第8話 裏庭で感じた視線
革靴の踵が、磨き上げられた石床を叩く。
乾いた、硬質な音。
一歩ごとに、足の裏から骨を伝って、王立学園の持つ「選別」という名の質量が身体に蓄積されていく。
建国以来の歴史を積み上げた校舎は、それ自体が巨大な重力場だ。
廊下を流れる空気は、魔力と血統の純度によってその密度を変える。
ここでは「振る舞い」こそが物理的な界面となり、格付けの低い者を静かに押し潰していた。
そして、この学園は私にとっての処刑台でもある。
破滅へと向かう脚本を現像するための、暗室。
私はそのことを、胃の奥に沈殿した「冷たい石」のような重みとして、毎朝確認する。
最初の講義、「王国史」。
大教室の真鍮の重い扉を押し開けると、数百年分の塵とインクの匂いが混ざり合った、湿った熱気が肺に流れ込む。
座席は、血の濃さをそのまま図式化した、冷酷な座標系として配置されていた。
最前列、中央。
そこは王家の光が最も強く降り注ぐ、選ばれし者のための特等席。
アルベール殿下の隣に腰を下ろすと、彼の纏う高価な香油の匂いが、目に見えない圧力となって私の皮膚を撫でる。
私は背筋を垂直に固定し、視線を前方の一点に合焦させる。
教授の語る単調な叙述が、静寂の底に一滴ずつ落ちては、波紋も立てずに消えていく。
だが、私の意識は、背後の視界の外へと偏向していた。
教室の最後方。
そこには、光の届かない周辺視野に追いやられた者たちが、肩を寄せ合っている。
そのさらに端。
一人の少女の周囲だけ、空気の対流が止まり、不自然な真空が生じていた。
ステラ・メルヴィユ。
蜂蜜色の髪が、薄暗い席でわずかに散乱している。
隣の席の令嬢が、あからさまな摩擦音を立てて、絹のドレスの裾を彼女から遠ざけた。
その微かな布の擦れる音が、鋭い刃物のようにステラの境界を切り裂く。
教室中に充満する、声なき悪意。
それは情報の伝達ではなく、物理的な「排除の力学」としてそこに存在していた。
誰かの吐き出す溜息が、ステラの細い背中に氷の楔を打ち込んでいく。
ステラは、机に並べられた教科書の白地に、必死でしがみついていた。
視線が、紙面の上で細かく震動している。
握りしめられた指先は、血液を失って死者のように白く、その震えを隠そうと爪が手のひらに食い込んでいた。
前世で、戦場の瓦礫の中でレンズを覗き続けた時の、あの不快な焦燥が喉の奥までせり上がってくる。
「謝らなければ」
そんな無意味な言葉が、嚥下できない塊となって、食道を塞ごうとする。
羽ペンを握る私の右手に、意図しない荷重がかかる。
ペン先が紙を引っ掻き、不快な高音が脳内に響いた。
私がただ一言、「静粛に」と発すれば、この重苦しい空気の均衡は一瞬で崩壊するだろう。
しかし、私は唇を石膏で固めたように動かさない。
私の役割は、この残酷な構図を維持すること。
彼女が流す純粋な涙が、アルベール殿下という正義を呼び寄せるための、絶対的な誘引剤となるのだから。
私がここで手を差し伸べれば、殿下が彼女を守る決定的な瞬間は永遠に失われる。
その「喪失」は、この世界の救済という名の物語そのものを、現像失敗へと追い込む。
心の中に重い遮光板を下ろし、私はステラの存在を意識の周辺へと追いやった。
講義が終わると、周囲の温度が数度上がったように感じられた。
上位貴族の令嬢たちが、芳香の霧を纏いながら、私の周囲へと集積してくる。
「セレスティーヌ様、お美しいわ」
「そのノートを、ぜひ――」
私は椅子から立ち上がり、顔面の筋肉を数ミリ単位で固定する。
内側から冷たい石膏を流し込んだかのように、表情が硬化する。
