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将門炎舞記 下巻  作者: 浮島太郎
第6章 弓袋峠の戦い

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【3.雪嶺の狂気】


貞盛の胸の奥で、“何か”がうごめいた。

(……まただ……)

耳の奥を針で突かれるような、嫌な声が微かに聴こえる。

──この男は道具に過ぎぬ

──所詮は使い捨てよ

――孺子めが…

(……やめろ……やめてくれ……!)

貞盛は耳を押さえた。


良兼は、雪に濡れた髭を震わせながら谷の奥を見つめた。

(……まだだ。まだ死ねぬ)

「貞盛! ついて来い! 谷の奥へ抜けるぞ!」

良兼は雪を蹴り、谷の奥へ走り出した。

貞盛は一歩だけ遅れて立ち止まった。

谷底には、倒れた兵たちの呻き声だけが残る。

その声が、貞盛には別のものに聞こえた。

──返せ……

──汝の呪い、返せ……

──汝の怨火、返せ……


良兼が振り返る。

「貞盛!」

雪の冷たさが、逆に頭を冴えさせた。

貞盛は一瞬ためらったが、すぐにその後を追った。


良兼の背後に、黒い影が立っているように見えた。

それは人の形をしているようで、していないようでもあった。

輪郭は雪に溶け、顔は見えず、ただ“此方を見つめる気配”だけがあった。

──討て……

――汝を唆した者を……

──汝の夢を奪った者を……

――討て……


「──討て……討て……」

貞盛は、虚ろな目をして、誰にともなく小さく呟いた。

雪は深く積もり、風は骨を刺すように冷たかった。


良兼は、焦燥と怒りを押し殺していた。

(……将門を殺すまで……我は死なぬ!)

「良兼殿……」

背後から、低く震える声がした。

「何だ?」

振り返ると、貞盛が雪の中に立っていた。

その眼は、常ならぬ光を宿していた。

「良兼殿……あなたのせいだ……あなたが……私を……!」

声が震え、呼吸が荒くなる。

「さ、貞盛……? 何をしておる……」

良兼が言い終えるより早く、貞盛は刀を抜いた。

刃が雪明かりに鈍く光る。


「さ、さ……貞盛! き、貴様……このわしを!」

良兼は後ずさった。

「貴方が私を唆した……! 私の未来を奪った……!」

刃が震える。

それは怒りではなく、影に引かれた手の震えだった。

「なのに……貴方は……、あなたが夢を壊した──ッ!」


貞盛は叫び、刃を振り下ろした。

良兼は転げるように逃げた。

「我の太刀を寄越せ! 早う!」

しかし近習は、貞盛の鬼気迫る表情を見ると、太刀を持ったまま逃げ出した。

「お、おのれ……!」

貞盛が迫る。

再び、太刀が振り下ろされる。

今度は刃が良兼の肩をかすめ、血が雪に散った。


その痛みで、良兼は逆に冷静さを取り戻した。

「……よかろう、貞盛」

良兼は無手で飛びかかり、貞盛の首を締め上げた。

「――夢だと? 未来だと? 我が汝を引き込んだのは、“父を殺された子が仇を討つ”という大義名分が必要だったからだ!」

貞盛の顔が苦悶に歪む。

「己が如き孺子に望みなど懸けておらぬ。最早、用は無い。ここで死ね!」


その瞬間──地震が起き、大地が揺れた。

良兼は足元を取られ、腕の力が抜けた。

貞盛はその隙に、雪の斜面を転がるように逃げた。

「貞盛──ッ!」

良兼の怒声が谷に響いた。

しかし貞盛は振り返らなかった。

雪の闇の中へ、ただ必死に逃げた。


雪は静かに降り続けていた。

良兼は、貞盛を追うことをせず、雪の奥へと姿を消した。

雪は深く積もり、風は容赦なく頬を打った。

良兼は、その風の冷たさよりも、胸の奥の虚しさの方が、はるかに堪えた。


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