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将門炎舞記 下巻  作者: 浮島太郎
第10章 葦間に起つ者たち

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沈みゆく大地を越えて

夜の水郷は、まるで先の知れぬ海原のようであった。

信太の地を離れた国豊たちは、わずかな月明かりを頼りに、湿原へと踏み入った。

葦は人の背丈を越え、風が吹くたび、ざわりと波のように揺れる。

背後では、なお浮島の炎が赤く揺らめいていた。

風に乗って焦げた木の匂いが漂い、国豊の胸に抱かれた清名は、不安げに身を縮めて小さく泣き声を漏らした。


信太郡の南端を越えると、地面は急に柔らかくなり、足を踏み出すたびに泥が吸い付くように沈んだ。

「……ここから先は、道などないと思え。」

兼遠が低く言った。

その言葉どおり、湿地帯には道らしい道はなかった。

ただ、葦と泥と水が、果てしなく続いているだけである。

郎党の一人が、葦に隠れた深みに足を取られ、泥に膝まで沈んだ。

「くっ……! 抜けぬ!」

二人がかりで引き上げると、泥はずるりと音を立てて裂け、黒い水が滲み出た。

底なしの泥は、まるで生き物のように彼らを呑み込もうとしていた。


広大な湿原には、目に見えぬ罠がいくつも潜んでいた。

国豊が踏み出した足が、突然、深みに沈んだ。

「国豊様!」

成家が駆け寄り、腕を掴んで引き上げる。

泥は冷たく、まるで死人の手のように絡みついて離れなかった。

国豊の胸の中で、清名が怯えたように身をよじり、か細い声で泣いた。

国豊はその背をそっと撫でながら、静かに言った。

「……だからこそ、追手も容易には踏み込めぬ。」


葦原の切れ間から、時折、香取海の湖面がのぞいた。

月が雲間から顔を出すと、湖面は銀の帯となって揺れ、遠くに台地の森影が浮かび上がる。

やがて、葦原の奥から水音が聞こえ始めた。

香取海に注ぐ河川は、当時は今よりもはるかに蛇行し、湿原の中で幾度も枝分かれしていた。そのひとつ、名もない水路が行く手を遮っていた。

幅は二十歩ほど。

水深は浅いが、蛇行する細流の急な落ち込みの底は泥で、踏み込めばたちまち足を取られる。


香取海の西岸に近づくと、湿原の中にぽつりぽつりと“島状の台地”が現れ始める。

これらは古代の砂州や隆起地で、周囲よりわずかに高く、村落が点在していた。

その影のひとつが、将門の本拠・鎌輪のある高まりであった。

だが、そこへ至るには、まだ幾筋もの水路を越えねばならない。

「……ここは、歩いては渡れぬ。」

兼遠が呟いたそのとき、葦の影から、音もなく影が現れた。

獣皮をまとい、背に弩を負った男たちが、葦の間から次々と姿を現した。

国豊たちは気づかぬうちに、男たちの気配に包囲されていた。


国豊が身構えたそのとき、葦の影から一人の男が歩み出た。

「大掾殿……」

低い声が湿原に響く。

「わしを覚えているか、大掾殿」

「……汝は、負名の棟梁……」

いつか負名の集落で会った、荒篁あらたけである。

「負名の棟梁が、何故、此処に居る…」

荒篁は、それには答えず、ふっと笑った。

「利に聡い者どもに追われるとはな。

――頭が、おまえに会いたいと言っている。ついて来い。」


国巣の民は、葦原の奥から奇妙な舟を引き出してきた。

底が平たく、葦の上を滑るように進む“橇舟そりぶね”である。

女子供と荷を舟に乗せると、国巣の男たちは縄を肩にかけ、湿原を滑るように曳き始めた。

舟は泥に沈むことなく、葦の上をすべるように進む。

国豊は驚きに目を見張った。

「こんな舟があるとは……。」

「湿原に生きる者の知恵よ。」

荒篁が答えた。


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