【1.京兆の影、動く】
京の空は、坂東とは異なる静けさを湛えていた。
大内裏の甍は陽光を受けて白く輝き、
その下には、声なき政の気配が静かに澱んでいた。
京の空気は澄んでいるのに、その奥底には、人の思惑が積もり重なり、
目には見えぬ影となって漂っている。
将門は、国豊とともに、その都へ足を踏み入れた。
襲撃の夜を越え、影を負ったままの上洛である。
だが、その影の底には、確かに新たな光が芽生えつつあった。
豊田の炎滅からわずか一月、
将門の胸には、なお痛みが残っていたが、その歩みは確かであった。
(……このままでは終われぬ。良兼だけは滅ぼさねばならぬ。)
国豊もまた、静かに将門の横顔を見つめていた。
京に入ると、まず太政大臣・藤原忠平卿の邸、小一条殿を訪れた。
忠平卿は、将門と国豊を見るなり、目を細めた。
「よく来たな。もう一年になるか。
こうしてまた酒を酌み交わせるとは、わしも長生きしたものよ。」
軽口を叩きながらも、その眼は鋭かった。
国豊は深く頭を下げ、今回の上洛の目的を述べた。
「常陸国司として、弁官に直接訴えを持参しとうございます。
良兼・貞盛らの狼藉、馬寮の常羽御厩の焼亡、
そして坂東の乱れを、朝廷にお伝えせねばなりませぬ。」
忠平卿は黙して聞き、やがて静かに頷いた。
「……思うところがある。明日、中務卿・重明親王に会うがよい。」
その夜は、忠平卿の勧めで酒宴となった。
将門も国豊も、久しぶりに心を緩めた。
翌日、二人は大内裏の南西側、中務省の曹司(庁舎)へと招かれた。
そこには、中務卿・重明親王と、もう一人の男が待っていた。
陰陽師・賀茂忠行──陰陽寮の俊英である。
「忠平卿より、“評議に付する前に、陰陽寮にてこの件について占え”と、
この訴えについて移文(命令)が出てな。」
「先ずは、この忠行に占わせたく思う。」
宮は、爽やかな笑顔で言い、忠行を示した。
忠行は将門を見ると、懐かしげに微笑んだ。
「久しくしております、小次郎さま。……覚えておいででしょうか。」
将門は目を細めた。
「……賀茂忠行殿か。随分と見違えたな。」
国豊にも目を向け、
「大掾殿……いやぁ、稚児髪の頃しか存じ上げず、驚いております。
あの小舎人……いえ、藤の若君さま。」
忠行は思い出したように照れて言った。
重明親王は、微笑みながら三人を見渡し、
「主上も、坂東の荒れようを憂えておられる。
だが、ここでは堅苦しい。一条の忠平卿の屋敷で、改めて話すとよかろう。」
と、場を和ませるように言った。
その夜、賀茂忠行が忠平邸を訪れた。
彼は静かに杯を置き、言葉を選ぶように口を開いた。
「あの頃の小次郎さまが、このような影を背負われるとは……世は、変わるものです。」
忠行は、将門の顔を見つめ、静かに息を吐いた。
「……小次郎さま。あなたの背に宿る影は、ただの怨ではございませぬ。」
国豊が眉をひそめた。
「遠視にて占ったところ……筑波の霊山に“蟲毒”の相がございます。」
その声は柔らかいが、底に鋭い刃を含んでいた。
将門も国豊も息を呑んだ。
「蟲毒……呪詛か。」
忠行は頷いた。
「はい。律令の下では、呪詛は国家を揺るがす大罪。陰陽寮より数名を派遣し調査しております。」
忠行は続けた。
「下総の神職の報告では、筑波山の龍脈が炎のように立ち上がり、尋常ならざる怨と呪の気を感じたと。また、修験僧の証言では、呪に染まった護摩を焚き、不動明王の修法を行った者がいたと申します。」
将門は低く問うた。
「……それが、良兼だと?」
「断定はできませぬ。しかし、この呪詛の向かう先は──将門公、貴方です。」
忠行ははっきりと言った。
「今の私にできるのは、呪詛を術者に返す“呪詛返し”くらいです。
ですが、呪が強ければ強いほど、返しの効き目は確実。
――術とは、そういうものです。」
「小次郎さま……あなたの星は、まだ沈んではおりませぬ。
――むしろ、これから大きく動きましょう。」
その言葉に、将門は静かに頷いた。
忠行は杯を掲げ、笑みを浮かべた。
「まぁ、私に任せておいてください。きっと状況は好転し、良いことがありますよ。」
炎の夜を越え、影の中に差す光が、確かにそこにあった。




