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将門炎舞記 下巻  作者: 浮島太郎
第8章 運命の水鏡

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常世の刻、影の覚醒

冬の夜は、まるで大地そのものが息を潜め、闇を吐き出しているかのようであった。

火は小さく、頼りなく、まるでこの地の闇に怯えているかのようであった。

風が止むと、周囲の湿地は息を潜め、遠くの水脈がかすかに鳴る。

それは水音とも、呻きともつかぬ響きで、夜の底から這い上がってくる。

将門は眠れなかった。

戦の疲れが骨に染みているはずなのに、胸の奥に、何かがざわついている。


坂東の地は、古来より“物の怪の通い路”として畏れられてきた。

河川と湖沼と湿地が複雑に絡み合う広大な水郷地帯は、夜ともなれば水と闇が溶け合って、現世うつしよ常世とこよの境すら消える。

北の夜空に霞む北辰と七曜の光は、葦原の影を長く引き伸ばし、その影が人のものか、あるいは幻魔の揺らぎか、誰にも判じ難かった。


陰陽道では、北辰は万象を司る天の軸、七曜は人の運命を照らす灯とされる。

だが、この地ではその光すら、闇に呑まれ、ねじれ、異界の影を呼び覚ます。

河川の氾濫は死をもたらし、また肥沃な土と水運の利は生をもたらす。

だが同時に、彼らは知っていた。

星の光が影を生み、影がまた別の影を呼び、そのどれが人で、どれが魔か、判別のつかぬ夜がある。

湖沼の水底には古き王の魂が沈み、葦原には名も知らぬ妖魔・物の怪の類が潜み、夜の風は、時に人の声とも獣の声ともつかぬ囁きを運ぶ。

人の世と常世が触れ合い、時に混じり合う場所――陰陽師たちは、この地を「境地さかち」と呼んだ。

今宵もまた、闇は深く、静かに満ちていた。

まるで、何かが目覚めるのを待つかのように。


その“境地”の闇のただ中に、将門は、独り焚き火の前に座していた。

炭火の赤は、まるで将門の心を映す鏡のように揺れ、その揺らぎは、時折、北辰の光と共鳴するかのように強まった。

すでに炎を失い、黒ずんだ炭の表面には細かな亀裂が走り、その隙間から漏れる赤は、まるで奥に沈む怒りや焦りが、外へ滲み出ているかのようであった。

将門は、その赤い脈動を見つめながら、胸の奥で同じように脈打つ“何か”を感じていた。

それは、幻魔、物の怪の類か、この地に眠る古墳の王か、あるいは古き武者か、いずれかの魂魄が、自らの内に入り込んでくるような感覚であった。


――呼ばれている。

そんな感覚が、ふと背筋を撫でた。

その瞬間、背に冷たいものが触れた。

冬の風ではない。もっと湿り、もっと生々しい“何か”が、そっと指先でなぞるように。

将門は振り返った。

だが、誰もいない。


焚き火の向こう、闇の底に、ひとつの影が浮かんでいた。

影は地面から剥がれたように揺れ、伸び、形を変えていく。

北辰の光がその影を照らすと、影はまるで星の軸に引かれるように震えた。

七曜の光が揺らぐたび、影の輪郭は歪み、別の影が重なり、また離れる。

――これは、人の影ではない。

将門の影が、風もないのに揺れていた。


やがて、それは人の形を取り始める。

影は、将門の胸の奥に沈む感情――怒り、焦り、孤独、そして野心――を吸い込み、ゆっくりと膨らんでいく。

――将門は太刀を引き寄せた。

影は、ただそこに立っていた。

将門の左目――重瞳の奥にだけ、はっきりと映り込んで。

「……またか。俺の影よ、何を求める。」

影は答えない。

ただ、焚き火の赤を吸い込み、黒を濃くしていく。


そのとき、影が――声を持った。

低く、遠く、しかし確かに耳に届く声で。

「――まさかど。」

将門は目を見開いた。

「――まさかど。」

それは呼び声であり、呪であり、誘いであった。

影は囁く。

『お前こそ正義だ』

焚き火が大きく揺れた。

影の輪郭が、まるで王冠のように広がる。

『将門こそ正義だ……将門こそ坂東の王だ……お前もそう思うだろう……?』

影は、すでに将門の背後に立ち、肩に手を置こうとしている。

影が、将門の心に入り込もうとしていた。

その囁きは、甘く、危うく、抗いがたい。

「……やめろ」

将門は呟いた。

だが、その声は弱かった。


怨霊、祖霊、地霊――

この地に積み重なった無数の“死者の気”が、将門の影を通して形を得ていた。

陰陽道では、地霊は土地に染みついた“古き力”とされる。

だが、この坂東の地霊は、ただの土地神ではない。

戦に倒れた者、流された者、名もなく葦原に沈んだ者――

その怨念と祈りが幾重にも重なり、ひとつの“影”となって現れる。


影は、将門の重瞳ちょうどうを覗き込んだ。

『……汝は、我らの器となる』

その声は、ひとつではなかった。

無数の声が重なり、響き、将門の胸を震わせた。

――将門はもう、影の道を歩き始めている。

誰にも止められぬ。


焚き火が、ぱち、と音を立てた。

影は、まるでその音に応じるように、将門の背へと溶け込んでいった。

冬の野に、再び深い静寂が落ちる。

だが、その静寂の底には、確かに“何か”がいた。



夜が明けた。

だが、その朝の光は、夜の闇を払いきれぬほど弱々しかった。

冬の湿地に漂う白いもやが、まるで常世の名残を地上に引き留めているかのようである。

焚き火の灰は冷え、周囲の地面には夜露が濃く降りている。

その焚き火の跡に、将門が座していた。

背を丸めるでもなく、眠るでもなく、ただ静かに、動かずに。

「兄上?」

将頼(御厨三郎)が声をかけた。

将門はゆっくりと顔を上げた。

その瞬間、将頼は息を呑んだ。

将門の左目――重瞳の奥に、黒い焔が揺れていた。

将頼は思わず後ずさった。


将門は、遠くを見るように、あるいは誰かの声を聞くように、静かに目を細めた。

「……貞盛が…京を目指している……」

立ち上がった将門の影は、朝日を受けてもなお、揺れていた。

風もないのに、影だけが波打ち、形を変え、まるで別の生き物のように蠢いていた。

「あ、兄上……その、影が……」

将頼の声は震えていた。


将門は立ち上がった。

その動きは静かで、しかしどこか人ならざる気配を帯びていた。

将門の影が、朝の光に逆らうように濃くなった。

「行くぞ。……貞盛を追うのだ!」

その声は、将門のようでありながら、別の者の声が重なっているようにも聞こえた。


三郎将頼は悟った――将門は、現世と常世の境を歩む存在となったのである。


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