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将門炎舞記 下巻  作者: 浮島太郎
第8章 運命の水鏡

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信濃路、追撃の風

唐沢山を発った翌朝、

平貞盛は、冬の刃が走る東山道を、わずかな郎党とともに京へ向けて疾駆した。

凍てつく風が頬を裂き、馬の吐く白い息が、朝の闇に溶けていく。

(何としても将門追討の官符を手に入れる……まずは都へ辿り着かねばならぬ。)

その思いが、馬の脚をさらに速くした。

――将門は、必ず追ってくる。

上洛の道は将門の追手との勝負、命懸けの疾走であった。


「貞盛、都へ上り讒訴ざんそを企てる」

その報せが届くや、将門は精鋭の黒騎馬百騎を率いて、東山道を風のように駆け上った。貞盛一行が信濃国へ入る頃には、すでに背後に将門が迫っていた。

その速度、“まさに呂布の如し”と後に記されるほどであった。

「貞盛殿! 将門の黒騎馬百余騎、こちらへ向かっております!」

「……来たか。」

貞盛は、馬上で静かに息を吐いた。


そのとき、ふと脳裏に浮かんだ顔があった。

――他田真樹おさだのまき

朝廷に馬を納める牧(勅旨牧)を管理する信濃の名家、小県郡ちいさがたぐんの郡司・他田氏の若き棟梁。

京の都で、貞盛は朝廷の馬を管理する馬寮の武官として、真樹は良馬を納める牧の跡取りとして、よく顔を合わせた。元服したばかりの二人は年も近く、相性も良かった。

「いつか貞盛様は堂上に上がる。俺は信濃随一の軍馬を育てる。」

――互いの未来を語り合った、若き日の夕暮れを思い出す。


貞盛は、近習に静かに命じた。

「汝は他田氏の許へ走り助勢を乞うのだ。望み薄きことは承知しておる。されどえにしとは、時に命を繋ぐものだ。」

その言には、死地にあってなお、道を求める者の気迫が潜んでいた。


将門の追撃は刻一刻と迫る。

信濃の山風は鋭く、雪はまだ溶けきらず、逃げ場はどこにもない。

「黒騎馬が、もうすぐそこまで――!」

「もはや、ここまでか……。」

貞盛が覚悟を決めかけたそのとき、遠くから馬の嘶き、そして蹄音が響いた。

五十を超える騎馬が、雪煙を上げて駆けてくる。

その先頭で、若武者が馬上から声を張り上げた。

「貞盛殿、無事か!他田真樹だ!」

貞盛の胸に、熱いものが込み上げた。

「真樹……!」

真樹は馬を寄せ、貞盛の肩を力強く掴んだ。

「将門はすぐそこまで来ている、あとは任せろ。貴殿は逃がれねばならぬ。」

「しかし……!」

「此処で貞盛殿が討たれれば、坂東は将門に呑まれる。

――この先で渡河し、都へ上れ。我らが時間を稼ぐ。」

その瞳は、少年の頃と変わらぬ真っ直ぐさを宿していた。


真樹は、貞盛の背格好に似た郎党を呼び寄せた。

「お前、貞盛殿の鎧兜を着ろ。馬も取り替えろ。平貞盛に成り済ますのだ。」

郎党は迷わず頷いた。

真樹は貞盛に向き直る。

「貞盛殿は、今のうちに為実牧ためざねのまきへ逃れよ。

あの牧は御料(天皇直轄地)、勅旨牧ちょくしのまき。すでに整えさせてある。

将門如きが踏み込むことは許されぬ聖域。」

「しかし、真樹……お前は……!」

「俺はこの地を守るのが務めだ。貞盛殿は坂東平氏の嫡流、兄者は、生きて都に上れ。」

その言葉は、まるで別れを悟ったようであった。

貞盛は、震える声で言った。

「……済まぬ。」

真樹は笑った。


承平八年(938年)二月

信濃国小県郡、信濃国分寺付近、

千曲川を挟んで、将門の黒騎馬百騎と、他田氏の郎党五十余騎が激突した。

雪解け水が流れる川面に、矢が雨のように降り注ぐ。

真樹は先頭で馬を駆り、将門軍へ突撃した。

「貞盛殿を……守れぇぇッ!」

――だが、将門の軍は強かった。

黒騎馬は風のように駆け、騎射は正確に敵兵を射抜いた。

真樹の眉間に深々と矢が刺さった。真樹はそのまま川へと落ちた。

その後、他田氏の騎馬は次々と倒れ、戦いは将門の圧勝に終わった。

貞盛は、その間に女乃神山めのかみやま(現在の霧ヶ峰)山麓の為実牧まで逃れて命を繋いだ。


貞盛は、えにしによって命を拾った。

為実牧ためざねのまきの厩舎奥深くに潜み、身体を休めようと横になる。

真樹の声が、耳に残っている。

「――兄者は、生きて都に上れ。」

貞盛は、拳を握りしめた。

「真樹……我は、必ず其方の仇を、将門を……討つ!」

その誓いは、凍てつく信濃の夜に静かに刻まれた。


翌朝、貞盛は再び都へ向けて馬を駆り、凍える空の下を疾走した。


「将門記」は、千曲川で敗れた貞盛の逃避行について「天力あり、風のように通り抜け、雲のように隠れた」、「呂布りょふのような将門の矢から逃れ、山中に隠れ延びた」と伝える。



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