【4.幡織宿、炎に沈む】
晩秋の風が、水郷を渡っていく。
葦は枯れ、湖沼の水は冷え、夜の気配はすでに初冬のそれであった。
将門は、裸木を組んだだけの簡素な物見櫓に立ち、
遠く筑波山の黒い稜線を見据えた。
(……機は熟した)
国巣の牙と爪を得て、湿原での揺動戦は次々と戦果を挙げた。
良兼軍は捜索を続けるたびに兵を失い、その疲弊を隠せない。
将門の三人の弟──
将頼(御厨三郎)、将為(相馬五郎)、将武(相馬六郎)も、湿原での戦を重ね、武士としての眼と胆を備えつつあった。
そして今、将門のもとには常総の豪族たちが続々と集い、湖沼と湿原に囲まれた鎌輪の要害は、かつてない活気と緊張に満ちていた。
「今宵、幡織宿を襲う。……良兼を討つ」
三郎将頼が静かに告げた。
「兄上。幡織宿の敵兵は、夜半には半ば眠りに落ちましょう」
将門は頷いた。
――幡織宿
良兼軍の常陸方面の前線として、郎党、与力の伴類、徴用された農民兵など、筑波山北西麓の幡織宿には五百余が籠っていた。
「宿」と記されるが、実際には広大な敷地を持つ軍事拠点であり、交易地としても機能する大規模な防衛集落である。
晩秋の夜気は冷たく、兵たちは焚火に身を寄せ、警戒も緩んでいた。
「将門は湿地で死んだんだろう」
「いや、影のように潜んでいるとか……」
「もう探すのはごめんだ。湿地の戦は気味が悪い」
兵たちの声には、湿原での敗北の記憶が滲んでいた。
そのとき──
宿の外で、風とは違う“ざわり”が走った。
「……今の音、聞いたか?」
「風だろう」
だが、それは風ではなかった。
黒騎馬隊を率いる将頼は、愛馬の鼻面を撫でながら、宿の灯火の揺れをじっと見つめていた。
「……風が変わった。今なら、焚火の煙がこちらを隠す」
その声は低く、しかし確信に満ちていた。
将門が頷く。
将頼は黒騎馬の先頭に立ち、手を軽く上げた。
「黒騎馬、前へ」
ザッ──
黒い影が一斉に動き、宿の外縁へと滑り込む。
焚火の光が揺れた瞬間、将頼の声が闇を裂いた。
「矢を射掛けよ」
ヒュッ──!
黒騎馬の騎射が、正門の櫓に立つ兵を一息で射抜いた。
「敵襲──!」
叫びが上がるより早く、将頼は馬を躍らせ、正門から突入した。
「乱せ。敵の心を折れ」
黒騎馬は、将頼の指揮のもと、敵の混乱を極限まで高めていった。
将門はその背を見て思う。
(……三郎には、用兵の才がある)
混乱が生まれた瞬間、五郎将為が俊馬を駆って中央へ飛び込んだ。
「兄者、道を開くぞ!」
その声は豪胆で、しかし無謀ではない。
湿原で鍛えた“勘”が、敵の位置を正確に捉えていた。
五郎将為は、焚火の影に隠れた敵の列を見つけると、馬を横に滑らせ、一気に切り裂いた。
「怯むな!ここを抜けば、道が開ける!」
黒騎馬が五郎将為に続き、幡織宿の中心部を完全に制圧した。
騎射は容赦なく、敵兵が一人、また一人と倒れていく。
「敵襲――! 将門の黒騎馬だ――!」
恐怖が走った瞬間──
背後の竹林から、国巣の弩が一斉に火を噴いた。
近距離で放たれた強力な弩は鎧を貫き、兵を地に縫いとめるように倒していく。
幡織宿中に混乱が広がる。
さらに、塀や屋根から飛礫が降り注いだ。
石は正確に兜を砕き、その場に沈めた。
「上だ――! 敵は上にも!」
見上げた兵の顔面に、次の飛礫が落ちた。
ゴッ──!
兜が砕け、兵が悲鳴を上げて倒れる。
六郎将武の声が闇に響いた。
「汝らの逃げ道は、もうない」
軽装の兵たちは、塀から屋根へ、屋根から屋根へ、油を撒きながら、まるで夜の梟のように飛んだ。
黒い馬、黒い鎧──。
将門は、ゆっくりと幡織宿に入城した。
左眼の重瞳には、暗く赤い灯が宿っていた。
主殿に昇り、残党に問いただす。
「……良兼は何処へ消えた──」
その声は静かで、しかし凍てつく殺意を帯びていた。
残党たちは震えるばかりで、声を上げることすらできない。
その刹那──
将門の刃が闇を裂き、血飛沫が高く上がった。
「我は、貴様らを誰一人として生かしておかぬ」
「兄上。幡織宿、陥ちました」
将頼の静かな声に、将門は頷いた。
「頃合いだ。
――火矢を射掛けよ」
三人の弟たちは、兄の残酷な始末に驚き、互いに顔を見合わせた。
だが……何も言わなかった。
兄の胸中を察すると、言葉が出なかった。
幡織宿は、燃え盛る炎の中に沈んでいった。
それは、既視感を覚えるほどの光景であり、叫びたいほどの切なさを伴う風景でもあった。
良兼は炎上する幡織宿を、這うようにして逃げ出し、筑波の山中へ落ち延びた。
将門軍は三日三晩にわたり麓を包囲し、山中の良兼を執拗に追い回した。




