坂東の声、将門に集う
――筑波山(弓袋峠)
戦いを終えた将門は、兵たちの前に立ち、勝利を告げた。
兵たちは歓声を上げ、鬨の声が冬空に響く。
たが、勝利したはずなのに、将門の胸は晴れなかった。
風は刃のように冷たく、空は低く、大地は血の匂いを吸い込んで重く沈む。
「……寒いな……」
吐いた息が白く凍り、その白さの中に黒い靄が混じって見えた。
だが、その黒い影はすぐに消えた。
将門は、血の匂いが残る戦場を跡に、妙な違和感を覚えた。
「……何だ、この寒気は……」
その瞬間、将門の足元の薄い影が、ふわっと揺れた。
動いてもないのに、影が勝手に揺れ、ぐにゃりと伸び、裂ける。
地面に落ちた影が、まるで生きた墨絵のように蠢く。
将門は太刀を構えたが、誰もいない。
――己が映っているだけの黒い影を斬ることはできなかった。
「……自分の影を相手に、俺は一体、何をやっているのだ……」
将門は眉をひそめた。
――鎌輪館
弓袋峠での勝利を収めた将門軍は、鎌輪へ凱旋した。
坂東の民は、この若き武将の帰還を、熱狂をもって迎えた。
だが、坂東の乱れは、良兼ひとりの問題ではない。
この頃、新たに受領として赴任した貴族・皇族と、在地官人・土着の豪族との間で、諍いが頻発していた。
新任の受領は、強欲さを露わに威光と格式を振りかざし、在地の慣習などを無視して検注や徴税を強行する。
一方、坂東の豪族たちは、
「坂東では、これまでの慣習や仕来りを尊重すべし。」
と反発し、両者はしばしば武力を伴う衝突に至った。
そのたびに、豪族たちは将門のもとへ使者を送り、調停を求めた。
将門は、争う両者を前に座し、静かに言葉を発した。
「坂東は、坂東の民の地。互いに血を流しては、誰も得をせぬ。」
その言葉は、坂東八国に広く響き渡り、将門の名声と信望は、いっそう高まっていった。
天慶二年(939年)二月。
新たに赴任した武蔵権守・興世王と、その介・源経基が、足立郡司・武蔵武芝と激しく対立していた。事の発端は、興世王らがこれまでの慣例を無視し、武芝の管轄する足立郡へ不当な立ち入り検査を強行したことであった。しかも、検査と称して民の米穀を略奪した。
「これは、国司の権限を逸脱しておる!」
武芝の怒りは頂点に達し、両者は一触即発となった。
事態を聞いた将門は、すぐに武蔵へ向かった。
「興世王殿、武芝殿。この争い、ここで収めねばならぬ。」
将門は両者を座に着かせ、調停を試みた。
興世王は、将門の威光を恐れて従う姿勢を見せたが、
──問題は源経基であった。
略奪した米穀を返そうとせず、むしろ懐に入れたまま居直った。
「これは検査の正当な徴収、返すなど以ての外。」
その傲慢な態度に、武芝の兵たちが激昂した。
「許せぬ! 逃すな!」
瞬く間に、武芝勢が源経基の陣営を包囲した。
驚いた経基は、夜陰に紛れて逃亡し、そのまま京へ上ってしまった。
京に逃げ帰った源経基は、自らの不正が露見することを恐れ、
逆に将門・興世王・武芝の三名を「謀叛の徒」と訴えた。
「将門は坂東を私し、興世王と武芝を抱き込み、朝廷に背こうとしております!」
太政大臣・藤原忠平卿は、
――“困ったものだ…”という表情ながらも、事の真偽を確かめるため、使者を東国へ派遣した。
将門は報を聞き、深く息を吐いた。
(……経基め。己の悪事を隠すために、我らを謀叛人に仕立てるか。)
将門はすぐに行動した。
常陸・下総・下野・武蔵・上野の五か国の国府に調書の作成を依頼し、「謀叛は事実無根」との証明書を添えて、上申書を京へ送った。
その内容は、源経基の不正を余すところなく暴くものであった。
朝廷はこれを受け、源経基を誣告の罪で罰することとし、逆に将門を叙位任官して、坂東の私戦を抑える役目を与えようと議した。
――坂東の秩序を保つ者、
将門は、朝廷からもその役割を期待される存在となったのである。
事態収拾のため、朝廷は百済王貞連を新たな受領(守)として武蔵へ派遣した。
興世王と百済王貞連の妻は姉妹であり、つまりこの両者は義兄弟の間柄であった。
しかし、その近しさこそが、かえって災いとなった。
貞連は、
「身内であるが故にこそ許し難し。」
と言わんばかりに、興世王の不手際と強欲を厳しく責め立て、国庁の会議にも列席させず、興世王は日を追うごとに国庁での立場を失い、ついには国庁に姿を見せることすら叶わなくなった。
両者はついに和を失い、興世王は職務を放擲して任地を離れ、落ち延びるようにして将門のもとへ赴いた。
「将門殿……どうか、この身をお救いくだされ……」
その声には、かつて国司として振るった威儀も誇りもなく、ただ追われる者の哀しみと疲弊だけが滲んでいた。
将門は、静かに興世王を迎え入れた。
――やがて興世王は、将門の側近として仕えることとなる。
坂東の乱れは、もはや国司すら頼るべき者を失い、将門を最後の拠り所とするかの様相を呈していた。
(……この地を統べる者が、必要だ。)
将門の左眼には、政への覚悟と欲求が宿り始めていた。




