玄明、民の旗を掲ぐ
湿原の闇を抜け、葦のざわめきが遠のくと、ようやく固い地面が足裏に戻ってきた。
わずかに盛り上がった島状の台地に、焚き火が赤々と燃えている。
その周囲には、国巣の民や漂泊の者たちが、影のように腰を下ろしていた。
焚き火の向こうに、ひときわ大きな影があった。
――藤原玄明。
厳つい肩、乱れた髪、無精髭。
だがその目だけは、深い闇の底に確かな生命の光を宿していた。
秀郷に襲撃され、やはりこの湿原に逃れ、国巣の民たちと合流した。
玄明はゆっくりと立ち上がり、焚き火の前に進み出た。
その声は、山の闇を震わせるように響いた。
「俺はな……この国巣の民とともに、水郷の開拓を率いた者のひとりだった。」
国巣衆が息を呑む。
「国府が税を徴することにも、最初は理解があった。
開拓には金がいる。国を治めるにも金がいる。それは分かる。」
玄明の声が低く沈む。
玄明は国豊を見据えた。
「国豊。おまえは“官人として善を尽くした”つもりなのだろう。」
その声は湿原の闇を震わせた。
「だが――奴らは私腹を肥やすために、民からすべてを奪っていく。」
焚き火が爆ぜ、火の粉が舞った。
「見たはずだ。維幾らが民をどう扱ってきたか。」
再び火の粉が舞い、玄明の横顔を照らす。
「税を納めない? 当たり前だ。
あいつらは、その日の食い物にさえ困り、飢えている。」
玄明の声は低く、だが焚き火の熱よりも熱かった。
「納めるものがなければ、男は労役に、女は奴隷に、子どもは売られる。」
国巣衆の中から、怒りの唸り声が漏れた。
「奴らは思ってやがる。“土着の民には何をしてもいい”とな。」
玄明は拳を握りしめた。
「俺はな、“民と生きる場所”をつくる。それだけだ。」
その言葉は、国豊の胸を深く貫いた。
そのとき――
焚き火の背後の闇がざわりと揺れた。
葦の影から、次々と人影が現れる。
狩猟の弓を持つ者、鍬を握る者、粗末な槍を携えた者。
彼らは皆、玄明の“家族”であり、民の軍であった。
玄明は焚き火越しに国豊を見た。
「だから俺は――行き場を失った民とともに暴れる。」
その言葉は、国豊の胸を撃った。
「悪鬼として暴れまくり、国府を追い出してやる。」
国巣衆がどっと沸いた。
怒号、歓声、武器を叩く音が闇に響く。
玄明は続けた。
「国豊。おまえは、“どちら側の人間”か……、まあ、答えずとも良い。」
焚き火越しに、玄明はわずかに笑った。
そして立ち上がり、ただ一言。
「将門公の許へ、我らを連れていけ。」
その声に応じ、湿原の闇が震えた。
国豊は気づいた。
自分は今、“民のために戦う男”に出会っている。
粗暴で、野蛮で、だが誰よりも“民の側に立つ男”。
国豊は清名を抱きしめながら、玄明の背中を見つめた。
そして、ゆっくりと滝姫の言葉を思い返した。
「運命は示しています。
情熱と殺気の象徴、『廉貞星』の男との出会いを。」
――あの日、滝姫は、こう付け加えた。
「貴方様は、その御方とともに、破軍星なる父様の揺光に向かわれましょう。
だけど……その前後に、何らかの厄災が、国豊様の身に及ぶやも知れませぬ……。」
――これが、自分が受け入れるべき運命だ。
そして、自分の中の何かが静かに変わり始めていた。
玄明はゆっくりと右手を上げる。
「……行くぞ」
玄明が言い放つ。
「維幾が奪った我らの全てを、我らの手で奪い返す。」
その瞬間、国巣衆の目が一斉に光った。
国巣衆が一斉に立ち上がり、武器を手に、闇の中へと駆け出した。
こうして――玄明一派による国府の倉庫襲撃が始まった。




