【1.失われしもの】
小貝川(子飼の渡し)から敗走した将門軍が、豊田営所へ戻ったのは、夕闇が空を覆いはじめた頃であった。黒騎馬の蹄音は弱く、兵たちの息遣いには疲労と不安が滲んでいた。将門自身も、病と矢傷が重なり、馬上で意識が遠のきそうになるのを必死に堪えていた。
しかし、その夜は、初の敗北の痛みなど比べものにならぬ、将門の人生最大の悲劇が待ち構えていた。
夜半、豊田の空が、不意に赤く染まった。
「……空が、燃えている……?」
最初に気づいたのは、常羽御厩に近い村の者だった。
常羽御厩は、軍馬を育てる官営の牧であり、馬具や武具を鍛える炉を備えた、まさに将門の軍事力の“心の臓”であった。
「天が、赤く染まるなんて……」
村人の声は、周囲から集まる冷気に吸い込まれるように消えた。
次の瞬間、常羽御厩の製鉄炉が爆ぜ、地を揺らすような轟音が夜を裂いた。
巨大な火柱が夜空を貫き、馬は狂ったように嘶き、大地は赤く染まった。
強兵の中枢は、呪詛に呼び寄せられたように、一夜にして炎に呑まれ、灰塵に帰した。
常羽御厩が炎に包まれたその時、良兼は、少し離れた丘の上に立っていた。
夜風が、燃え上がる炎の熱を運んでくる。
その熱を受けながら、良兼は微動だにしなかった。
「……見よ。これが、反逆者の末路よ。」
声は低く、乾いていた。
怒りでも、歓喜でもない。
底のない空洞のような声であった。
源護は、例の壺を抱えたまま、炎に照らされた御厩の全貌をじっと眺めていた。
壺の中で蠢くものが、火の光に反応するように「ぴちり」と音を立てる。
「おぉ……こやつも喜んでおるようじゃ。」
源護の声は、どこか恍惚としていた。
良兼は、炎に照らされた自らの手を見つめた。
――怨みごとは己を焦がす。呪詛を行う者は、魂を喰われる。
炎が爆ぜ、火の粉が夜空に舞う。
その赤い光を映す良兼の眼には、もはや人の心はなかった。
生命を失う者への哀れみも、人の悲しみへの共感も、一片たりとも宿っていない。
ただ、「将門を滅ぼす」――、
その一点だけが、彼の全身を支配していた。
火柱が高く上がるたび、良兼の口元には微かな笑みが浮かんだ。
それは、勝利の悦びではない。
人の情を失った者の、底知れぬ狂気の表象であった。
そして……豊田館にも、地獄の夜が訪れた。
良兼軍の夜襲は、近隣の村々、集落を呑み、やがて豊田の営所一帯にまで及んだ。
炎を巻き込んだ巨大な竜巻は、まるで、猛り狂う赤龍の如く辺りを焼き尽くし、雄叫びを上げているかのようであった。
家屋は焼け落ち、倉庫は炎の中に崩れ、燃え盛る木切れや火の粉が上空高く舞い上がる。
風に乗った火の粉は、手つかずの場所にまで降り注ぎ、飛び火を次々と起こし、人々の逃げ延びる先を塞いだ。
女たちも子どもも、逃げ惑う人々の叫びも、火炎の中にかき消されていった。
――その惨状は、
星見の巫女が幻視した情景と、寸分違わなかった。
兵だけでなく、男たちも武具を手に立ち向かったが、大軍の矢衾の前に抗う術はなかった。鬼怒川を背にして次々と倒れ、あるいは炎に呑まれた。
亡き父・良将から受け継いだ常羽御厩も、この豊田営所も、一夜にして灰の原と化した。
翌朝には、「将門の妻子が連れ去られた」あるいは「殺された」という噂が坂東中に広がっていた。
しかし、誰も真実を知らない。
ただ、「炎の中に消えた」ということだけが、確かな事実であった。
黒い灰が風に舞い、焦げた木々が、まるで亡骸のように横たわっている。
常羽御厩も、豊田の営所も、村々も、人々の暮らしも──
何一つとして残ったものはなかった。
将門は、その光景を前に、声を失った。
身体は鉛のように重い。
今はまだ、何の感情も湧いてこない。
ただ、胸の奥にぽっかりと穴が空いたような虚無だけがあった。
(我は……すべて、失ったのか)
その言葉は、声にならなかった。
湿った風が吹き抜ける。
灰を巻き上げ、焼け跡を渡り、将門の衣を揺らした。
将門は、静かに目を閉じた。
その瞼の裏には、かつての豊田の景色が、淡い光となって揺れていた。
そして──
その光は、ゆっくりと、闇に沈んでいった。




