沈みゆく大地を越えて
夜の水郷は、まるで先の知れぬ海原のようであった。
信太の地を離れた国豊たちは、わずかな月明かりを頼りに、湿原へと踏み入った。
葦は人の背丈を越え、風が吹くたび、ざわりと波のように揺れる。
背後では、なお浮島の炎が赤く揺らめいていた。
風に乗って焦げた木の匂いが漂い、国豊の胸に抱かれた清名は、不安げに身を縮めて小さく泣き声を漏らした。
信太郡の南端を越えると、地面は急に柔らかくなり、足を踏み出すたびに泥が吸い付くように沈んだ。
「……ここから先は、道などないと思え。」
兼遠が低く言った。
その言葉どおり、湿地帯には道らしい道はなかった。
ただ、葦と泥と水が、果てしなく続いているだけである。
郎党の一人が、葦に隠れた深みに足を取られ、泥に膝まで沈んだ。
「くっ……! 抜けぬ!」
二人がかりで引き上げると、泥はずるりと音を立てて裂け、黒い水が滲み出た。
底なしの泥は、まるで生き物のように彼らを呑み込もうとしていた。
広大な湿原には、目に見えぬ罠がいくつも潜んでいた。
国豊が踏み出した足が、突然、深みに沈んだ。
「国豊様!」
成家が駆け寄り、腕を掴んで引き上げる。
泥は冷たく、まるで死人の手のように絡みついて離れなかった。
国豊の胸の中で、清名が怯えたように身をよじり、か細い声で泣いた。
国豊はその背をそっと撫でながら、静かに言った。
「……だからこそ、追手も容易には踏み込めぬ。」
葦原の切れ間から、時折、香取海の湖面がのぞいた。
月が雲間から顔を出すと、湖面は銀の帯となって揺れ、遠くに台地の森影が浮かび上がる。
やがて、葦原の奥から水音が聞こえ始めた。
香取海に注ぐ河川は、当時は今よりもはるかに蛇行し、湿原の中で幾度も枝分かれしていた。そのひとつ、名もない水路が行く手を遮っていた。
幅は二十歩ほど。
水深は浅いが、蛇行する細流の急な落ち込みの底は泥で、踏み込めばたちまち足を取られる。
香取海の西岸に近づくと、湿原の中にぽつりぽつりと“島状の台地”が現れ始める。
これらは古代の砂州や隆起地で、周囲よりわずかに高く、村落が点在していた。
その影のひとつが、将門の本拠・鎌輪のある高まりであった。
だが、そこへ至るには、まだ幾筋もの水路を越えねばならない。
「……ここは、歩いては渡れぬ。」
兼遠が呟いたそのとき、葦の影から、音もなく影が現れた。
獣皮をまとい、背に弩を負った男たちが、葦の間から次々と姿を現した。
国豊たちは気づかぬうちに、男たちの気配に包囲されていた。
国豊が身構えたそのとき、葦の影から一人の男が歩み出た。
「大掾殿……」
低い声が湿原に響く。
「わしを覚えているか、大掾殿」
「……汝は、負名の棟梁……」
いつか負名の集落で会った、荒篁である。
「負名の棟梁が、何故、此処に居る…」
荒篁は、それには答えず、ふっと笑った。
「利に聡い者どもに追われるとはな。
――頭が、おまえに会いたいと言っている。ついて来い。」
国巣の民は、葦原の奥から奇妙な舟を引き出してきた。
底が平たく、葦の上を滑るように進む“橇舟”である。
女子供と荷を舟に乗せると、国巣の男たちは縄を肩にかけ、湿原を滑るように曳き始めた。
舟は泥に沈むことなく、葦の上をすべるように進む。
国豊は驚きに目を見張った。
「こんな舟があるとは……。」
「湿原に生きる者の知恵よ。」
荒篁が答えた。




