王道の黎明
かつて将門が本拠とした豊田営所は、二年前の夏、良兼・貞盛らの夜襲によって一夜にして灰燼と化した。
同じ夜、常羽御厩も煙滅した。
鎮守府将軍であった良将が奥羽交易の要衝として整え、軍馬だけでなく、絹や麻の織物、馬具、武具といった鉄製品の出荷を担った流通経済の心の臓――その鼓動すら、良兼の怨火が容赦なく奪い去ったのである。
父・良将が築いた王城は、炎の奔流に呑まれ、礎石すら赤く焼けただれ、ついには穢れた地となり果て遺棄されるに至った。
失われたものは大きかった。
だが将門は、ただ嘆きに沈むだけではなかった。
敗走し、湿原を彷徨っていたところを、広江の案内を根城とする“まつろわぬ民”に扶けられながら、要害・鎌輪宿に前線を置き、ついに、筑波嶺で平良兼の軍を打ち破った。将門は、その間に病を癒し、奇襲戦を続けながら、猿島郡石井郷に新たな政務と流通の中心を築き上げていた。
――新たなる王城と称するに相応しい石井営所
騎馬数千を収容できる広大な敷地。
南側には広大な長洲牧(馬の放牧地)が広がる。
三方を沼沢に囲まれるが、利根川を渡河するのに最適な浅瀬もある。
千の兵を従えて常陸国府を陥落させた将門軍は、国璽を奪い、常陸介・維幾を捕虜とし、そしてこの石井営所へと凱旋したのであった。
沿道には、数万もの群衆が、将門軍の戦勝に熱狂し、喜びの声を上げて迎えたのであった。
――石井営所・主殿。
大広間には一族郎党が集い、常陸国府陥落を祝う宴が華やかに催された。
だが、酒の香りに満ちた座敷の片隅には、沈鬱な影を落とす重臣たちの姿も少なくない。
正倉を含む国衙を焦土と化したこと。
多くの官人を討ち、国璽を奪い、常陸介を捕虜として連行したこと。
それらは、いかなる理由があろうとも、朝廷から見れば紛れもない叛逆である。
宴の熱がゆるやかに満ち、酔いが冬の冷気とまじり合って座敷に沈むころ、将門の側近となっていた興世王が静かに口を開いた。
「国府を焼き、印綬まで奪ってしまった以上、一国を奪ったのと同じ。言い逃れできることはなく、罪に問われましょう。」
興世王は徐に立ち上がり、居並ぶ重臣たちに向けて言葉を発した。
「だが……常陸一国を奪っただけでも、二国、三国を奪うのと罪の重さは同じなのだから、いっそのこと坂東を統べる覇王となり、朝廷の出方を窺い、交渉する機会を探るしかありません。」
その声音には、恐れと不安の色がある。
――朝廷は、どう動くのか。
――こちらは、どう応じるべきか。
その言葉が落ちた瞬間、重臣たちの心に、その問いが冷たい刃のように静かに刺さった。
酒宴のざわめきの奥で、将門の重瞳に、ふたたび黒い焔が立ちのぼった。
「無位無官の我が、“坂東を統べる覇王”とは、随分と面白い。」
将門はゆっくりと立ち上がり、余燼の匂いが漂う東の方角へと目を向けた。
「常陸介は、その強欲さの果てに、民の怨火によって滅びの道へと誘われた。」
その声の響きは、その場に居る者たちに神々しさすら感じさせた。
「受領どもの強欲さの故に虐げられ、全てを奪われた“まつろわぬ民”の怒りの凄まじきことを知り、坂東中の国司、受領は、さぞかし肝を冷やしていることであろうよ。」
将門は振り返り、集まった郎党を見渡す。
その眼差しは、ひとりひとりの胸奥に火を灯すようであった。
「聞け! 我が一族郎党よ!
我は病み、良兼に敗れて湿原を彷徨い、まつろわぬ民に救われた。
――我は良兼に対し、そして民は受領に対し、各々、復讐することを欲し、力を補い合った。」
その言は、敗北の記憶を恥じるものではなく、むしろ力の源として語られた。
「常陸国府は墜ちた! そして……良兼も死んだ。
果たして、積年の怨火は晴れ、怒りは鎮まった。
まつろわぬ民の復讐は成就し、民は再び、血の涙を流すことも、怨火に焼かれることも無い。」
将門はそこで言葉を切り、深く息を吸った。
その表情には、勝利の昂揚ではなく、さらに重い現実を見据える影があった。
「だが、これで坂東の全ての民が救われたわけではない。
怨火と怒り――真紅の血を流し、紅蓮の炎に身を焼かれる儘に置かれる者は、未だ多い。
受領どもの強欲が、民の怨と怒を生んだ。
その怨火は力を得てこそ、報復の刃を振るうことができるのだ。
――我らがなすべきことは明らかであろう。」
将門の声は、もはや一武将のそれではなかった。
坂東の地に満ちる怨と怒を背負い、天津神からの独立を堅持せんとした星神のようであった。
「我は民のために、民の守護者として立つ者、武威を以て坂東を統べる者である。
常陸一国では済まされぬ……まさに今、苦しみの中にある民たちに力を与えよう。
――この坂東の地に、我が王道楽土を打ち立てんとする者は、我に付き従え。」
その瞬間、夜風がざわめき、まるで大地の霊気が呼応したかのように感じられた。
将門の言葉は星神の宣言のように響き、心打たれぬ者は、ただの一人も居なかった。
誰も声こそ上げぬけれど、皆の胸に宿る火は、もはや消えることはなかった。




