無血の征討
将門は、常陸国府を陥落させたのち、わずか二十日で再び軍旅を整え、灰燼の匂いがまだ空に残るうちに下野、上野の両国府へと馬首を向けた。
二つの国府を続けざまに制圧するという暴挙とも映る進軍の道すがら、在地の豪族、伴類が次々と軍門に下り、軍勢は見る間に膨れ上がり、ついには数千を数えるに至った。
将門が下野に向かった理由は二つあった。
ひとつは、常陸国府に進軍したのと同じ、国府に対する示威と受領の追放。
いまひとつは、むしろこちらが主ではあるが、藤原秀郷の討伐である。
捕縛した維幾の口から、
「国豊と玄明への襲撃は、下野の藤原秀郷に助力を得て行った。」
と吐かせたとき、将門の胸にまず走ったのは、怒号ではなく、冷徹な確信であった。
玄明については、常陸国府が以前より追っていたことを将門も承知していた。
しかも、国巣衆を煽動して不動倉を襲撃した主犯である以上、維幾が玄明の引き渡しを将門に求めたのは、道理として理解できる。
しかし、常陸国の大掾である国豊への襲撃となると話は別であった。
それは壬生氏の強欲が引き起こした暴挙にほかならないが、壬生氏の背後には、秀郷の軍事力が控えていた。
そしてその企ては、ひいては将門という脅威に対抗するための布石でもあった。
その意図が、維幾の言葉の裏に透けて見えた。
将門は直感した。
「これは、俺への宣戦布告だ。」
秀郷は、将門の勢力を削ぎ、坂東の利を奪うために動いたのだ。
背後に秀郷の影があると知れた以上、これは将門の覇業において避けて通れぬ戦いであった。
だが、秀郷という外なる敵の陰に、もう一つの火種が潜んでいる。
――平貞盛である。
坂東平氏嫡流を標榜する貞盛は、反将門勢力を束ね得る唯一の求心力であった。
秀郷はこの価値を見逃さず、貞盛を旗頭として擁立し、常陸国内の勢力図を塗り替えようと画策した。
貞盛を後見することで、将門に対抗する勢力を糾合し、常陸国内の利権を掌中に収めようと目論んでいたのである。
そればかりか、貞盛はいつ上洛して讒言を弄するか知れぬ、目障りな存在でもあった。
もし彼が都に上り、悪意ある言葉を朝廷に吹き込めば、将門の行動はたちまち歪められた形で伝わり、坂東の実情は覆い隠されてしまうだろう。
ゆえに、貞盛は将門にとって放置できぬ、厄介な“内なる敵”であった。
敗走した貞盛は、為憲とともに残党を率いて奈河久慈方面に潜伏している。
そしてその背後では、坂東で唯一、将門に対抗し得る軍事力を擁する藤原秀郷が暗躍していることは、想像に難くない。
将門の眼差しは、すでに下野の藤原秀郷の討伐に向けられていた。
「いまの勢いのまま、対抗勢力となるであろう秀郷を討ち果たさねばならぬ。」
と、固く決意したのである。
十二月十一日――
冬の空は錆びが浮いた鉄のような色に沈み、下野国府の周囲には、将門軍の旗が林立していた。
冷たい風が吹き抜けるたび、黒地に朱の紋がはためき、まるで坂東そのものが新たな主を迎える準備をしているかのようだった。
国府の楼上に立った下野守・大中臣完行は、その光景を見た瞬間、膝の奥が震えた。
将門の軍勢は数こそ多くはない。だが、兵の一人ひとりが、敗北を知らぬ獣のような眼をしている。
そして、その中央に駿馬を進める将門のそそり立つような偉丈夫――
漆黒の大鎧に白布を纏い、威厳を湛えた静謐な佇まいは、地上に降り立った武神と見間違う神聖さを放ち、その雄姿は、地方豪族の類と一線を画していた。
朝廷の神祇を司ってきた大中臣の血が囁く。
「これは、抗すべき相手ではない。」
完行は悟った。戦わずして降伏するほかに道はなかった。
完行は国府の門をすべて開き、地面に膝を突いた。
凍てつく土の冷たさが、降伏した者の現実を突きつける。
彼は名簿と印鑰――国の印璽と正倉の鍵――を両手で捧げ持ち、深く頭を垂れた。
「下野守、大中臣完行、これを以て降伏の意を示す。どうか民に慈悲を。」
将門は馬上から静かに頷いた。
「民を苦しめる者を退けるために来た。其方の命、奪うつもりはない」
その声は、冷たくも温かかった。
完行は胸の奥で、奇妙な安堵を覚えながら縄についた。
四日後。
将門軍は雪を踏みしめながら上野国府へと進軍した。
上野介・藤原尚範は、下野の例を聞いていた。
だが、実際に将門の軍勢を目にした瞬間、彼もまた完行と同じ震えに襲われた。
将門の威容は、もはや「反乱の徒」のそれではない。
民の怨嗟を受け止め、新たな秩序をもたらす君主のようであった。
尚範は戦を放棄し、門を開いた。
彼もまた地に膝をつき、名簿と印鑰を差し出した。
「上野介・藤原尚範、これを以て降伏いたす。」
将門は静かに受け取った。
左眼の重瞳には星の輝きが宿り、そこには勝者の傲慢はなかった。
ただ、まつろわぬ民の救済という揺るぎない意志だけが宿っていた。
二国の国府を掌握した将門は、中央から派遣された国司を追放し、重税と圧政に苦しむ民を解き放った。
彼が排したのは朝廷そのものではない。
民を搾り取るために坂東へ送り込まれた「代理人」だけである。
――この地を、この地の民たちの手に取り戻す。
その理念は、兵にも民にも、確かな熱をもって伝わっていった。
そして、将門は上野国府に堂々と入城した。
四方の門を固く閉ざし、兵を配置し、城内の防備を徹底させる。
その動きは、単なる占拠ではない。
ここを拠点に、秀郷一門を討ち、坂東の秩序を根底から作り替えるための布石だった。
夜、国府の大広間に灯された松明の炎が、将門の横顔を照らした。
その影は、かつての豪族の枠を超え、まるで新たな王のように揺らめいていた。
「藤原秀郷を討つ。我が覇道が成らねば、民は再び苦しむ――ここからが正念場だ。」
将門の言葉に、郎党たちは深く頷いた。
――坂東に、新たな国が生まれようとしている。
その場にいた誰もが、歴史が動く音を聞いた気がした。




