【5.星崩れの戦、破れの刻】
水守館の本陣には、異様な空気が満ちていた。
良兼が静かに座しているだけで、館の者たちは背筋を冷やした。
頬は削げ落ち、皮膚は土気色に乾き、眼だけが、異様な光を湛えている。
灼熱の夏日に照らされたその顔は、もはや人のそれではなかった。
底なしの闇に魂を売り渡した者の、怪異な輝きであった。
源護は、腕に抱えた土器の壺を、まるで乳飲み子のように大事そうに抱え込んでいた。
壺の中では、何かが蠢き、時折「ぴちり」と音を立てる。
その音は、岩窟の静寂を破ったあの夜の気配を、なお引きずっていた。
源護の眼もまた、常人のそれではなかった。
良兼は、岩窟での呪詛を終えて戻るや否や、まるで戦神が憑いたかのように、自ら軍勢の編成を次々と指示した。
貞盛は、二人の変貌を前に、言葉を失っていた。
「伯父上……まるで、別人のようだ……。我は……怖ろしい……」
その声は震えていた。
“何か別のもの”が親族の皮を被っているのではないか──
そんな底知れぬ恐怖が、貞盛の心を静かに蝕んでいく。
「不動明王は我に応えた。父祖の霊もまた、我らを導く。反逆者・将門を、いまこそ地に伏させる」
良兼の声が響くと、水守館の本陣に鬨の声が満ちた。
それは、呪詛が完成した合図のようでもあった。
三千の兵が、館の周囲を黒く埋め尽くす。
槍の穂先が夏の陽光を弾き、馬の鼻息が荒く立つ。
その中心に立つ良兼は、ただそこにいるだけで軍勢の気配を変える、異様な存在となっていた。
「……出陣!」
良兼の声が轟くと、三千の兵が一斉に鬨の声を上げ、
水守館の地が震えた。
一方、京都から戻った将門は、久しぶりに故郷の風を胸に吸い込んだ。
だが、その風は、かつてのように清々しくはなかった。
胸の奥に、じわりと冷たい影が沈み込む。
――脚のむくみ、息切れ、胸のざわつき、
わずかに歩くだけで視界が揺れ、心拍が乱れ打つ、
まるで身体の奥に魔物が巣食ったかのような苦い重さがあった。
(滝姫は……、“影が我を蝕む”と、あのとき言ったな。)
あの言が、いまになって胸に重くのしかかる。
星観の巫女だけが知る“運命の歪み”。
その歪みが、いま、将門の身体と心を侵していく。
将門は、初めて“恐怖”に似た感情を覚えた。
しかし、将門は病身を押して立ち上がった。
「殿、無理でございます!」
郎党たちが止める。
だが、将門は静かに首を振った。
「良兼が動いた以上、我が動かねばならぬ。この戦、避けて通ることはできぬ」
声は弱っていたが、その眼には、まだ武士としての光が残っていた。
黒騎馬の精鋭が、将門の周囲に集まる。
彼らは主の病を知りながらも、その背に宿る“気”だけを信じて従う者たちであった。
将門は馬に跨がると、痛む脚を押し殺し、
東へ──水守館へ向けて進軍した。
承平七年(937年)八月。
将門軍三百は、小貝川へ到達した。
敵の本陣、水守までおよそ三里まで迫った。
しかし、馬の蹄が泥を吸い、湿地に沈む。黒騎馬の息遣いが荒くなる。
夏の盛りだというのに、川風は冷たく、川面には、どこか不吉な影が揺れていた。
この川で大軍が馬で渡れる浅瀬はただ一つ
──子飼の渡し。
良兼軍はすでに前日から変装兵を潜ませ、此の浅瀬を完全に封鎖していた。
湿原の至る所に薙刀、長刀を構えた伏兵が潜み、川岸には弓兵が列を成す。
まるで、将門を誘い込むために、小貝川そのものが罠となったかのようであった。
やがて、良兼軍の中央に掲げられた旗が、川風に揺れた。
良兼軍が一斉に鬨の声を上げる。
その響きは、火焔の轟きそのものであった。
「突撃ぃぃ!」
良兼の叫びとともに、
湿原から姿を現した敵兵が構える盾には、
――桓武天皇の御影、高望王の肖像、そして良将……将門の父の肖像。
将門の眼は、その画に釘付けとなった。
胸が、刃で裂かれたように痛んだ。
父の顔が、風に揺れている。
その眼は、責めているのか、嘆いているのか。
近習の武者が何事か叫んでいるが、耳に入らない。
三千の兵が一気に押し寄せた。
将門軍は黒騎馬を中心に必死に応戦するが、数の差はあまりに大きい。
矢が飛び交い、槍がぶつかり、川岸はたちまち血で染まった。
それでも将門は、父の肖像から目を離せなかった。
(お前は……どこへ行くのだ)
胸の奥で、誰かが囁いた。
同時に、胸の奥で、何かが崩れ落ちる音がした。
次の瞬間、鋭い痛みが走り、将門の腓を敵の矢が掠めた。
黒騎馬の馬が嘶き、後ずさる。
兵たちの間に、不安が走った。
騎馬が乱れ、将門は近習に支えられて退いた。
その背後で、川面の赤い影だけが、いつまでも揺れていた。




