嫡流の孤心
その年の秋、
常陸国府は、「平将門が軍旅を催す」との報を受けるや、国内の諸郡へ急使を走らせた。
常陸介は国内の在地官人や諸族に檄文を飛ばし、一族郎党を率いて参陣し、国府防衛の任に加わるよう命じたのである。
しかし、その命に応じる者は少なかった。
将門はすでに幾多の戦で勝利を重ね、幾度もの紛争を調停し、その武威と信望は坂東一円に響き渡っていた。諸族はその強さを恐れ、あるいは密かに将門へ心を寄せ、みな参陣をためらった。
彼らは精強な郎党や騎馬武者を常陸介に差し出すことを惜しみ、代わって農民や下人ら伴類をかき集めて国府へ送り込んだ。
こうして集められた兵の多くは、槍や弓を手にしたこともない歩兵であり、戦場を駆ける歴戦の武者ではなかった。
もっとも、郡司や豪族たちの判断にも理由はあった。
彼らは長年、坂東の争乱を見聞きしてきた者たちである。
堅固な国衙を背に守る戦であれば、寄せ手を防ぐのに歩兵でも十分と考えたのであろう。
その日、
冬の気配が、真壁館に忍び寄っていた。
真壁の屋形で療養を続けていた貞盛の許に、雨に濡れた使者が駆け込んできた。
「貞盛殿!常陸国府より急使にございます!」
使者は膝をつき、一通の檄文を差し出した。
貞盛は虚ろな目のまま、無言でそれを開く。
そこには維幾、為憲ら国府勢の連署があった。
「追討対象である藤原玄明の引き渡しを将門が拒否した。よって、下野国の平将門を朝廷に仇成す賊の一味と看做し、討伐軍を編成する。直ちに参陣せよ。」
――そう書かれていた。
貞盛は長い間、その文を見つめていた。
そして呟いた。
「……この我に、一体、どうしろというのだ……」
誰に向けた言葉でもなく、ただ心の底から漏れ出た呟きのようであった。
討伐軍に加われば、あの将門と再び戦わねばならない。
いや、それ以前に、貞盛自身、朝廷から追討対象と名指しされる「逆賊」の身である。
国府の官軍に加わったところで、後ろから刺されぬ保障など無い。
かといって参戦しなければ、坂東平氏嫡流の名声さえも失いかねない。
――どちらを選んでも地獄だった。
常陸国府では、維幾と為憲が兵を集めている。
将門が静かに次の一手を見据えている。
常陸国全土が巨大な渦へと吸い込まれつつあった。
しかし、その中心にいるべき貞盛だけが、立ち尽くしていた。
“我こそが桓武平氏嫡流である”という誇りだけを胸に抱き、
進むこともできず、退くこともできず。
戦うこともできず、逃げることもできず。
――貞盛は空虚な目で、この檄文を見つめ続けていた。
翌朝、
真壁館には、貞盛に従う一族郎党、そして嵯峨源氏の武者たちが集まっていた。
庭には朝霧が立ちこめ、軒先から滴る露が静寂を際立たせている。
誰も口を開かなかった。
皆がただ、上座に座る貞盛の顔を見つめていた。
その視線には、期待があった。
そして、不安もあった。
そして何より、棟梁の決断に従う覚悟があった。
貞盛はそれを痛いほど感じていた。
――沈黙が長く続いた。
やがて貞盛はゆっくりと立ち上がった。
貞盛は居並ぶ郎党たちを見渡し、静かに言った。
「将門を討つ。」
その声は決して大きくなかった。
だが居並ぶ武者たちの胸を震わせるには十分だった。
貞盛は続けた。
「坂東に二人の棟梁は要らぬ。
――平将門か、平貞盛か、いずれか勝者のみが名を残す。」
その言葉が終わるや否や、座中から鬨の声が湧き起こった。
武者たちは次々に立ち上がり、拳を振り上げた。
長く鬱屈していた空気が一気に吹き飛ぶ。
その熱狂を前にして、貞盛の胸にも久しく忘れていた感覚が蘇っていた。
戦っては敗走し、流浪した。幾度も屈辱を味わい、恐怖に慄き、この身を縮めてきた。
だが、それでもなお、自分を棟梁と認め、命を預けようとする者たちが此処にいる。
貞盛は高らかに命じた。
「出陣の支度をせよ! 此度こそ将門と決着をつける!」
武者たちは一斉に立ち上がり、再び、歓声が轟いた。
静まり返っていた真壁館は、忽ち出陣の熱気に包まれた。
平将門――武神の如き偉丈夫、幾度、戦っても勝つことができない従兄。
貞盛は、身体の震えが止まらなかった。
だが、この期に及んでは、もう退くことはできない。




