対立の火蓋
常陸国府、
正庁の大広間に、常陸介・藤原維幾の怒号が響き渡った。
「なにィ……!? 郡衙を焼かれ、官物を奪われ、賊を取り逃したと申すか……!」
維幾の顔は、怒りで真っ赤に染まっていた。
机上には、河内・行方の両郡から届いた報告書が乱雑に積まれている。
官人たちは震え上がり、互いに目を合わせることすらできない。
「は、はい……河内も行方も……賊の首魁は藤原玄明と……」
維幾は拳を握りしめ、机を叩いた。
「玄明ッ……! あの乱人め、まだ生きておったか!」
怒りは収まらず、維幾は側に控えていた嫡子を呼びつけた。
「為憲ッ!」
「父上、ここに」
維幾は、怒りを押し殺した声で命じた。
「為憲! 壬生氏を呼べ! 今すぐにだ!」
その声に、正庁の空気がびくりと震えた。
だが、誰も動かない。
沈黙が、じわりと広がる。
維幾の眉が吊り上がる。
「……聞こえなんだか! 壬生氏を呼べと言ったのだ!」
史生のひとりが、まるで死刑台へ歩むかのような足取りで一歩前に出た。
「み、壬生氏は……」
言葉が続かない。
顔は青ざめ、唇は震えている。
維幾の視線が突き刺さる。
「何だ。申せ!」
史生は喉を鳴らし、ようやく声を絞り出した。
「み、壬生氏は……行方郡衙の焼亡の折……消息不明にござりまする……」
その場にいた官人たちは、一斉に目を伏せた。
――“消息不明”、
それが何を意味するか、誰もが理解していた。
維幾の顔から血の気が引いた。
「……ば、馬鹿な。壬生氏は……あの壬生氏が……?」
史生は、さらに深く頭を垂れた。
「焼け落ちた郡衙より、壬生氏と断ずる遺骸は……見つかっておりませぬ。
ただ……生還した者も、また……」
言葉を濁す。
維幾は、ふらりと扇を落とした。
「……では……誰も……」
その呟きは、誰に向けたものでもなかった。
為憲は、父の肩がわずかに震えているのを見た。
官人たちは、誰一人として口を開かない。
壬生氏の不在は、
――常陸国府が、もはや “前には進めない” ことを意味していた。
維幾の喉から、かすれた声が漏れた。
「……成宗……義宗……どこへ行った……」
その声は、怒りでも命令でもなく、ただ、闇に向かって迷子のように放たれた問いであった。
官人たちは、その哀れな声を聞きながらも、誰も慰めることも、助けることもできなかった。
ただ、沈黙だけが、正庁を満たしていた。
維幾は、暫くのあいだ項垂れていたが、
――やがて、静かに為憲に命じた。
「疾く、玄明を討て。国府に仇名す大罪人を、赦すわけにはいかぬ。」
為憲は深く頭を下げた。
「承知致しました。」
だが、その直後、別の使者が駆け込んだ。
「申し上げます! 玄明は……下総の平将門殿の許に逃げ込んだ模様!」
維幾の目が大きく見開かれた。
「なに……? 将門だと……?」
今度は、冷ややかな警戒へと変わった。
維幾はすぐに筆を取り、書状をしたためる。
――藤原玄明を引き渡せ。
――叛逆者を庇うならば、将門もまた同罪と看做す。
その書状は、急ぎ鎌輪館へと送られた。
鎌輪館に、常陸国府からの急使が駆け込んだ。
「平将門殿に――常陸介・藤原維幾殿より書状!」
将門は涼しい顔で受け取り、封を切る。
書状には、玄明を“叛逆者”“大罪人”と断じ、生死を問わず引き渡せと記されていた。
読み終えた将門は、ふっと鼻で笑った。
「……なるほど。庇えば、この我も同罪と看做すか。
――常陸介は、この我を、一体、何者であると心得ておるのか。」
玄明が身構えた。
「将門殿……すまねぇ。俺のせいで……」
将門は手を上げて制した。
「案ずるな、玄明殿。我が与党を売るような真似はせぬ」
そして筆を取り、さらりと返書を書く。
――藤原玄明はすでに鎌輪を逃れた。
――わが領内に兵を進め詮索するつもりならば、矛をもって対峙する。
書き終えると、将門は使者に言った。
「これを為憲殿に見せよ」
常陸介の嫡子・為憲は、返書を読むなり顔を青ざめさせた。
「こ、これは……将門殿は……我を脅すつもりか……?」
鎌輪の周囲の台地には、国巣の民が何十、何百と立ち並び、
弩や石槍を携え、無言で為憲を睨みつけていた。
その眼は、山の影のように冷たく、湿原の闇のように深い。
家臣が囁いた。
「為憲さま……これ以上は……御身が危のうございます」
為憲は唇を噛んだ。
――父上に、どう申し開きすれば……
――だが、これ以上、告げる口上など……無い……
為憲は馬を返し、すごすごと国府へ戻るしかなかった。
鎌輪館。
書状を囲み、将門・玄明・玄茂の三人が座していた。
将門は静かに言った。
「さて……このままで済ますわけにはいかぬな」
玄明は拳を握りしめる。
「維幾の野郎……俺を悪党呼ばわりしやがって……!」
将門は微笑んだ。
「我は、調停の主宰者として、少しばかり自信がある。
まずは、その前に――国豊を襲撃したのは誰か、聞かせてもらわねばな。
そして、玄明殿の娘を死に至らしめたのは誰か、とな。」
玄明は立ち上がった。
「将門殿……何でも言ってくれ! 俺は何だってやるさ!」
玄茂もまた、深く頭を下げた。
「私も……この身を賭してお仕え致します。」
将門は二人を見渡し、静かに頷いた。
「よい。まず、こちらから維幾に調停を持ち掛けてみようではないか。
己が過ちを責められて、如何なる申し開きを尽くすか……見極めてみたいものだ。」
こうして、常陸国府と将門の対立は、いよいよ避けられぬものとなっていく。




