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将門炎舞記 下巻  作者: 浮島太郎
第4章 炎滅の夜、影の再起

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【1.失われしもの】


小貝川(子飼の渡し)から敗走した将門軍が、豊田営所へ戻ったのは、夕闇が空を覆いはじめた頃であった。黒騎馬の蹄音ひづめのおとは弱く、兵たちの息遣いには疲労と不安が滲んでいた。将門自身も、病と矢傷が重なり、馬上で意識が遠のきそうになるのを必死に堪えていた。

しかし、その夜は、初の敗北の痛みなど比べものにならぬ、将門の人生最大の悲劇が待ち構えていた。


夜半、豊田の空が、不意に赤く染まった。

「……空が、燃えている……?」

最初に気づいたのは、常羽御厩いくはのみまやに近い村の者だった。

常羽御厩は、軍馬を育てる官営のまきであり、馬具や武具を鍛える炉を備えた、まさに将門の軍事力の“心の臓”であった。

「天が、赤く染まるなんて……」

村人の声は、周囲から集まる冷気に吸い込まれるように消えた。

次の瞬間、常羽御厩の製鉄炉が爆ぜ、地を揺らすような轟音が夜を裂いた。

巨大な火柱が夜空を貫き、馬は狂ったように嘶き、大地は赤く染まった。

強兵の中枢は、呪詛じゅそに呼び寄せられたように、一夜にして炎に呑まれ、灰塵に帰した。


常羽御厩が炎に包まれたその時、良兼は、少し離れた丘の上に立っていた。

夜風が、燃え上がる炎の熱を運んでくる。

その熱を受けながら、良兼は微動だにしなかった。

「……見よ。これが、反逆者の末路よ。」

声は低く、乾いていた。

怒りでも、歓喜でもない。

底のない空洞のような声であった。


源護は、例の壺を抱えたまま、炎に照らされた御厩の全貌をじっと眺めていた。

壺の中で蠢くものが、火の光に反応するように「ぴちり」と音を立てる。

「おぉ……こやつも喜んでおるようじゃ。」

源護の声は、どこか恍惚としていた。


良兼は、炎に照らされた自らの手を見つめた。

――怨みごとは己を焦がす。呪詛を行う者は、魂を喰われる。

炎が爆ぜ、火の粉が夜空に舞う。

その赤い光を映す良兼の眼には、もはや人の心はなかった。

生命いのちを失う者への哀れみも、人の悲しみへの共感も、一片たりとも宿っていない。

ただ、「将門を滅ぼす」――、

その一点だけが、彼の全身を支配していた。

火柱が高く上がるたび、良兼の口元には微かな笑みが浮かんだ。

それは、勝利の悦びではない。

人の情を失った者の、底知れぬ狂気の表象であった。


そして……豊田館とよだのたちにも、地獄の夜が訪れた。

良兼軍の夜襲は、近隣の村々、集落を呑み、やがて豊田の営所一帯にまで及んだ。

炎を巻き込んだ巨大な竜巻は、まるで、猛り狂う赤龍の如く辺りを焼き尽くし、雄叫びを上げているかのようであった。

家屋は焼け落ち、倉庫は炎の中に崩れ、燃え盛る木切れや火の粉が上空高く舞い上がる。

風に乗った火の粉は、手つかずの場所にまで降り注ぎ、飛び火を次々と起こし、人々の逃げ延びる先を塞いだ。

女たちも子どもも、逃げ惑う人々の叫びも、火炎の中にかき消されていった。

――その惨状は、

星見の巫女が幻視した情景と、寸分違わなかった。

兵だけでなく、男たちも武具を手に立ち向かったが、大軍の矢衾やぶすまの前に抗う術はなかった。鬼怒川を背にして次々と倒れ、あるいは炎に呑まれた。

亡き父・良将から受け継いだ常羽御厩も、この豊田営所も、一夜にして灰の原と化した。

翌朝には、「将門の妻子が連れ去られた」あるいは「殺された」という噂が坂東中に広がっていた。

しかし、誰も真実を知らない。

ただ、「炎の中に消えた」ということだけが、確かな事実であった。


黒い灰が風に舞い、焦げた木々が、まるで亡骸むくろのように横たわっている。

常羽御厩も、豊田の営所も、村々も、人々の暮らしも──

何一つとして残ったものはなかった。

将門は、その光景を前に、声を失った。

身体は鉛のように重い。

今はまだ、何の感情も湧いてこない。

ただ、胸の奥にぽっかりと穴が空いたような虚無だけがあった。

(我は……すべて、失ったのか)

その言葉は、声にならなかった。


湿った風が吹き抜ける。

灰を巻き上げ、焼け跡を渡り、将門の衣を揺らした。

将門は、静かに目を閉じた。

その瞼の裏には、かつての豊田の景色が、淡い光となって揺れていた。

そして──

その光は、ゆっくりと、闇に沈んでいった。


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