【2.星辰盤の黒き渦】
将門の本拠地である下総豊田の屋敷は、冬の風に軋むように揺れていた。
滝姫は、星供の御堂に独り座し、星辰盤を前に静かに息を整えていた。
妙見菩薩の星供を行うとき、彼女の心はいつも澄んでいた。
だが、この夜は違った。
胸が、突然きゅっと締めつけられた。
星辰盤の上に浮かぶ七曜(北斗七星)が、淡く光を放つ。
七つの光点が規則正しく並び、静かに瞬いていた。
――その光が、ふいに乱れた。
揺らぎ、歪み、次の瞬間、黒く濁った。
星辰盤の中心に、どす黒い影が渦を巻き始める。
その瞬間、冷たい刃が胸に突き立つような痛みが走った。
滝姫の視界が突如、“二重”に見える。
現実の景色……そして、その上に重なる――おぞましい景色。
燃える村々、炎に呑まれる家々
生きたまま焼かれる兵馬
泣き叫ぶ女たち、逃げ惑う子どもたち
叫び、嘆き、哀しみが、耳ではなく、頭の内側に直接響き渡る。
滝姫は胸を押さえ、その場に蹲った。
息ができない、涙が止まらない。
やがて、すべてが灰となり、色を失い、炭芥が風に散った。
「……これは……未来……? この地で……起こる……?」
震える声が、言葉にならない。
――そのとき、
心の奥から声が聞こえた。
(……これは怨火の呪い。いや、呪詛だ……)
山々の霊気が悪意を増幅し、敵意と害意が渦巻いている。
滝姫がその方向を仰ぐと、視界の奥に巨大な影が立ち上がった。
筑波山の二つの峰に足を掛け、緋縅の巨鎧をまとった骸が、燃え盛る矢をつがえ、将門を射殺そうと狙いを定めている。
その先陣として、口から火を吐き、天を蛇行しながら進む赤龍が現れた。
闇を裂いて現れたその龍は、生命を呑み込み、大地を焼き尽くしながらこちらへ迫ってくる。
(……これが……この地に災禍をもたらすもの……)
次に見えたのは、父、将門の姿だった。
矢を受け、血に濡れ、それでも立ち上がる。
黒い鎧をまとい、黒馬にまたがり、炎の中を進む。
滝姫の小さな手が震えた。
「……父上の影が……濃くなっている……」
将門から、七つの影が伸びていく。
将門の七つの影は、悲哀と憎悪と激しい怒りとを呑み、激しく慟哭する。
そして――滝姫は水鏡の中に自分自身を見た。
白い顔。
黒い髪。
だが、その姿は幼い巫女ではなかった。
滝夜叉姫。
黒い衣をまとい、星辰盤を手に、影を従える巫女。
その目は、影を“視る”目ではない。
影を“操る”目だった。
滝姫は震えた。
その瞬間、未来の影が足元に落ちた。
黒い手が、滝姫の足首を掴む。
「ひッ……!」
影が囁く。
(お前も影になる……、お前も影を生む……、お前は影を従える……)
滝姫は星辰盤を抱きしめ、必死に首を振った。
「いや……いや……! わたしは……!」
影が笑う。
(何も救えぬ、運命はある。
将門は闇に堕ち、お前は夜叉となる。)
――突然、
視界が白く弾けた。
滝姫が倒れかけた瞬間、社の扉が勢いよく開いた。
「滝ッ!」
将門が駆け込み、娘を抱きとめた。
その瞬間、未来の影は霧のように消えた。
滝姫は震える声で言った。
「……未来が……見えました……」
将門は息を呑む。
「滝姫……」
滝姫は涙をこぼさず、ただ静かに言った。
「父上は……地の怨火と戦う者です。
影は……これから父上の怒りと悲しみを食べていきます。
このままでは……父上は“闇そのもの”になってしまう……」
将門は娘を抱きしめた。
「どういうことだ……」
滝姫は震える声で答えた。
「父上は……やがて影に飲まれ始めます……」




