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将門炎舞記 下巻  作者: 浮島太郎
第4章 炎滅の夜、影の再起

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【2.泥濘の道、国巣の庇護】


将門は、もはや戦う力も、歩く力すらも失っていた。

脚気かっけで脚はむくみ、矢傷は熱を帯び、息をするだけで胸が痛む。

良兼軍三千は、なおも執拗に追撃してきた。

将門は、数名の郎党に支えられながら、湖沼が広がる広大な低湿地帯へと逃げ込んだ。

そこは、人の住む地ではなく、獣の通う道であった。

泥は膝まで沈み、草は胸の高さまで伸び、夜露は冷たく、将門の衣は泥と血で重く貼りついた。

「殿、こちらへ……!」

供なる郎党の声も、遠く霞んで聞こえた。

「何とか……大国玉の舅殿の許まで辿り着きたい……

……この身体では、とても良兼と対峙することなど叶わぬ。」

将門は、泥に塗れながら、ただ北へ、北へと進んだ。

やがて、真壁郡の原生林が広がる一帯へと入り込んだ頃、将門の身体は限界を迎えた。

視界が白く揺れ、木々の影が滲み、地面が迫ってくる。

(……もはや、ここまでか)

そう思った瞬間──

闇の中で、低い声が響いた。

「……この男を、運べ」


将門が目を覚ましたのは、鬱蒼うっそうとした原生林の奥、沼地と森が入り組んだ場所であった。

そこは、国司にも豪族にも“人として扱われぬ者たち”が身を寄せる、隠れ里のような場所

──「広江の案内」 と呼ばれる地であった。

最初の数日は、彼らの粗末な小屋で、泥のように眠り続けた。

彼らは、雑穀や豆、獣の肉を常食とし、脚気に罹る者は一人もいなかった。

二週間も経つ頃には、将門は自ら歩けるほどに回復していた。

彼らの食事と、沼地の水と、森の空気が、将門の身体をゆっくりと蘇らせていったのである。

「……不思議なものだ。ここに来てから、胸の痛みも、脚の重さも消えていく」

里の長は、静かに笑った。

「我らは、国巣くずだの土蜘蛛だのと呼ばれ、

穴倉に潜む獣のように扱われてきた。だが――、

獣は獣で、牙も爪も持ち、強く生きる術を知っておる。」

将門は、その言葉に胸を突かれた。

(……この者たちは、誰からも顧みられず、誰にも守られず、それでも生きている。)

彼らは、ただ倒れていた一人の男を助けただけだった。

なんの見返りも求めず、困っていたから扶けた。

――その素朴さが、将門の胸に深く沁みた。



本拠とした豊田営所を失った将門は、

再び軍を興すためにも、新たな拠点を定めねばならなかった。

国巣の民が案内したのは、豊田から鬼怒川を北へ遡った対岸の地であった。

此処からであれば、良兼が前線として本陣を置く水守も、兵站の拠点である真壁城も、これまでのように鬼怒川を越える必要がない。逆に言えば、鎌輪に拠れば、良兼軍は背後を断たれた形となり、攻める側が背水の陣を敷くことになる。

鎌輪かまわ――

湖沼が幾重にも入り組む広大な湿地帯のただ中に、ぽつりと島のように小高い丘が頭をもたげている。深い沼沢は、四方を巡って天然の堀となり、外界を拒むように静まり返っている。風はほとんど吹かず、陽光を受けてもなお黒く沈む水面だけが、何者かの息遣いのように微かに震えている。

将門は、その丘陵の奥へと進んだ。

森は深く、奥からは、鳥とも獣ともつかぬ声が、遠く、低く、響いては消えた。それは、まるで古きものの囁きを含んでいるかのようであった。風は湿り気を帯びて冷たい。

この丘陵は、天与の要害であると同時に、いにしえの記憶が濃く漂う、異界の境のようであった。

鎌輪の奥へ入ると、国巣の者たちが焚き火を囲んでいた。

「……戻ったか。」

長老の田油毘古たぶらひこが、火越しに低く言った。

将門は、炎を見つめたまま静かに頷いた。


やがて、将門のもとに、散り散りになっていた郎党や従僕、家人たちが、ひとり、またひとりと合流してきた。

「殿が生きていると聞き、駆けつけました。」

「我らも、共に戦います。」

彼らの衣は破れ、顔は痩せ、しかし眼光は失っていない。

将門は、胸の奥が熱くなるのを感じた。


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