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『完璧に嫌われたはずが、氷の公爵だけは嘘を見抜いて離さない〜戦場カメラマンの悪役令嬢〜』  作者: 羊皮紙のヤギ


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第7話 学園入学と、観測者

 革靴の踵が、磨き上げられた廊下の石床を叩く。

 乾いた、硬質な音。

 それが等間隔に刻まれるたび、私の脊椎は垂直に引き伸ばされ、鉄の芯が通ったかのように固定される。


 学園生活が始まって、三十度目の朝。

 窓から差し込む春の光は、すでに冬の鋭さを失い、皮膚の表面をなぞる微かな湿り気を帯び始めている。


 空気の中には、温室から流れてくる薔薇の濃厚な芳香と、古びた石造りの校舎が吐き出す湿った塵の匂いが混ざり合っていた。


 私は、誰よりも早く教室の扉を開ける。

 真鍮の取っ手に指をかけると、金属特有の冷たさが掌の熱を奪っていく。

 一瞬の空白(ラグ)

 ドアが内側の気圧を押し返す手応えを腕に感じながら、私は「公爵令嬢(ヴィラン)」の空気へと足を踏み入れた。


 最前列、右から二番目の席。

 樫の木の机に指先を滑らせると、微かな木目の凹凸が指紋を刺激する。

 私はそこに、一ミリの狂いもなく腰を下ろした。

 背もたれに触れるか触れないかの距離で背筋を止め、視線を教科書の白地に落とす。


 隣の席に、アルベール殿下が座る気配がした。

 高価な香油と、わずかに焦げた馬の毛の匂い。

 彼が口を開き、社交的な定型句を投げかけてくる。

「おはよう、調子はどうかな」


 私は顔を上げず、口角の筋肉だけを三ミリ引き上げた。

 頬の裏側が、糊付けされた布のように突っ張る。

「おはようございます、殿下。わたくしの体調を案じるよりも、午後の帝王学の予習に時間を割かれてはいかがかしら」

 声から一切の湿度を抜き、乾いた砂のように言葉を置く。


 殿下の視線が、私の側頭部に物理的な重み(プレッシャー)としてかかるのが分かった。

 しかし、私はその重みを無視し、次のページに指をかける。

 紙の縁が指の腹を切るような鋭利な感覚。

 それを合図に、私は彼との間に「見えない壁」を構築した。


 中庭を通りかかる際、視界の端に「不自然な色彩」が飛び込んできた。

 花壇の隅、本来なら来月まで眠っているはずの大輪の花が、重力に逆らうように花弁を広げている。

 その瑞々しさは、周囲の植物から生命力を吸い上げているかのように不気味だった。


 ステラ・メルヴィユが、今朝ここを通ったのだ。

 彼女の指先が、あるいは歩む際の衣擦れが、大気に魔力の雫(ノイズ)を零していった。


 聖女という名の特異点。

 その存在が、この世界の物理法則を静かに、しかし確実に歪め始めている。


 昼休みの教室は、奇妙な真空状態を作り出していた。

 ステラの机の周囲だけ、空気の対流が止まっている。

 他の生徒たちの嘲笑を含んだ囁きが、彼女を避けるようにして渦を巻き、その中心にだけ底冷えする沈黙が澱んでいた。


 彼女が手にしている教科書の端が、無残に千切れているのが見えた。

 インクのシミが、雪のような白い紙の上に醜い斑点を描いている。

 犯人の意図的な「悪意」が、その汚れた紙面から立ち上る腐敗臭のように鼻をついた。


 これほどまでに精密な嫌がらせ。

 十五歳の少女たちの短絡的な衝動によるものではない。

 それは、獲物の喉元を確実に締め上げるための、訓練された猟犬(プロ)の手口を思わせた。

 私は喉の奥に、鉄のような不快な味を感じる。


「……誰かが、糸を引いているわね」

 裏庭の古いベンチに腰を下ろし、私は独り言を吐き出した。

 木材の腐りかけた匂いと、春の陽光が混ざり合う。

 私は目を閉じ、脳内に散らばった情報の断片(ピース)を現像していく。


 マルグリット・セルヴァン。

 その名を思考の焦点に据えた瞬間、胃の底がじわりと冷たくなった。

 彼女の翡翠色の瞳。

 ステラの肩に触れる、あのあまりにも滑らかすぎる指先の動き。


 彼女は、壊れかけた陶器(ステラ)を慈しむように守りながら、その実、裏側でヒビを深めているのではないか。

 その構図を思い描いたとき、私の心拍がわずかに速度を上げた。

 前世の泥濘の中で見た、裏切り者の顔。

