【5.炎の夜を越えて】
豊田が炎に呑まれ、将門は影を負って鎌輪へと拠点を移した。
その敗走は、坂東一円に衝撃を走らせ、常陸の国衙にも、国豊にも、深い影を落とした。
だが、影は影を呼び、散り散りとなった郎党、家人、従僕、そして家族までもが、それぞれの道を辿りながら、ひとつの地──鎌輪へと集まり始めた。
深い霧が森を覆う早朝、湿地の向こうから馬の嘶きと蹄音が響いた。
「殿はご無事か!」
常羽御厩の別当・多治経明が、黒騎馬の生き残りを率いて駆け込んできた。
将門の姿を見るなり、経明は大きな体を震わせ、髭面を濡らして泣いた。
「殿……よかった……!」
その涙は、炎に呑まれた常羽御厩の記憶を背負った男の涙であった。
将門もまた、目頭を押さえた。
丘に上がると、黒騎馬二十騎と、助け出された軍馬三十頭が草を食んでいた。
二百近い軍馬のうち、炎を怖れて散った馬を探し集め、ここまで連れてきたのである。
「殿のためなら、何度でも探し出しまする。」
経明の声は、焼けた鉄のように固かった。
そして、その日の午後──
高望王の五男にして、将門の父・良将の兄弟の中で、ただひとり初めから将門に与力してきた平良文が、泥に塗れた姿で鎌輪へ駆け込んできた。
そして、将門を見るなり膝を折り、額を地に擦りつけて哭いた。
「将門殿……君の御前は……」
炎の中で乳飲み子の将国を良文に託し、そのまま姿を消したという。
「どこを探しても……もう……」
将門は、その言葉に激しく動揺し、遂に慟哭した。
炎滅の夜に失ったものの重さが、いまさらのように押し寄せた。
その声に驚いたのか、良文の腕の将国が大きく泣き出した。
さらに数日後――
信太の浜に、一艘の舟が打ち上げられた。
舟には、将門の正室・公子、長男・良門、そして滝姫がいた。
公子は良兼に囚われ武射城に戻されていたが、兄の公雅・公連が父の暴虐を憎み、
妹とその子らを救うため密かに舟を手配して逃がしたのである。
漂着した舟を見つけたのは、将門を探して北へ向かっていた国豊の郎党であった。
国豊は急報を受け、信太の浜へ駆けつけた。
痩せ細った公子と衰弱が見える二人の子が寄り添っていた。
滝姫は荒れた浜風の中で空を見上げ、星の巫女としての静かな気配をまとっていた。
国豊が近づくと、小さく囁いた。
「……七曜の星に、光が戻ってきた……」
その声は幼いが、確かな霊性を帯びていた。
公子は国豊の姿を見るなり崩れ落ちた。
「……殿は……ご無事なのでしょうか……」
国豊は膝をつき、静かに答えた。
「必ず、お連れいたします。将門殿は生きておられます。」
公子の瞳に、わずかな光が戻った。
国豊は深く息を吸い、公子と二人の子を抱え上げた。
(……この方々を、必ず将門殿のもとへ。)
鎌輪の丘に公子が姿を現したとき、将門は言葉を失った。
公子は痩せていたが、その眼には炎にも折れぬ強さが宿っていた。
「殿……生きていて……」
将門は公子と子らを抱きしめた。
胸の奥に、久しく忘れていた温かさが戻った。
滝姫は将門の胸に触れ、ふっと空を見上げて囁いた。
「……破軍の星は、再び輝く……」
その言葉に、将門の胸が震えた。
炎滅の夜に失われた光が、影の地でふたたび灯ったのである。
国豊はその光景を静かに見守りながら、胸の奥に複雑な思いを抱いた。
(将門殿……どうか、もっと我を頼ってほしい。)
その夜、焚き火の前で将門と国豊は向かい合った。
「国豊……お前が連れてきてくれた。この恩は忘れぬ。」
国豊は静かに言った。
「常羽御厩は馬寮の牧。これを焼き討ちした良兼・貞盛の罪は重い。
朝廷に訴えれば、必ずや裁かれましょう。正しさを公に示すのです。」
将門は炎を見つめた。
「……我は敗れ、すべてを失った。それでも良兼を滅ぼさねばならぬ。」
国豊は焚き火越しに言った。
「将門殿……貴殿はなお、人を惹きつける光を失わない。
その光を広く示すのです。」
将門はゆっくりと頷いた。
「是非もない、お前の力を貸せ。再び、共に京へ上ろう。」
妻子が戻り、将門の心は再び整った。
「朝廷に訴えねばならぬ。我が正しさを公に示す。」
将門は、鎌輪の留守を、
御厨三郎将頼、将為(相馬五郎)、将武(相馬六郎)──
三人の弟に託した。
それぞれが将門を支える柱であり、この地を守るに足る器量を備えていた。
こうして将門は、鎌輪を新たな拠点と定め、京へと歩みを進めた。




