、国豊の顔をそっと窺った。
「告状を差し出したのは、真壁の豪族・源護殿にございます。」
国豊は静かに目を閉じ、しばし沈黙したのち、淡々と告げた。
「……史生よ。この訴えは受理できぬ。」
史生は驚愕に目を見開いた。
「大掾殿……理由を伺ってもよろしいでしょうか。」
国豊はゆっくりと目を開き、事実を積み重ねるように語り始めた。
「まず、『将門、大国玉の平真樹と結託し、南北から荘園を侵す』とあるが、これは虚構だ。大国玉の主の求めに応じ、調停に赴いた将門公に落ち度はない。」
史生は息を呑んだ。
「次に、『扶・隆・繁の三子を討ち、村々に火を放ち、国香殿を殺害す』。これは事実だが、肝心の前提が抜けている。源護殿らは、調停に訪れた将門公を密かに討たんと謀り、逆に将門公の逆鱗に触れた。反撃は当然であり、将門公に非はない。」
国豊はさらに続けた。
「最後に、『良兼・良正ら肉親の諫めも聞かず』とあるが、良正殿も良兼殿も、娘婿として“弔い”のために兵を挙げた。先に刃を向けたのは彼らであり、しかもその争いはすでに終息している。」
淡々とした声でありながら、その言葉は鋭く容赦がなかった。
国豊は静かに結んだ。
「調停の場で将門殿を亡き者にせんとした源護殿が、武家として恥ずべき振る舞いを隠し、己の怨のみを訴える……これのどこに“義”があるというのか。」
広間に重い沈黙が落ちた。
国豊は筆を取り、却下の文をしたためた。
「――『本訴は筋違いにつき、常陸国府これを取り上げず』。」
その筆致は揺らぎなく、まるで“義の所在”を告げるかのようであった。
――真壁・源護の館
「国府はこれを取り上げず、だと……?」
源護は返文を握りつぶし、紙が、ぐしゃりと音を立てた。
「大掾……貴様、将門に与したか!」
怒りで顔は紅潮し、目は血走っていた。
「国府が何故、暴虐の徒を野放しにする! 何故、我が子らを討った賊を咎めぬ!」
郎党たちは息を呑み、誰も口を開けなかった。
「馬を引け! この護が、直接国豊の面を問いただす!」
怨火が噴き上がるような声だった。
――浮島・国豊の館
香取海の風が静かに吹く浮島。
国豊は諸族との会談を終え、庭を歩いていた。
そこへ荒々しい蹄音が響いた。
「大掾・藤原国豊よ! 出てこい!」
源護が馬を降り、家人を押しのけて踏み込んだ。
国豊は振り返り、静かに言った。
「……源殿。どうかお静まりを。」
「静まれだと? 貴様、何故我が訴えを退けた!」
護は太刀に手をかけ、国豊へ詰め寄った。
国豊は一歩も退かず、淡々と告げた。
「源殿。貴殿は堰修繕の求めを退け、大国玉の民を飢えに苦しめ、争いを激化させ、死人まで出した。――怠政失民、その果てに生まれた怨が、いま貴殿を蝕んでいるのです。」
護の顔が歪む。
「見かねた大国玉の主が将門公に調停を託した。にもかかわらず、貴殿らは調停のために訪れた将門公を密かに討たんとした。」
国豊の声は静かだが、一言一句が護の胸を刺した。
「そのような和議背反、謀殺奸計の所業……天も地も赦すまい。」
源護は震えた。怒りか羞恥か、判別できぬほどに。
「貴様……将門に媚びたか!」
国豊は首を振った。
「我は国府の判官として、“義”に従うのみ。」
その言葉は、護にとって最大の侮辱だった。
「……覚えておれ、国豊。将門も貴様も、必ず後悔させてやる!」
源護は馬に飛び乗り、怨火を撒き散らすように去った。
国豊はその背を見送りながら、胸の奥で静かに思った。
(……源殿。あなたの怨は、いずれ己を焼く炎となる。)