 その記憶が、現在の光景とシンクロを起こす。


 だが、私の指は動かない。

 私が動けば、物語の歯車が狂う。

 アルベール殿下がステラの涙を拭い、その絶望を自らの手で掬い上げる。

 その契機を奪うことは、この世界そのものを破壊する行為に等しい。


 私は、自分の手のひらを見つめた。

 白く、細く、何も掴もうとしない手。

 私は、雇い入れた護衛たちが影のように彼女を見守っている事実だけを、心の隅に沈殿させた。

 それ以上の介入は、私という存在の不純物(ノイズ)を増やすだけだ。


 放課後の薬草園。

 温室のガラス扉は、熱を孕んで重くなっていた。

 押すと、蝶番が微かな悲鳴を上げる。

 中の空気は、むせ返るような緑の匂いと、土が発する湿った熱量に満ちていた。


 私は手袋を嵌め、鉢植えの土に指を潜り込ませる。

 湿り気を帯びた土の粒子が、爪の間に食い込もうとする抵抗。

 教材用の見せかけの植物ではなく、私はその奥に隠した「肺炎の特効薬」を検分していた。

 夜の帳に紛れ、誰にも知られず、死の影を払うための準備。


 背後で、ガラスが震える音がした。

 風ではない。

 明確な質量を持った何かが、温室の境界を侵犯した音。

「――何をしている」


 その声は、物理的な衝撃となって私の背中にぶつかった。

 肺の奥の空気が、一気に押し出される。

 硬直。

 指先が土の中で止まり、心臓が肋骨の内側を激しく叩き始める。


 ゆっくりと、首の骨が軋む音を聞きながら振り返る。

 入り口には、夕日を背負った巨大な影が立っていた。

 銀灰色の髪が、逆光の中で鈍い鉛のような光を放っている。

 レオン・ノワールクール。


「あら、ノワールクール公爵。……ごきげんよう」

 私は、剥がれかけた仮面を必死に張り直した。

 口角を上げ、呼吸を整え、瞳に光を宿さない。

 だが、彼の青い瞳が私を射抜いた瞬間、その視線が私の皮膚を透過し、内臓の震えまでを数えているような錯覚に陥った。


「植物学の課題の……標本を手入れしているだけですわ。ここは教材管理の許可を――」

「それは嘘だな」

 彼が半歩、踏み出す。

 そのたった一歩で、温室内の空気の密度が跳ね上がった。


 レオンの視線が、私の指先が触れている薬草に固定される。

「教材用のルナリアではない。それは、この季節に流行る肺病を鎮めるための根だ」

 喉が、不自然に収縮した。

 嚥下しようとした唾液が、粘り気を帯びて喉奥に張り付く。


「……お詳しいのですね」

 ようやく絞り出した声は、自分の耳にも見知らぬ他人のもののように響いた。

「俺の領地は冬が長い。医師が届かぬ村では、この根の数だけ命の重みが変わる」

 レオンは、淡々と事実だけを述べた。


 彼が私に近づく。

 彼の纏う冷気が、温室の熱帯的な湿り気を切り裂いていく。

「ノワールクール公爵。わたくしの趣味に、何か異議でも?」

「ない」

 断ち切るような拒絶。


 彼は私の目の前で足を止め、私を見下ろした。

 至近距離で感じる、彼の圧倒的な実在感(ボリューム)

 彼は、この世界のどこにも属さない、剥き出しの質量の塊だった。

「お前が何を救おうとしているかなど、俺には関係ない。……だが」


 彼は背を向け、扉へと歩き出す。

 その足取りには、迷いも、ためらいもない。

 扉の取っ手を掴んだまま、彼は振り返らずに言った。

「その笑顔は、昨日と同じ嘘だ」


 硝子が閉まる音が、静かな温室に銃声のように鳴り響いた。

 彼が去った後の空間には、彼の体温の残響だけが、不在の重力として色濃く残っている。

 私は、震える指をもう一方の手で押さえ込み、棚の支柱に身を寄せた。


 鉄の味が、さらに強くなる。

 彼だけが、私の構築した世界(ハリボテ)に手を伸ばし、その裏側の汚れを暴こうとしている。

 恐ろしい。

 その瞳に見つめられるたび、私は自分が「一人の人間」であることを思い出してしまう。


 私は、薬草の鉢を抱きしめた。

 ざらついた陶器の感触が、腕の皮膚を通して私を現実に繋ぎ止める。

 夕日はすでに沈みかけ、温室の隅から濃密な闇が這い出してきていた。

 その闇の中に、レオンの言葉だけが、消えない火傷の痕のように熱を持って居座り続けていた。

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