第1章 焔影、破軍へ伸びる 【7.義の人、朝敵にあらず】
【7.義の人、朝敵にあらず】
下野国府
将門の軍は、まるで影が伸びるように、静かに国府を取り囲んだ。
黒騎馬の影が、平原の向こうにずらりと並んでいる。
その黒は、まるで夜が昼を侵食するような、不気味な深さを帯びていた。
鬨の声は上げない。矢も番えない。
ただ、沈黙の圧力だけが、国府の空気を重く押し潰していた。
土塁の内側では、敗残兵たちが震える手で、思い思いに武器を握りしめていた。
「……来るな……来るな……」
誰かが呟いた。
国衙の敷地内では、真夏の日の光と暑さを避け、日陰を求める負傷兵が、厩や厨家、正倉や対の庇など、至る所に腰を下ろし、あるいは横になっていた。
敗残兵は五百に満たず、多くの負傷者を抱え、皆、既に戦意を失っている。
正庁の最奥、塗籠の中では、良兼が蒼白な顔で叫んでいた。
「なぜ攻めてこぬ! 将門は我を嬲っておるのか!」
外の静寂は、かえって恐怖を増幅させた。
――貞盛は黙り込み、良正はただ唇を噛んでいた。
将門は、馬上から国衙を見据えていた。
その背後には、坂東の諸族が整然と並ぶが、誰ひとりとして声を発しない。
ただ、将門の号令を待つ間の沈黙だけが、軍全体を支配していた。
沈黙の中で、国豊だけが、幼い頃に見た将門の姿を思い出し、胸が高鳴った。
将門は、黒騎馬を伴い門前に進み、下野守・藤原弘雅と直接言葉を交わしたい旨を申し出た。下野守は、国府の内門に近い東院に接見の場を設け、将門を迎え入れた。
内には五百の兵が留まり、外には千の兵が包囲しているというのに、この座の間だけは、まるで時が止まったかのようであった。
将門は甲冑を脱ぎ、静かに膝を進めた。
弘雅は、その姿を見て目を細めた。
(この男……武の者でありながら、礼を失わぬ。)
将門は深く頭を下げた。
「下野守殿。我は国府を攻めるつもりはござらぬ。良兼殿を討つためでもない。」
弘雅は目を細め、問い返した。
「では、何のためのこの包囲か?」
将門は、一拍置いて答えた。
「――坂東の秩序を守るためです。」
弘雅は息を呑んだ。
将門は続けた。
「国府を攻めれば朝敵となる。それは、坂東のためにも、朝廷のためにもならぬ。
良兼殿は、私怨によって我を討とうとした。しかし、その怨みに正しさは微塵もなく、我は義によって怨を治めたのです。良兼殿も、良正殿も、貞盛殿も、皆、わが肉親。弑すことなど、考えてもおりませぬ。」
弘雅は、その言葉の“理”と“静”に胸を打たれた。
(この男……朝廷の権威を否定せず、しかし坂東の秩序を自らの手で守ろうとしている。)




