【3.雪嶺の狂気】
貞盛の胸の奥で、“何か”が蠢いた。
(……まただ……)
耳の奥を針で突かれるような、嫌な声が微かに聴こえる。
──この男は道具に過ぎぬ
──所詮は使い捨てよ
――孺子めが…
(……やめろ……やめてくれ……!)
貞盛は耳を押さえた。
良兼は、雪に濡れた髭を震わせながら谷の奥を見つめた。
(……まだだ。まだ死ねぬ)
「貞盛! ついて来い! 谷の奥へ抜けるぞ!」
良兼は雪を蹴り、谷の奥へ走り出した。
貞盛は一歩だけ遅れて立ち止まった。
谷底には、倒れた兵たちの呻き声だけが残る。
その声が、貞盛には別のものに聞こえた。
──返せ……
──汝の呪い、返せ……
──汝の怨火、返せ……
良兼が振り返る。
「貞盛!」
雪の冷たさが、逆に頭を冴えさせた。
貞盛は一瞬ためらったが、すぐにその後を追った。
良兼の背後に、黒い影が立っているように見えた。
それは人の形をしているようで、していないようでもあった。
輪郭は雪に溶け、顔は見えず、ただ“此方を見つめる気配”だけがあった。
──討て……
――汝を唆した者を……
──汝の夢を奪った者を……
――討て……
「──討て……討て……」
貞盛は、虚ろな目をして、誰にともなく小さく呟いた。
雪は深く積もり、風は骨を刺すように冷たかった。
良兼は、焦燥と怒りを押し殺していた。
(……将門を殺すまで……我は死なぬ!)
「良兼殿……」
背後から、低く震える声がした。
「何だ?」
振り返ると、貞盛が雪の中に立っていた。
その眼は、常ならぬ光を宿していた。
「良兼殿……あなたのせいだ……あなたが……私を……!」
声が震え、呼吸が荒くなる。
「さ、貞盛……? 何をしておる……」
良兼が言い終えるより早く、貞盛は刀を抜いた。
刃が雪明かりに鈍く光る。
「さ、さ……貞盛! き、貴様……このわしを!」
良兼は後ずさった。
「貴方が私を唆した……! 私の未来を奪った……!」
刃が震える。
それは怒りではなく、影に引かれた手の震えだった。
「なのに……貴方は……、あなたが夢を壊した──ッ!」
貞盛は叫び、刃を振り下ろした。
良兼は転げるように逃げた。
「我の太刀を寄越せ! 早う!」
しかし近習は、貞盛の鬼気迫る表情を見ると、太刀を持ったまま逃げ出した。
「お、おのれ……!」
貞盛が迫る。
再び、太刀が振り下ろされる。
今度は刃が良兼の肩をかすめ、血が雪に散った。
その痛みで、良兼は逆に冷静さを取り戻した。
「……よかろう、貞盛」
良兼は無手で飛びかかり、貞盛の首を締め上げた。
「――夢だと? 未来だと? 我が汝を引き込んだのは、“父を殺された子が仇を討つ”という大義名分が必要だったからだ!」
貞盛の顔が苦悶に歪む。
「己が如き孺子に望みなど懸けておらぬ。最早、用は無い。ここで死ね!」
その瞬間──地震が起き、大地が揺れた。
良兼は足元を取られ、腕の力が抜けた。
貞盛はその隙に、雪の斜面を転がるように逃げた。
「貞盛──ッ!」
良兼の怒声が谷に響いた。
しかし貞盛は振り返らなかった。
雪の闇の中へ、ただ必死に逃げた。
雪は静かに降り続けていた。
良兼は、貞盛を追うことをせず、雪の奥へと姿を消した。
雪は深く積もり、風は容赦なく頬を打った。
良兼は、その風の冷たさよりも、胸の奥の虚しさの方が、はるかに堪えた。




