分水嶺の語らい
国豊の胸の奥には、玄茂の言葉がまだ燻っていた。
だが、それ以上に「将門公御自身の声を聞かねばならぬ」という焦燥が、国豊を突き動かしていた。
将門の天幕に通されると、そこには静謐な空気を纏い、焚き火の影を背に佇む将門の姿があった。戦場の覇気とは異なる、どこか遠いものを見つめるような静けさ。
将門は、国豊の気配を察し、ゆっくりと振り返った。
左眼の重瞳が、星の光を宿したように揺れていた。
「……来てくれたか、国豊。」
その声には、懐かしさと、言葉にできぬ孤独が滲んでいた。
国豊は一歩、将門に近づいた。
胸の奥に押し込めていた思いが、堰を切ったように溢れ出す。
「将門公……あのような“偽りの神座”を、なぜ……なぜ、受け入れられたのです。」
声は震えていた。
怒りではない。失いたくないという切実な想いが滲んでいた。
「私は……貴方がどれほど“義”を重んじ、どれほど民を思ってこられたか、誰よりも知っております。
だからこそ……貴方の本心を、聞かせていただきたいのです。」
将門の表情が、わずかに揺れた。
国豊の言葉が、深く届いた証だった。
「国豊……お前は、昔から変わらぬな。」
将門は、ふっと微笑んだ。
その微笑みは、幼き日の記憶を呼び起こすような、どこか懐かしいものだった。
「賀茂忠行に説教していたあの日のままだ。
“現世でも常世でも、道真公は道理を踏まえた御方であるはずでしょう”、だったか。
――あの時の顔のままだ。」
国豊の胸に、懐かしさと痛みが同時に込み上げた。
だが、その痛みは、将門の孤独に触れた瞬間に生まれる、深い共鳴でもあった。
将門は、国豊の目をまっすぐに見つめた。
「俺に箴言を申してくれるのは、お前だけだ。これからも、俺の隣で支えてほしい。
……これが、俺の本心だ。」
国豊は言葉を失った。
その“本心”が、あまりに重く、あまりに痛かった。
将門は、ふと視線を遠くへ向けた。
左目の重瞳には、焚き火の光ではない、どこか“別の光”が揺れていた。
「主上の光が届かぬこの東国に、光を行き渡らせる者が必要だ。」
その声は静かだった。
だが、静けさの奥に、揺るぎない決意が潜んでいた。
「皇統を継ぐ我が、主上の分光となり、坂東の民を照らすのだ。」
国豊は、胸の奥が崩れ落ちるような感覚に襲われた。
将門の言葉は、もはや“道理”ではなく、“宿命”のように響いていた。
「……では、将門公は……“新皇”を名乗り、国を二分するおつもりなのですか。」
と、問いながら、
失われていくものをどうにかして掴みとどめたい、という痛みに国豊の声が震える。
将門は、静かに、しかし揺るぎなく言った。
「民のためだ。俺は、民を照らす光となる。」
その言葉は、まるで自らに言い聞かせる祈りのようでもあった。
「――そのために敢えて、逆心の汚名を纏うことを厭わぬ。」
その瞬間、国豊は悟った。
将門はもう、戻れぬ道へ踏み出している。
国豊は、胸の奥の痛みを押し殺し、最後の言葉を絞り出した。
「滝姫様は……私にいくつかの予言をお与えくださりました。」
将門の眉がわずかに動いた。
国豊は続けた。
「――いずれ、私は将門公と袂を分かつことになるのだ、と。」
その言葉は、国豊自身の胸を裂く刃のようだった。
「どうか……どうか、お許しください。」
国豊は深く頭を下げ、静かに将門のもとを去った。
その背が闇に溶けていくのを見送りながら、将門はしばらく動けなかった。
焚き火の音だけが、二人の間に残された沈黙を埋めていた。
やがて、誰にも聞こえぬほどの声で、将門は呟いた。
「……国豊。
お前だけには……離れて行ってほしくなかった。」
その声は、戦場の覇気とは似ても似つかぬほど弱く、胸の奥から漏れ出た嘆きのようだった。
将門は、その指先が白くなるほど強く、拳を握りしめた。
焚き火の影が揺れ、将門の孤独をさらに深く照らし出した。
その姿は、王ではなく、ただひとりの孤独な男であった。
しかし――その夜を最後に、二人の言葉が交わることは、もう無かった。




