まつろわぬ民、集う
将門の陣には、静かだが確かな変化の気配が満ちていた。
“常陸の悪党”――藤原玄明が与党に加わったという報せは、瞬く間に湿原の隅々へと染み渡っていった。
将門の“七つ影”に、新たな獣影が加わったことで、鎌輪宿にもこれまでにない緊張と期待が同時に生まれていた。
だが、その変化はまだ始まりにすぎなかった。
玄明が与党となった翌朝、彼は将門のもとへ一つの願いを携えて現れた。
その表情には、昨夜の決意とは別の、どこか神妙な影が差していた。
「将門殿、会っていただきたい者がいる。妙なる謀略の才を持つ男だ。」
将門は、玄明の言葉の奥にただならぬ気配を感じ取り、静かに頷いた。
「汝の申し出である。会わぬ理由はない。その妙なる才とは、いかなる者か。」
玄明は一拍置き、低く答えた。
「……奈河久慈の藤氏、玄茂。俺の従兄にして、武官として国府の内情を探ってきた者です。そして――行方の郡衙を襲撃した首魁です。」
その瞬間、将門の背後で控えていた家子たちの間にざわめきが走った。
だが将門は、微動だにせず玄明を見据えた。
「汝の従兄……藤原玄茂。
なるほど、奈河久慈の藤氏……獣影は一つではなかったというわけか。」
こうして、玄明の背後に潜んでいたもう一つの獣――
藤原玄茂が、姿を現し始める。
玄明が与党となった翌日の昼下がり。
湿原の靄が這うような、低く重い気配が鎌輪宿に近づいてきた。
それは、筑波嶺と水郷に生きる先住者たち特有の匂いを伴っていた。
先頭に立つのは、筑波嶺の山間に棲まう「佐伯民」。
肩には獣皮を纏い、背には弩。その歩みは静かだが、踏みしめる台地がわずかに震えるほどの重厚さを持っていた。
続くのは、行方の湿原に潜む「夜刀神」の末裔たち。
湿地の葦を編んだ外套、腰には石を投げるための革袋がいくつも吊られている。
「夜刀」とは、「谷戸」「谷津」と呼ばれる低湿地や湧水地のことである。
身体は蛇で、頭には角が生え、もしこれを見た者がいれば、その家は破滅し、子孫が絶える――そう忌まれてきた“葦原に棲む蛇神”の末裔であると伝わる。
――総勢五百余。
山の影と湖沼の靄が、そのまま形を成して歩いてくるような異様さ、しかしどこか神々しさすら漂わせる人の群れであった。
将門の家子たちは、思わず息を呑んだ。
「これが……まつろわぬ民……」
“まつろわぬ”とは、服さず、従わず、である。
彼らは、自由を奪われることを拒み、豊かな自然の恵みの中で狩猟採集と独自の信仰を守る、誇り高き先住民族であった。
ざわめきが広がる中、その行列の中央から、一人の男が歩み出た。
武官の衣を纏い、痩身ながら芯の通った立ち姿。
その眼光は、山の民にも劣らぬ鋭さを宿していた。
玄明が一歩前に出る。
「将門殿。この者こそ、藤原玄茂。俺の従兄です。」
玄茂は深く頭を垂れた。
「常陸国府の雑掌、藤原玄茂にございます。
此の地で一族の玄明、そして佐伯民と夜刀神の末裔とともに立ちました。
信太北を焼かれた仇として、行方郡衙を焼き討ちし、不動倉を略奪しました。」
将門は玄茂を見据えたまま、しばし沈黙した。
その沈黙は、玄茂を試すようでもあり、また、彼の背後に控える五百の民の力を測るようでもあった。
やがて将門は、ゆっくりと口を開いた。
「……玄明の従兄。
“まつろわぬ民”を率いるなど、並の胆力ではできぬことよ。」
玄茂は静かに顔を上げた。
「国府に仕えながら、国司の腐敗を見続けてきました。
壬生氏の暴虐を前に、ただ黙して従うことは、もはや人の道ではございませぬ。
将門公。どうか、この五百の土着の民にも庇護をお与えください。
彼らは、輩のためならば命を惜しみませぬ。」
将門は玄茂の眼をまっすぐに見返した。
玄茂の眼には恐れも、虚勢もなく、ただ揺るぎない意志だけがあった。
「己の罪状を、これほどまでに清々しく語る者も滅多におるまい……
なんとも、爽やかな男よ!」
「……よかろう。玄茂、そして国巣の民たちよ。
今日より我が与党となれ。そなたらの心と技が必要だ。」
その瞬間、五百の民の列が、風に揺れる葦のようにざわりと震えた。
それは歓声ではなく、長く抑えられてきた者たちが、初めて自らの存在を認められたときに漏らす、安堵の溜息のようなざわめきであった。
玄明は、胸の奥が熱くなるのを感じた。
こうして、将門の庇護下に置かれた国巣衆…まつろわぬ民…は千を超えた。
坂東の地には、太古より一柱の星神の名が語り継がれている。
まつろわぬ星の神の伝説――天津甕星。
太古の国譲りの時代、天津神が地上の支配権を定めんとする中にあって、
この星神だけは、ただ一柱、最後の最後まで膝を屈さなかった。
天津神として生まれながら、天津神に背き、国津神の旗印として立つ。
坂東の荒ぶる大地を拠点に、迫り来る強大な支配者へ抗い続けた“反逆の星”。
“まつろわぬ”とは、服さず、従わず、屈せず。
その光は夜空に燃え、戦の烽火となって坂東の民の胸を震わせたという。
天津神の軍勢が押し寄せるたび、甕星はただ一閃の輝きで迎え撃つ。
星の尾が走れば、山は裂け、河は逆巻き、戦場は白昼のごとく照らし出された。
やがて国譲りは成り、天津神の世が訪れる。
だが、坂東の地には、今も語られる。
――最後まで抗い抜いた星の神がいた、と。
――その光は、まつろわぬ者たちの誇りであった、と。
国豊は、鎌輪に集った“まつろわぬ民”とともに、只今、この伝説を目の当たりにしているような心持ちであった。