一切の温度を剥ぎ取った、鋼の笑顔。
「感謝いたしますわ。ですが、わたくしの時間は、あなた方のために切り売りするものではありませんの。ごきげんよう」
声から湿度を抜き、乾いた礫のように言葉を置く。
令嬢たちが、目に見えない壁に衝突したかのように、不自然な足取りで後ずさった。
これでいい。
誰の記憶にも、私の「心」を残留させてはならない。
私が冷徹な偶像として完成するほど、物語の解像度は高まっていく。
廊下で、アルベール殿下と視線が交差した。
彼の翡翠色の瞳には、私の態度に対する明確な「拒絶の質量」が宿っている。
「セレスティーヌ嬢、相変わらずだな。心というものが、君にはないのか」
彼の言葉は、私の胸を貫通せずに、その表面に重い残留感を残した。
私は完璧な礼を披露しながら、心の中でその摩擦を数える。
彼が私を遠ざけるほど、彼は物語の結末へと、安全に加速していけるのだ。
――
昼休み。
学園の喧騒と、媚びるような甘い匂いが充満する回廊を抜け、私は足を速める。
目指すのは、敷地の外れ。
誰も訪れず、時間が堆積して澱んでいる、古い裏庭。
そこには、手入れを放棄された木々が、重力に従って枝を垂らしている。
蔦の絡まる石造りのベンチ。
湿った苔の匂いと、朽ちていく葉の土臭い芳香。
ここだけが、私の顔に張り付いた「完璧な仮面」を脱ぎ捨てられる、真空地帯だった。
ベンチに腰を下ろすと、石の冷たさがドレス越しに皮膚を噛む。
ほうっ、と深く、長く、肺の底に溜まった汚れた空気を吐き出した。
顔の筋肉の緊張が解け、視界がわずかに滲む。
そこに座っているのは、悪役令嬢でも記録者でもない、ただの、怯えた少女だった。
「……ステラの孤立、殿下との距離感。すべては計画通り」
独り言が、木漏れ日の落ちる静寂の中に、吸い込まれていく。
私が悪役としてすべての憎悪を吸着し、静かに退場する。
そうすれば、誰も傷つかない。
だが、その安堵の底に、一つの異物が沈んでいる。
「レオン・ノワールクール……」
その名を呟いた瞬間、春の陽光が急激に色を失ったように感じられた。
原作という名の設計図において、彼だけが唯一、現像されていない空白の領域。
この閉ざされた箱庭において、彼という変数だけが、不気味な重力を持って私の背後に居座っている。
その正体を掴もうとするたび、私の思考は事象の地平線の手前で立ち止まってしまう。
「……読めない。あの人の視線だけは」
そう呟いた、その時だった。
背後の、鬱蒼とした木立。
そこだけ、空気の粘度が不自然に高い。
視線という名の、冷たい針が、うなじの皮膚を貫こうとしていた。
脊髄が凍りつき、心拍が暴力的なリズムで肋骨を叩く。
仮面の下の、剥き出しの素顔を、誰かに露光されているような恐怖。
「誰……?」
反射的に立ち上がり、振り返る。
そのコンマ数秒の間に、私は石膏の仮面を顔面に叩きつけた。
瞳に冷たい光を宿し、口角を完璧な角度で固定する。
しかし、茂みの奥には、誰もいなかった。
春の風が通り抜け、青々とした葉が、不気味な摩擦音を立てて揺れているだけだ。
鳥のさえずりが、妙に遠く、虚無のように響く。
見た目には、何もない。
だが、私のうなじには、まだあの視線の感触が熱を持って残っていた。
何かがそこに立ち、私のすべてを観測し、そして静かに立ち去った気配。
震える指先を、ドレスの襞の奥に隠す。
私は、逃げるように裏庭を後にした。
背後から、見えない巨大な質量が、私を飲み込もうと追いかけてくるような錯覚に、何度も足を縺れさせながら。




