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将門炎舞記 下巻  作者: 浮島太郎
第14章 偽りの神座

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心翼の離反

陣を離れ、夜の闇に包まれた道を歩きながら、

国豊は馬の手綱を握る手に、力が入らなくなっていくのを感じていた。


焚き火の光も、兵の声も、すべてが遠く、

まるで自分だけが別の世界へ押し出されたかのようだった。


やがて、人気のない林の縁に馬を止めると、

国豊は静かに空を仰いだ。


星がひとつ、鋭く光っていた。

将門の瞳に宿っていた、あの星神の光と同じ色だった。


国豊は、胸の奥から絞り出すように呟いた。


「……私は、将門公の隣に立つ資格が、無かったのであろうか。」


その声は震え、夜気に溶けていった。


「忠平卿の恩を忘れぬこと。主上に背かぬこと。それが、我の“道理”であり、

私が私であるための唯一の柱であり続けた。」


国豊は拳を握りしめた。

その指先が白くなるほど強く。


「だが……その“道理”が、貴方を孤独に追いやったのなら……

私は……私は、何を守ってきたのだ。」


胸の奥が、痛みで裂けるようだった。


「将門公……

幼き日より、私にとって貴方は、兄であり、友であり……

そして、光であった。」


国豊は目を閉じた。

涙がひとすじ、頬を伝った。


「それでも……

それでも私は、偽りの神座なる“新皇”に侍ることなどできぬ。

諸卿に賜りし恩顧を捨て去り、主上に背き、国を二分するなど……

どうしても許されぬ。」


夜風が吹き、木々がざわめいた。

そのざわめきは、まるで国豊の胸の痛みを代弁するかのようだった。


「滝姫様の予言どおり……

我は、貴方と袂を分かつ運命だったのであろう。」


国豊は、馬の首をそっと撫でた。

その手は、震えていた。


「将門公……

貴方が選んだ道の先に、我がその道を阻む者として立ちはだかるやも知れぬ。

非情にも、貴方を討つ先鋒に立つことになるやも知れぬ。」


その呪は、誰に届くこともなく、ただ夜空へと消えていった。


国豊は、静かに馬を進めた。

その背中は、将門の陣を離れた時よりも、はるかに重く、はるかに孤独だった。



国豊が静かに陣を離れていく姿を、兵たちは遠巻きに見つめていた。


やがて、ひとりの若い兵が、隣の古参兵に小声で囁いた。


「……国豊様は、行ってしまわれたのか。」


古参兵は、深く息を吐いた。


「将門公の“理”を支えていたのは、あの御方だった。

あの方が去るということは……坂東の風向きが変わるということだ。」


焚き火の炎が揺れ、古参兵の横顔に不吉な影を落とした。


「国豊様が止められぬなら……もう誰にも止められまい。」


兵たちの間に、言葉にできぬ不安が広がっていく。


「将門公は……どこへ向かわれるのだろう。」


その問いに答えられる者は、誰ひとりとしていなかった。


ただ、国豊の去った後の陣には、これまで感じたことのない冷たい風が吹き始めていた。

それはまるで、坂東全土に広がる“破滅の前兆”のようであった。



国豊が陣を去った後、

玄茂はひとり、焚き火の前に立ち尽くしていた。


炎は揺れ、その光が玄茂の横顔を照らしたり、闇に沈めたりする。

だが、彼の胸の内は、炎とは逆に冷え切っていた。


「……国豊様が、去られた。」


その事実を口にした瞬間、玄茂の胸に、鋭い痛みが走った。


「将門公の“ことわり”を支えていた柱が……折れてしまった。」


玄茂は拳を握りしめた。

その指先が白くなるほど強く。


「これで……将門公を止める者が、誰もいなくなる。」


焚き火がぱちりと弾けた。

その音が、玄茂の焦燥をさらに煽る。


「興世王のような軽薄な者が、将門公の耳元で囁くようになる……

それがどれほど危ういことか……なぜ、誰も分からぬのだ。」


玄茂は、深く息を吐いた。

その吐息は、夜気に白く溶けていく。


「国豊様……あなたが去れば、将門公は“義”ではなく“影”に引かれてしまう。」


玄茂は、焚き火の炎を見つめた。

炎の奥に、将門の姿が揺れて見える。


「将門公……あなたは強い。されど、いかなる硬鉄といえども、火に焼かれ、穿たれ、幾度も叩かれてこそ、真の剛剣となるもの。

“王”を諫める勇臣を欠けば、王は闇に堕ち、まつりごとはたちまち崩れ去りましょう。」


玄茂の声は震えていた。


「国豊様は……あなたの“心の片翼”であったのだ。」


その言葉を口にした瞬間、玄茂は初めて、自分の中にある“恐れ”を自覚した。


「このままでは……坂東は……将門公は……滅びる。」


玄茂は、焚き火の前で静かに膝をついた。

その姿は、祈る者のようでもあり、絶望に沈む者のようでもあった。


「どうか……あの御方の光が、消えませぬように。」


その声は、夜空へと吸い込まれてしまった。

返ってくるものは、風のざわめきだけだった。


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