軍声、北より満つ
星神の影が東国を覆い始めたその時、
良文は貞盛を伴い、奥州鎮守府将軍の前線である胆沢城を発ち、国府のある多賀城に向かった。
寛朝の祈りと星神の神威が激突し、霊的次元の戦いが激しさを増している頃、現実世界の人の側もまた、将門討伐へ向けて動き出していた。
山霧が谷を埋め、白い息のように揺れている。
その霧の奥から、低く、地を這うような太鼓の音が響き始めた。
夜明け前の多賀城は、まだ闇の底に沈んでいた。
しかし、城内の広場だけは異様な気配に満ちていた。
中央に据えられた大きな火鉢から、青白い炎が立ちのぼり、
その周囲に、俘囚の長たちが無言で輪を描いて立っている。
彼らの身体には、山の神・川の霊・獣の魂を象る刺青が刻まれ、
その文様が炎に照らされてゆらめくたび、まるで生き物のように蠢いた。
火鉢の前に進み出たのは、鎮守府将軍・平良文。
その姿は、武人というより、古代の祭祀者のようであった。
良文は、火鉢に向かって深く一礼し、静かに口を開いた。
「――陸奥の地を守りし古き神々よ。いま、東国に乱あり。
“新皇”を称し、朝廷を欺き、民を惑わす逆徒あり。」
俘囚の長たちが、低く、喉の奥で唸るような声を漏らす。
良文は続ける。
「この乱を鎮めるため、我、鎮守府将軍の権をもって、兵二千を徴発する。
俘囚主どもよ、その力、いま一度、我が前に示せ。」
その瞬間、俘囚の長が火鉢に獣骨を投げ入れた。
骨が炎に触れた途端、青白い火が赤く変わり、轟、と音を立てて燃え上がる。
俘囚たちが一斉に地を踏み鳴らした。
ドン……ドン……ドン……
その足音は、大地そのものが呻くようであった。
俘囚たちは、武具こそ粗末だが、刻まれた刺青と、獣の皮をまとった異様な姿で整列していた。
その眼は、闇の底から拾い上げられた石のように光を失い、ただ戦いと殺戮のためだけに研ぎ澄まされている。
良文は振り返り、貞盛に向かって静かに言う。
「見よ、貞盛。これが陸奥の兵、俘囚の魂だ。彼らは、ただの兵ではない。
山野の怨霊を背負い、戦のために生まれた者たちだ。この二千を率い、将門を討て。」
陸奥俘囚軍団――二千。
貞盛は、喉の奥がひりつくような恐怖を覚えた。
「……これが、陸奥の兵……」
貞盛は思わず呟いた。
その声は震えていた。
良文は静かに言う。
「将門が“新皇”を称した以上、もはや赦しはない。
この二千は、天の怒りそのものと思え。」
俘囚たちの列の奥で、黒い狼の毛皮をまとった長が、骨笛を吹き鳴らした。
甲高い音が山々に反響し、霧が裂けるように揺れた。
その瞬間、二千の俘囚が一斉に雄叫びを上げた。
それは人の声ではなかった。
山が震え、鳥が飛び立ち、貞盛の背筋に冷たいものが走った。
貞盛は息を呑んだ。
恐怖と畏敬が入り混じり、胸の奥が震えた。
「……これほどの“異形”を、我が軍に……」
良文は微笑した。
「異形であろうと、正義の刃は正義だ。貞盛よ、これを率いて南へ下れ。
将門の乱は、もはや東国の災い。おぬしが討たねば、誰が討つ。」
貞盛は深く息を吸い、胸の奥に渦巻く恐怖を押し殺した。
夜が明けると同時に、多賀城の北門が開かれた。
俘囚軍団二千が、黒い波のように門外へと流れ出す。
その先頭に立つのは、狼の毛皮をまとった俘囚の長。
彼が掲げた槍の先には、白い狼の頭骨が吊るされていた。
良文が馬上から声を張り上げる。
「――発兵ッ!!」
その号令は、山々に反響し、谷を渡り、遠くの森まで震わせた。
その言葉と同時に、俘囚たちが一斉に雄叫びを上げた。
それは、人の声ではなかった。
獣の咆哮とも、山の鳴動ともつかぬ、古代の魂が呼び覚まされたような声だった。
次の瞬間、俘囚軍団の太鼓が鳴り響く。
ドン……ドドン……ドン……
その音は、ただの軍鼓ではなかった。
山の神を呼び、死者の魂を揺り起こす呪術の太鼓であった。
太鼓に合わせ、俘囚たちが足を踏み鳴らす。
大地が揺れ、鳥が飛び立ち、霧が裂ける。
貞盛はその光景を見つめながら、背筋に冷たいものが走るのを感じた。
――これは、ただの軍ではない。
――“東国の怨念”そのものが動き出したのだ。
良文が貞盛に向かって言う。
「行け、貞盛。この二千は、おぬしの軍だ。将門の乱を鎮めるため、東国のため、そして、天のために。」
貞盛は深く頷いた。
「承知した。」
太鼓が再び鳴り響き、陸奥俘囚軍団は、一斉に南へ向かって動き出した。
その足音は、まるで大地そのものが歩き出したかのようであった。
太鼓が鳴るたび、彼らの胸板に刻まれた文様が、まるで蠢く蛇のように揺れた。
陸奥の峰々は険しく、吹き付ける風は刃が身を裂くように鋭い。
一本の刃のごとく細い阿武隈の尾根道には残雪が積もり、兵らは谷底の闇を覗き込みながら進んだ。
白河関を越えると、風の匂いが変わった。
遠くに那須岳の白峰が見え、兵らはようやく南下の実感を得た。
下野国に入り、那須郡、塩谷郡の枯れ草の海を、軍勢が波のように進む。
北の乾いた空気が消え、南の湿り気が軍勢を包む。
湿地の匂いが濃くなり、鬼怒川に沿って南下する
湿原には川霧が白い海のように広がり、軍勢の鎧に纏わりついた。
湿地の底からは、古い怨霊が息を吹き返すかのような妖気が漂う。
貞盛の軍勢は、十四日ほどの行軍中に、その違いを足裏で感じながら南へ進んだ。
――新皇を称した朝敵・平将門を討つため、陸奥より鎮守府将軍の大軍が来る。
陸奥を発った二千の俘囚軍団は、白河関を越える頃には、すでに噂となって東国を駆け巡っていた。その噂は、下野・上野・常陸の豪族、在地武士たちの胸を震わせた。
「朝敵を討つなら、我らも加わらねば名が廃る」
「将門の乱は、東国の秩序を乱す」
「鎮守将軍が動いた以上、もはや潮目は決した」
次々と兵が集まり、俘囚軍団の後方に列を成した。
その数――四千。
槍の穂先が、朝日に照らされて波のように揺れる。
俘囚の太鼓に合わせ、下野の武士たちが法螺貝を吹き、鬨の声を上げる。
貞盛は軍の先頭に立ちながら、胸の奥に奇妙な感覚を覚えていた。
その背後で、秀郷が馬を寄せて言う。
「貞盛。これほどの大軍は久しく見ぬ。将門も、まさか北からこれほどの軍が迫るとは思うまい。」
貞盛は頷いた。
「……将門は強い。だが孤立した。東国の“総意”が牙を剥いたのだ。」
四千の軍勢は、地鳴りのような足音を響かせながら、南へ、南へと進んだ。




