呪詛の掌
国府の討伐隊が湿原に到着した。
松明の列が揺れ、槍の穂先が闇の中で鈍く光る。
だが、その数はわずか五十。
対する玄明の兵は三百を超えていた。
戦力差は、誰の目にも明らかだった。
先頭に立つ隊長は、鎧を着込み、必死に威厳を保とうとしていた。
しかし、玄明が“ずん、ずん、ずん”と歩み寄るたび、隊長の顔から血の気が引いていく。
松明の光に照らされた玄明の影は巨大に伸び、まるで闇から現れた鬼のようだった。
隊長は震えた。
「く、来るな……来るなッ……!」
玄明は笑った。
その笑みは、もはや人のものではなかった。
「俺を殺したくば――千の兵を連れてこい。」
玄明は槍も刀も持たず、ただ素手で歩いてくる。
その異様さが、討伐隊の心を一気に折った。
隊長は叫んだ。
「弓を構えろ! 射て! 射てぇッ!」
矢が放たれる。
だが玄明は止まらない。
分厚い胴丸が矢を弾き、玄明は蚊に刺された程度の反応しかしなかった。
隊長は腰を抜かした。
「ひ……ひぃ……!」
玄明は隊長の前に立つと、ゆっくりと右手を上げた。
そして――
平手打ち。
バチィィィィン!!
隊長の顔が歪み、歯が飛び、血が散った。
玄明は無言で、もう一発。
バチィィィィン!!
隊長は奇声を上げた。
「あばッ! あぼぉぉぉッ!」
玄明は淡々と、虫でも叩くように平手を繰り返す。
バチィン、バチィン、バチィン――。
隊長は地面に転がり、泡を吹きながら痙攣した。
玄明は胸倉を掴み、片手で軽々と持ち上げた。
隊長の足が宙に浮く。
玄明の目が、闇の中で妖しく光った。
「……ひ、ふ、み、よ……」
隊長の顔が恐怖で引きつる。
玄明は低く、呪術の言葉を紡ぎ始めた。
「いなむやこと……ふるべゆらゆらとふるべ……」
国巣衆がざわめく。
「お、おい……玄明様が……!」
「呪だ……呪術だ……!」
玄明の声は、地の底から響くようだった。
隊長は泣き叫ぶ。
「や、やめろォォォッ!! 助けてくれッ!!」
玄明は冷たく笑った。
「ふふ……これで、お前は死してなお救われることはない。」
隊長の目が見開かれる。
「常世で永遠に苦しむがよい。」
玄明の掌から、黒い影のようなものが隊長の胸へ吸い込まれていく。
隊長は絶叫した。
「ぎゃあああああああああああッ!!」
その声は夜の山に響き渡り、鳥が一斉に飛び立った。
隊長の身体は力を失い、玄明の手からずるりと落ちた。
地面に転がった隊長の目は、恐怖のまま開きっぱなしだった。
玄明は静かに言った。
「……呪術を侮るな。俺は“民の怨念”を背負っている。」
国府の兵たちは震え上がり、次々と武器を捨てて逃げ出した。
国巣衆が叫ぶ。
「玄明様ァァァァ!!」
「ヒャッハァァァァ!!」
その夜、河内郡衙と不動倉は、玄明の手中に陥ちた。
――“影”は本当に存在する。
玄明が隊長に呪を叩き込んだ瞬間、国豊の背筋に冷たいものが走った。
「――ふるべゆらゆらとふるべ……」
その声は、ただの呪文ではなかった。
国豊の目には、玄明の掌から黒い“影”が立ち上り、隊長の胸に吸い込まれていくのが見えた。
影は生き物のように蠢き、隊長の魂を引き裂くかのようだった。
国豊は震えた。
物部の祭祀で見た“影の胎動”。
あの黒い渦と同じものが、玄明の掌から溢れていた。
国豊は確信した。
――玄明もまた、影を操る者だ。
そして同じ頃、玄明の河内郡衙襲撃に呼応するかのように、行方郡でも不動倉が土着の民たちによって襲撃された。
行方の不動倉を襲ったのは、筑波山中を根城とする「佐伯の民」と呼ばれる国巣の族。
一族五百を率いて不動倉を破り、そのまま香取海沿岸の湿原へ姿を消したという。
この襲撃で行方の郡衙は焼き払われ、壬生氏の兄弟は正庁の奥で揃って焼死した――。




