【2.泥濘の道、国巣の庇護】
将門は、もはや戦う力も、歩く力すらも失っていた。
脚気で脚はむくみ、矢傷は熱を帯び、息をするだけで胸が痛む。
良兼軍三千は、なおも執拗に追撃してきた。
将門は、数名の郎党に支えられながら、湖沼が広がる広大な低湿地帯へと逃げ込んだ。
そこは、人の住む地ではなく、獣の通う道であった。
泥は膝まで沈み、草は胸の高さまで伸び、夜露は冷たく、将門の衣は泥と血で重く貼りついた。
「殿、こちらへ……!」
供なる郎党の声も、遠く霞んで聞こえた。
「何とか……大国玉の舅殿の許まで辿り着きたい……
……この身体では、とても良兼と対峙することなど叶わぬ。」
将門は、泥に塗れながら、ただ北へ、北へと進んだ。
やがて、真壁郡の原生林が広がる一帯へと入り込んだ頃、将門の身体は限界を迎えた。
視界が白く揺れ、木々の影が滲み、地面が迫ってくる。
(……もはや、ここまでか)
そう思った瞬間──
闇の中で、低い声が響いた。
「……この男を、運べ」
将門が目を覚ましたのは、鬱蒼とした原生林の奥、沼地と森が入り組んだ場所であった。
そこは、国司にも豪族にも“人として扱われぬ者たち”が身を寄せる、隠れ里のような場所
──「広江の案内」 と呼ばれる地であった。
最初の数日は、彼らの粗末な小屋で、泥のように眠り続けた。
彼らは、雑穀や豆、獣の肉を常食とし、脚気に罹る者は一人もいなかった。
二週間も経つ頃には、将門は自ら歩けるほどに回復していた。
彼らの食事と、沼地の水と、森の空気が、将門の身体をゆっくりと蘇らせていったのである。
「……不思議なものだ。ここに来てから、胸の痛みも、脚の重さも消えていく」
里の長は、静かに笑った。
「我らは、国巣だの土蜘蛛だのと呼ばれ、
穴倉に潜む獣のように扱われてきた。だが――、
獣は獣で、牙も爪も持ち、強く生きる術を知っておる。」
将門は、その言葉に胸を突かれた。
(……この者たちは、誰からも顧みられず、誰にも守られず、それでも生きている。)
彼らは、ただ倒れていた一人の男を助けただけだった。
なんの見返りも求めず、困っていたから扶けた。
――その素朴さが、将門の胸に深く沁みた。
本拠とした豊田営所を失った将門は、
再び軍を興すためにも、新たな拠点を定めねばならなかった。
国巣の民が案内したのは、豊田から鬼怒川を北へ遡った対岸の地であった。
此処からであれば、良兼が前線として本陣を置く水守も、兵站の拠点である真壁城も、これまでのように鬼怒川を越える必要がない。逆に言えば、鎌輪に拠れば、良兼軍は背後を断たれた形となり、攻める側が背水の陣を敷くことになる。
鎌輪――
湖沼が幾重にも入り組む広大な湿地帯のただ中に、ぽつりと島のように小高い丘が頭をもたげている。深い沼沢は、四方を巡って天然の堀となり、外界を拒むように静まり返っている。風はほとんど吹かず、陽光を受けてもなお黒く沈む水面だけが、何者かの息遣いのように微かに震えている。
将門は、その丘陵の奥へと進んだ。
森は深く、奥からは、鳥とも獣ともつかぬ声が、遠く、低く、響いては消えた。それは、まるで古きものの囁きを含んでいるかのようであった。風は湿り気を帯びて冷たい。
この丘陵は、天与の要害であると同時に、古の記憶が濃く漂う、異界の境のようであった。
鎌輪の奥へ入ると、国巣の者たちが焚き火を囲んでいた。
「……戻ったか。」
長老の田油毘古が、火越しに低く言った。
将門は、炎を見つめたまま静かに頷いた。
やがて、将門のもとに、散り散りになっていた郎党や従僕、家人たちが、ひとり、またひとりと合流してきた。
「殿が生きていると聞き、駆けつけました。」
「我らも、共に戦います。」
彼らの衣は破れ、顔は痩せ、しかし眼光は失っていない。
将門は、胸の奥が熱くなるのを感じた。




