信濃路、追撃の風
唐沢山を発った翌朝、
平貞盛は、冬の刃が走る東山道を、わずかな郎党とともに京へ向けて疾駆した。
凍てつく風が頬を裂き、馬の吐く白い息が、朝の闇に溶けていく。
(何としても将門追討の官符を手に入れる……まずは都へ辿り着かねばならぬ。)
その思いが、馬の脚をさらに速くした。
――将門は、必ず追ってくる。
上洛の道は将門の追手との勝負、命懸けの疾走であった。
「貞盛、都へ上り讒訴を企てる」
その報せが届くや、将門は精鋭の黒騎馬百騎を率いて、東山道を風のように駆け上った。貞盛一行が信濃国へ入る頃には、すでに背後に将門が迫っていた。
その速度、“まさに呂布の如し”と後に記されるほどであった。
「貞盛殿! 将門の黒騎馬百余騎、こちらへ向かっております!」
「……来たか。」
貞盛は、馬上で静かに息を吐いた。
そのとき、ふと脳裏に浮かんだ顔があった。
――他田真樹
朝廷に馬を納める牧(勅旨牧)を管理する信濃の名家、小県郡の郡司・他田氏の若き棟梁。
京の都で、貞盛は朝廷の馬を管理する馬寮の武官として、真樹は良馬を納める牧の跡取りとして、よく顔を合わせた。元服したばかりの二人は年も近く、相性も良かった。
「いつか貞盛様は堂上に上がる。俺は信濃随一の軍馬を育てる。」
――互いの未来を語り合った、若き日の夕暮れを思い出す。
貞盛は、近習に静かに命じた。
「汝は他田氏の許へ走り助勢を乞うのだ。望み薄きことは承知しておる。されど縁とは、時に命を繋ぐものだ。」
その言には、死地にあってなお、道を求める者の気迫が潜んでいた。
将門の追撃は刻一刻と迫る。
信濃の山風は鋭く、雪はまだ溶けきらず、逃げ場はどこにもない。
「黒騎馬が、もうすぐそこまで――!」
「もはや、ここまでか……。」
貞盛が覚悟を決めかけたそのとき、遠くから馬の嘶き、そして蹄音が響いた。
五十を超える騎馬が、雪煙を上げて駆けてくる。
その先頭で、若武者が馬上から声を張り上げた。
「貞盛殿、無事か!他田真樹だ!」
貞盛の胸に、熱いものが込み上げた。
「真樹……!」
真樹は馬を寄せ、貞盛の肩を力強く掴んだ。
「将門はすぐそこまで来ている、あとは任せろ。貴殿は逃がれねばならぬ。」
「しかし……!」
「此処で貞盛殿が討たれれば、坂東は将門に呑まれる。
――この先で渡河し、都へ上れ。我らが時間を稼ぐ。」
その瞳は、少年の頃と変わらぬ真っ直ぐさを宿していた。
真樹は、貞盛の背格好に似た郎党を呼び寄せた。
「お前、貞盛殿の鎧兜を着ろ。馬も取り替えろ。平貞盛に成り済ますのだ。」
郎党は迷わず頷いた。
真樹は貞盛に向き直る。
「貞盛殿は、今のうちに為実牧へ逃れよ。
あの牧は御料(天皇直轄地)、勅旨牧。すでに整えさせてある。
将門如きが踏み込むことは許されぬ聖域。」
「しかし、真樹……お前は……!」
「俺はこの地を守るのが務めだ。貞盛殿は坂東平氏の嫡流、兄者は、生きて都に上れ。」
その言葉は、まるで別れを悟ったようであった。
貞盛は、震える声で言った。
「……済まぬ。」
真樹は笑った。
承平八年(938年)二月
信濃国小県郡、信濃国分寺付近、
千曲川を挟んで、将門の黒騎馬百騎と、他田氏の郎党五十余騎が激突した。
雪解け水が流れる川面に、矢が雨のように降り注ぐ。
真樹は先頭で馬を駆り、将門軍へ突撃した。
「貞盛殿を……守れぇぇッ!」
――だが、将門の軍は強かった。
黒騎馬は風のように駆け、騎射は正確に敵兵を射抜いた。
真樹の眉間に深々と矢が刺さった。真樹はそのまま川へと落ちた。
その後、他田氏の騎馬は次々と倒れ、戦いは将門の圧勝に終わった。
貞盛は、その間に女乃神山(現在の霧ヶ峰)山麓の為実牧まで逃れて命を繋いだ。
貞盛は、縁によって命を拾った。
為実牧の厩舎奥深くに潜み、身体を休めようと横になる。
真樹の声が、耳に残っている。
「――兄者は、生きて都に上れ。」
貞盛は、拳を握りしめた。
「真樹……我は、必ず其方の仇を、将門を……討つ!」
その誓いは、凍てつく信濃の夜に静かに刻まれた。
翌朝、貞盛は再び都へ向けて馬を駆り、凍える空の下を疾走した。
「将門記」は、千曲川で敗れた貞盛の逃避行について「天力あり、風のように通り抜け、雲のように隠れた」、「呂布のような将門の矢から逃れ、山中に隠れ延びた」と伝える。




