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将門炎舞記 下巻  作者: 浮島太郎


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第1章 焔影、破軍へ伸びる 【8.義の盟、怨の火】

【8.義の盟、怨の火】


そのとき――

弘雅の視線が、ふっと、将門の背後に立つ若武者に吸い寄せられた。

「なんと……! いや、汝は国豊ではないのか?」

その声は、思わず震えていた。

国豊は、その名を呼ばれた瞬間、胸の奥が熱くなり、深く頭を垂れた。

「御久しうございます、藤鷲とうじゅの大夫様(藤原北家魚名流・鷲取家の堂上)。

長らくの御無礼、誠に申し訳ございません。」

弘雅は、しばし言葉を失った。

――十年前の清涼殿が、鮮やかに脳裏に蘇る。

稚児髪ちごがみ童殿上わらわてんじょうとして主上の御側に侍り、清涼殿を俊敏に走り、文や星を読み、陰陽師を言い負かし、堂上(殿上人)を驚かせた少年。

その少年が、今は坂東の地に立ち、将門を支える武将に育ち、ここに居る。

弘雅は、胸の奥に熱いものが込み上げた。

「国豊……そなたが……そなたがここにおるとは。」

国豊は、静かに将門の方へ一歩進み出た。

「積もる話はございますが、今は火急の折にございます。」

そして、弘雅に向き直り、はっきりと言った。

「将門殿は、“義”の人にございます。」

その一言は、国豊の胸の奥から絞り出された、揺るぎない確信だった。

弘雅は、その言葉に胸を打たれた。


弘雅は、静かに息を吸い、将門に向き直った。

「……将門殿。そなたの言葉、しかと聞き届けた。国府は、そなたを朝敵とは見なさぬ。

むしろ、坂東の秩序を守る者として遇する。」

将門は深く頭を下げた。

国豊は、その姿を見つめながら、胸の奥で静かに思った。

(小次郎殿……この再会の日を、どれほど待ち望んだことか。)

その瞬間、戦場のただ中でありながら、三人の心はひとつに結ばれた。

それは、のちの坂東の運命を大きく揺るがす“見えざる盟約”の始まりであった。


国府の静座の間での会見が終わると、弘雅はしばらくその場に座り込んだまま、胸の奥に残る震えを鎮められずにいた。

(……将門殿。あれほどの武威を持ちながら、国府を攻めず、理を通すとは。)

そのとき、国豊が静かに一礼して退いた。

その背中を見送りながら、弘雅は思った。

(国豊……そなたがこの男に従うのではなく、“共に立つ”という姿勢でいることが、何よりの証だ。)

弘雅は、机の上に置かれた白紙の巻物を見つめた。

「……書かねばならぬ。」

筆を取り、墨を含ませる。

外では、将門軍千が沈黙のまま国府を包囲している。

その静けさが、弘雅の背筋を伸ばした。

筆先が紙に触れた瞬間、弘雅の表情は“公家”ではなく、坂東の秩序を守る者の顔になっていた。

一、上総介良兼、先に兵を挙げ、下総の将門を討たんとす。

一、将門、これに応じて自衛の戦を行う。

一、将門、国府の威信を尊び、包囲を解き、良兼らを赦す

一、下野国府、攻撃を受けず。

筆は迷わない。

弘雅の胸には、国豊の言葉が響いていた。

――「将門殿は、義の人にございます。」

弘雅は筆を置き、深く息を吐いた。

(この顛末書は、坂東の未来を左右する。)

そして静かに巻物を巻き、将門に手渡すために立ち上がった。



――国府の西門(裏門)

そこだけが、将門の命により“わざと”開けられていた。

良兼は、その意味を理解した瞬間、胸の奥が焼けるように熱くなった。

(将門め……、慈悲を与えたつもりか? この我を哀れんだというのか!)

怒りとも屈辱ともつかぬ感情が、良兼の喉を締めつけた。

貞盛がそっと声をかけた。

「叔父上……ここは、退きましょう。今は……生きることが肝要にございます。」

良兼は、その言葉に返す声を失った。

(貞盛まで……我を諭すのか。)


だが、国府の兵たちはすでに門へ殺到していた。

「助かった! 将門は追ってこぬぞ!」

「生きて帰れる!」

逃げられる――その事実だけで、彼らは歓喜し、泣き、叫んでいた。その声が、良兼の胸をさらに抉った。

(将門……貴様は……我を殺す価値もないと言うのか。)

良兼は馬に跨り、西門を抜けた。湿原の風が、敗残の匂いを運んでくる。

背後では、将門軍が一歩も動かず、ただ静かに見送っていた。その沈黙が、良兼には何よりも耐え難かった。

(覚えておれ……将門。この屈辱、必ず返す。必ずだ――!)

良兼は、泥を跳ね上げながら、下野国府を後にした。その背中は、赤龍の名に似合わぬほど小さく見えた。

しかし良兼の胸の奥の怨火おんかは、一層激しく燃え上がっていく。


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