第1章 焔影、破軍へ伸びる 【3.香取海、千の櫂音】
【3.香取海、千の櫂音】
熱気を孕んだ湿った風が、香取海一帯を重く吹き渡っていた。
海と沼と川が混じり合った湿原の匂いが、鼻腔にまとわりつく。
香取海は古来、神々の通い路と伝えられる。
その静謐な水面に大小合わせて百余隻の軍船が列をなし、まだ夜気の残る水面に黒々と影を落としていた。
将船は、檜を組んだ巨体に黒松脂を厚く塗り込め、朝日を吸い込むように鈍く光る。その舳先には赤い陣幟を立て、林立する赤・黒・白の吹き流しが潮風を孕んで大きく膨らんでいた。
良兼が将船の舳先に姿を現すと、岸辺に控える千の兵は沸き立ち、一斉に跪拝した。
「――将門を討つ。」
低く放たれた声は、海上の空気そのものを震わせた。
やがて、鬨の声が幾重にも重なり、香取海の水面が細かく震えた。
船団がゆっくりと動き出す。
将船に続く中型船は四十余。黒い船腹が列をなし、縄で補強された舷側には矢盾が並ぶ。
兵たちの甲冑が陽光を受けて閃き、一斉に櫂を押し出すたび、海は白い飛沫を高く上げる。櫂の音が揃うと、船団は北へ向かって滑るように進んだ。
さらにその周囲を、小舟が矢のように走る。丸木を刳り抜いた軽舟は、波を切って細い白波を引き、伝令を運び、敵影を探り、船団の隙間を縫って駆け回る
真紅の幟のはためき、黒々とした船腹、松脂の匂い、
千の兵の息遣いが、香取海の静謐を圧倒していた。
舟団の櫂が水を割る音が、遠くまで澄んで響いていく。
舟団が北上するにつれ、香取海はやがて細い水路へと変わり、水鳥が低く飛び、入道雲がゆっくりと天に積み上がっていく。
千の軍勢は、そのまま常陸国府へ向かった。
常陸介・藤原維幾は、いそいそと国衙の外まで出迎え、満面の笑みを湛えて良兼を迎えた。
「おお、上総介殿、よくぞお越しくださった。
貴殿にご相談申し上げたい儀は、それはもう山のようにございますぞ。」
軍勢とともに国衙に入城した良兼は、維幾から常陸国内の動静を聴いた。維幾と為憲親子は、常陸における坂東平氏の威信は地に墜ち、将門と同盟する豪族があとを絶たぬことを、深刻な面持ちで憂えている。
良兼は目を閉じ、黙然とその報告に耳を傾けた。
やがて、藤原秀郷の越境、侵犯の動きに話題が及んだ。
良兼はふと口許を緩め、
「秀郷か。あやつの追討官符が五国に下ったのは、もう何年も前よ。それでもなお、野に潜んでおったか。」
と、一笑に付した。
「――しかし、それもまた好機よ。
道すがら秀郷をも成敗し、そのしぶとさに終止符を打ち、秀郷の首級を下野守への手土産とすればよい。」
維幾も為憲も、思わぬ形で脅威が解決されるとあって、安堵の色を隠さなかった。
その頃、
唐沢山の砦を出た藤原秀郷は、三百の騎馬軍を率いて結城郡や真壁郡南部で略奪を行いながら、鬼怒川を越えて筑波嶺方向に東征していた。その目的は、信太浮島の藤原国豊と藤原玄明であった。
下野の夏は、常陸の湿り気とは趣を異にしていた。丘陵の草は陽に焼け、風は熱を含みながらも、どこか鋭く乾いている。
秀郷の軍は、すでに香取海に注ぐ桜川の畔まで来ていた。
その流れの対岸に広がる平原を見据えていた秀郷は
「……この川の向こうは、まずい。」
と、短く呟いた。
やがて斥候が砂煙を上げて駆け戻り、
良兼の大軍――千を超える兵がこちらに向かっていると告げた。
秀郷は、ほとんど間を置かずに決した。
「退くぞ。良兼と正面から戦えば勝ち目はない。奪った荷は捨てよ。」
唐沢山へ引き返す途上、湿り気を帯びた風が吹き抜け、遠くで雷鳴がくぐもって響いた。
秀郷は空を仰ぎ、
「あの孺子、仲正の庶子は……本当に運が良い。」
と、誰に聞かせるでもなく呟いた。
秀郷は、信太浮島の蹂躙も、国府襲撃も諦めた。
――壬生成宗の思惑もまた、成就することはなかった。




